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「──結婚ですか?!」

あまりの衝撃に、思わず椅子からずり落ちそうになった。面会室に響いた自分の声が、壁に跳ね返って耳に届く。その余韻の中で、私は唖然と弁護士を見つめた。


"では、これからの手続きについてご説明します"

さっきまでそこにいた風見さんが退室し、入れ替わるようにして弁護士が席についた。
──ここを出られるなら、どんな方法でもいい。そう思っていた私に、彼の口から飛び出してきた言葉は、そんな覚悟をはるかに超えた衝撃だった。


「書類上の話です」

淡々とした声が告げる。目の前の弁護士は、まるで天気予報でも話しているかのように冷静だった。
いや、こんな話を聞かされる私の身にもなってほしい。

「しょ、書類上って……?」
「法的な処理の話です」

そう言いながら、弁護士は手元の書類をめくる。そこには、整然と並んだ文字と赤い判子の押された書類が綴じられていた。公的なものだとひと目でわかる、整ったフォントで私の名前が書かれている。

「昨年、アメリカで結婚したことになっています」
「け、結婚し……た?!」

声が裏返るのが自分でもわかった。
思わず耳を疑う。結婚"する"のではなく、すでに結婚"している"──?

「誰と?え?私が? 何の冗談ですか?」

パニックのあまり、支離滅裂な言葉が口から出る。
私が結婚?冗談も大概にしてほしい。ここに来るまでの人生を振り返ってみても、勉強ばかりで、恋愛にほとんど縁がなかった私が、いきなり「既婚者」になっているなんて……あり得ないにも程がある。
もしかして私はまだ眠っていて、変な夢を見ているだけなんじゃないだろうか。そんなパニックの中、弁護士は相変わらずの冷静さで、書類を見つめながら淡々と続けた。

「宮間さんの問題は、"身元不明の件"と"警察に証言せずに逃げた件"です」
「はあ……」
「そこで──"屋上での襲撃の際、実はあなたもその場にいた"」
「………………」
「"そして、ポアロの人気店員との極秘結婚が知られるのを恐れ、逃亡した"」
「……………………」
「そう説明すれば、問題は解決します」

私は言葉を失った。
──ちょっと待って。

「……ポアロの人気店員って……」
「安室透さんのことですね」

弁護士はあっさりと告げた。私の思考がそこで、完全に停止した。
──安室さんと、結婚……?
私が……?

「う、うそでしょう……?」

言葉にできる限界が、それだった。胸の奥から込み上げる何かがあったけれど、それが戸惑いなのか、驚きなのか、それとも別の感情なのか、自分でも整理できない。
"ポアロの人気店員"、という言葉が出た時点で、頭のどこかで察していた。けれど、実際に弁護士の口から「安室透」という名前を聞いた瞬間、心臓が止まりそうになった。

「まさか、安室さんがこの話を……?」
「もちろん。"あなたが拘置所を出られるよう、最善の策を考えた"と仰っていました」

私は、机に突っ伏した。頭が痛い。
──安室さん…!どうしてこうなるんですか!?
脳が、情報の処理を完全に拒否している。結婚って、そんな簡単に決めていいものだったっけ?

「"借りを返す"と言っていましたよ」

その言葉を聞いた瞬間、もう一度頭を抱えた。弁護士の淡々とした声が、呆れた私の頭上から降ってくる。
借りを返す……?私が安室さんを助けたことへの「借り」が、まさかこんな形で返されるとは思ってもいなかった。
顔を上げて、深く息を吸い込む。

「……私は……私の意思は、無視ですか?」

なんとか絞り出した声は、ひどくかすれていた。弁護士は、まるでこの程度の混乱は想定内とでも言わんばかりに、微かに微笑んでみせる。

「あなたの意思に反する形ではありませんよ」
「え……?」
「"りかさんが望まないなら、拒否すればいい"と仰っていました」

たしかに、この突拍子もない結婚の話を受け入れる義務なんて私にはない。拒否すれば、安室さんだってそれを無理強いするつもりはないのだろう。
安室さんは、私の意思を尊重してくれている。こんな状況でも、私に選択権を持たせようとしてくれるなんて…。

「……安室さん……」

胸が温かくなり、思わず小さく名前を呟いた。
その時だった──。

「"ただし、それ以外の方法が思いつくなら"とも仰っていました」

弁護士が、淡々とした口調で付け加えた。

「……え?」

一瞬、思考が止まる。安室さんの言葉を、もう一度頭の中で反芻はんすうした。
──結婚を拒否してもいい。
──しかし、それ以外の方法があるなら。
つまり、ないなら受け入れるしかないということだ。

