34


拘置所の門が開いた瞬間、眩しい光が視界を焼いた。
ずっと薄暗い独房の中にいたせいで、太陽の光がこんなにも強烈だったなんて。思わず手で額を覆いながら、一歩、外へ踏み出す。
暖かい風が頬を撫でた。少しだけ湿気を含んだ夏の空気。草木の匂い。車が通り過ぎる音──何もかもが、自分だけが止まっていた時間の中から、置いていかれたように思えた。

「……宮間さん」

聞き慣れた低めの声に、顔を上げる。
門のすぐ外で待っていたのは、風見さんだった。相変わらず、きっちりとした緑のスーツ姿に、どこか張り詰めた空気をまとっている。

「……お疲れさまでした」
「あ、ありがとうございます…」

そう言って、車のドアを開ける風見さん。
私は呆然としながらも、ゆっくりと車へ乗り込んだ。助手席に座ると、ドアが閉まる音がやけに大きく響く。エンジンがかかり、車が滑るように発進した。
拘置所の建物が遠ざかっていく。それを見つめながら、私はやっと自由になれたことが実感できてきた。

「安室さんは……?」

そう口にすると、風見さんはハンドルを握ったまま、ちらりとこちらに視線を寄越した。

「本日は夜まで仕事で戻れません。自宅にお送りするよう指示を受けています」
「えっ、自宅?」

思わず聞き返すと、風見さんは淡々と頷いた。
"自宅"って、この世界に私の自宅はもちろんない。ということは、考えられるのは“安室さんの自宅” だけ。あのMAISON MOKUBAに一緒に住むということ?

「いくらなんでも、安室さんと一緒にあの家に住むのは……」
「人目もありますし、今はそうするのが良いかと」
「で、でも……何かマズい気が……」

いくら結婚したとはいえ、それは書類上の関係にすぎない。夫婦なんて呼べるほどの実感もないし、私たちの間に築かれたものは、長い時間をかけて育まれた愛情ではなく、たった数枚の契約書と、それを裏付ける嘘の経歴だけ。告白はしたが、明確な返事はなく、そういった関係になったのかも危うい。
それなのに、こうして今から彼の生活圏に足を踏み入れようとしている。

「安室さんは夜に戻ります。それまではお好きにお過ごしください。なにか必要なものがあれば、ご連絡を」

さらりと告げられ、有無を言わせぬまま車は目的地へと向かっていく。
いやいや、ちょっと待って。あの場所は安室さんが一人で暮らし、仕事の疲れを癒やし、誰にも邪魔されずに過ごしていた空間だ。そこに、突然「妻」という肩書きを背負った私が入り込んでしまって、本当に大丈夫なのだろうか。以前も数日お世話になったが、あの時と今は状況が違う。
それに、安室さんの人気を考えれば、この関係が世間に知られることのリスクは計り知れない。ポアロの人気店員としても名の知れた彼の自宅に、女性が出入りする姿を誰かに見られでもしたら……。ただの疑惑では済まされない。下手をすれば、ネットの片隅から一瞬にして炎上し、とんでもない騒ぎになりかねない。考えれば考えるほど、背筋がひやりとする。
そもそも私は、彼と並び立てるほどの存在なのだろうか?まるで無理やり”妻”という立場に押し込まれたみたいで、どうしても違和感が拭えない。
そんな動揺を抱えたまま、車は見覚えのあるアパートの前へと到着してしまった。

「降りてください」
「えっ、あっ、ちょ、ちょっと待って──」
「鍵です」

風見さんはそう言って、私を助手席から追い出すと、無機質な金属の鍵を手のひらに落とす。

「では」

私が言葉を絞り出す間もなく、風見さんはそそくさと運転席に戻り、あっという間に車を発進させてしまった。

「……え」

私は、ぽつんと1人、安室さんの住むアパートの前に取り残された。
鍵を握ったまま、ゆっくりと見上げる。以前も訪れた、見慣れた外観。だけど、今日は妙に違って見えた。
喉が、ごくりと鳴る。意を決して、エントランスへ足を踏み入れると、真っ直ぐに階段へ向かった。鍵をぎゅっと握りしめたまま、一段ずつ足を踏みしめる。じわじわと押し寄せる緊張感に、踊り場で小さく息を吐いた。まだ数階しか上がっていないのに、心臓が無駄に高鳴る…。
目的の階に着いた途端、さらに胸の鼓動が速くなるのを感じた。長い廊下を進み、ついに──あの扉の前に立つ。息を整え、震える指で鍵を鍵穴に差し込んだ。