「……それ以外の方法……」

呆然としたまま、思わず小さく呟く。
答えは、最初から決まっていたのだ。他の手段があるなら、と言われたけれど、そんなものあるわけがない。
だって、安室さんが他の方法を見つけられなかった時点で、それはつまり「存在しない」と同義だ。私は彼ほど優秀ではない。彼が見つけられなかった方法を、私が見つけられるわけがない。
拒否すると、身元不明のままでは、私は永遠に自由になれない。証言せずに逃げた以上、正当な理由がなければ私は犯罪者として扱われる。

「つまり……私が拒否できるはずもない、ということですね」
「ご理解が早くて助かります」

弁護士は、にこりと微笑みながら、机の上に書類を並べた。まるで、最初からこの結論に至ることをわかっていたかのように。
安室さんは、「拒否すればいい」と言いながら、拒否できない状況を完璧に作り上げていた。選択肢を与えているようで、実際には何も選ばせていない。
──まったく、あの人らしい。息を吐き、目を閉じる。

「……どこにサインすればいいですか?」

これが、私の「自由」への道なら。
そして何より、それが安室さんの決断なのだとしたら──。私は迷わず選ぼう。










「被疑者は在米日本人。20○○年5月、出張中の安室氏と出会い、9月にシカゴで極秘に結婚を――合ってますか?」
「え?……あ、は、はい」

部屋の空気が重い。拘置所とは違う、もっと硬質な圧迫感が肌にまとわりつく。
検察庁の一室、中央には無機質な灰色のテーブルとソファ。静まり返る空間の中で、私そのテーブルの端に座らされていた。
隣には弁護士。対面には検察官。まるで「これから君の人生を決める裁判を行います」と言わんばかりの布陣に、背筋がピンと張る。

「書類を見せてください」

検察の言葉に、弁護士が無言で分厚いファイルを開き、机の上に広げる。目の前に並べられたのは、何枚もの公式文書。紙の端にはのどこかのアメリカの市の紋章、そして――

Marriage Certificate結婚証明書

英語でそう記された書類が、目に飛び込んできた。
言葉を失う。な、何これは…?
そこには自分の名前と、隣に並ぶ見慣れた名前―― Toru Amuroの文字。書類はあまりにも整っていて、まるで本当に私たちが昨年、極秘結婚していたかのような完璧な形を成していた。
これ、まさか偽造じゃ…。

「内容に間違いはありませんか?」
「……は、はい」

書類に視線を落とす検察官は、当たり前の事実を確認するように淡々と進めていく。
な、何あれは?シカゴ?結婚?偽造文章?そんなことしたら罪が増えるのでは…?頭の中がぐるぐると回り、気づけば背中をつうっと冷たい汗が伝う。こんな大嘘、簡単に見抜かれてしまうのではないか。
一方、隣の弁護士は表情を崩さないまま、さりげなく足を組み直し、静かに私を見ていた。まるで 「黙ってれば大丈夫だ」 とでも言いたげな、無言の圧。

「逮捕当時、安室氏と同居していたのも事実ですね?」
「………は、はい」

もうこれは完全に 「そういうこと」 になっているんだ。確かに彼の部屋にはいたけど、それは同居とは言えない。いや、言うなれば、あれはほぼ監禁だった。
私は内心でツッコミながらも、必死に言葉を飲み込む。

「襲撃現場から逃亡した理由ですが、2人の極秘結婚が報じられるのを恐れたためですね?」
「………はい」

これも、嘘。だけど、否定することは許されない。これはシナリオ通りの回答をするだけ。安室さんが考えた”合法的な救済策”だから。

「ご結婚の事実は、なぜ公表されなかったのですか?」
「え……」

思わず視線が泳ぐ。どうしよう、これはシナリオになかった質問だ。どう答えるのが正解なのか。
横目で弁護士に助けを求めると、すかさずフォローに入る。

「身の安全を考慮して、第三者には知らせておりませんでした」
「……なるほど」

検察は納得したように頷き、書類にペンを走らせる。
本当に、大丈夫なのだろうか?私の冗談みたいな設定が事実のように進んでいく。心の中で、これって詐欺の共犯にならない?と焦る。でも、これが嘘だと突っぱねたらまた拘留が延びてしまうし…。

「では、今回の件を受けて、アメリカから日本へ戸籍を移す手続きを進める意志はありますか?」
「えっ…?」

動揺のあまり、思わず椅子から立ち上がりそうになる。すかさず弁護士が、私の膝の上にそっと手を置き、小さく首を振る。

「現時点での戸籍手続きについては、後ほど本人と相談のうえ、適切に対応させていただきます」

弁護士が冷静に答えると、検察は「なるほど」と呟き、書類の端に捺印した。

「……では、本件については法的手続きを進め、被疑者の釈放を決定します」

── 釈放。
その言葉が響いた瞬間、ようやく拘置所生活の終わりが見えた。この小さな部屋の中に、静かに広がる解放の気配。
ようやく、ようやく外に出られる。
私は胸の奥で小さく安堵の息をついた。



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