カチャリ。
音が響き、ドアがゆっくりと開いた。中は──相変わらず、整理整頓の行き届いた空間だった。

「……」

どうすればいいのかわからず、とりあえず靴を脱ぐ。何をすればいいのか、どこにいればいいのか……戸惑いのまま、リビングへと足を進めた。

「……とりあえず、手を洗おう」

変な汗をかいた気がする。少し落ち着くためにも、水に触れた方がいい。
そう思い、洗面所へ向かう。蛇口をひねり、冷たい水をすくって顔に当てる。ふう、と息を吐いて顔を上げた瞬間──
視界に飛び込んできたものに、動きが止まった。

── 歯ブラシが、二つ。透明なコップに立てかけられた、見覚えのある歯ブラシ。そして、その隣に、新しい一本。明らかに、使われていない新品のもの。

「……え?」

まさか。まさか。
そっと手を伸ばし、新しい歯ブラシを指でつまむ。白い持ち手。毛先は揃ったまま、まだ誰の手にも馴染んでいない。隣には、二つのコップ。
もしかして、と洗面台の戸棚を開くと、女性用の基礎化粧品が一通り用意されている。洗濯機の上には、女性用のルームウェア。
私がここに来ることを見越して、安室さんが用意してくれたのだろう。

── 私、本当に結婚したんだ……。
今さらながら、その現実が全身にのしかかる。たしかに、戸籍上の"嘘"の結婚。それでも、目の前のこの生活感は、どうしようもなくリアルで。
── どうしよう、心の準備が、全然できてない……。
洗面所の鏡に映る自分の顔が、ひどく戸惑った表情をしていた。











「……ふぅ」

湯気がほのかに漂うバスルームから出てきて、大きく息を吐いた。全身がじんわりと温まり、心なしか肩の力も抜けた気がする。

「入浴したから、すっきりした……」

独り言のように呟きながら、バスタオルで髪の水気を拭う。拘置所生活では、満足にお風呂に入ることすらできなかった。せいぜい決められた時間内に、ささっと体を流す程度。久しぶりに湯船に浸かることができたせいか、肌がほんのりと上気している。
でも……勝手にお湯を沸かすの、まずかったかな。安室さんが帰ってきたとき、「無断で使うなんて」って戸惑ったりしないだろうか。いや、さすがにそこまで細かいことは言わないのは分かっているけど。風見さんも好きに過ごしていい、と言っていたし…。
おそるおそるリビングへ戻り、ベッドの側に腰を下ろす。

──することが、ない。
テレビはないし、スマホも今は手元にない。
あ、でも……。ふと、ある考えが頭をよぎる。
部屋を見て回るくらいなら……いいよね?もちろん、そんなことはダメに決まっている。わかってはいる。
けれど、以前ここに来たときは、そんな余裕すらなかった。過労で倒れた状態で転がり込むようにやってきて、逃げる算段を考えてばかり。
今なら、じっくりと見られる。

安室さんがどんな部屋で、どんな暮らしをしているのか──それをもっと知りたくなった。
こっそり、そろりと立ち上がり、周囲を見回す。誰もいないことを確認し、小さく息を吸った。
ちょっとだけ……ちょっとだけだから!意を決して、押し入れの戸をそっと開ける。中には、きっちりと畳まれた衣類が並んでいた。その隅に──見覚えのあるものが目に入る。

これ……。手を伸ばし、そっと指先で布地をなぞる。
以前、安室さんが私に用意してくれた服だった。それが、こうして大切に残されている。処分されてしまったかもしれないと思っていたから、少しだけ──いや、かなり嬉しかった。
じんわりと心が温まる。だが、その感傷も長くは続かなかった。

「ん……?」

目線を下げると、収納ボックスが目に入った。
少しだけ好奇心が勝り、しゃがみ込み何気なく開けてみる。

「──っ!!!」

瞬間、視界に飛び込んできたのは、男性用の下着。ご丁寧にきっちりと畳まれ、整然と並べられていた。
しまった、と思ったときにはもう遅い。慌てて勢いよく閉じようとした、その瞬間──

「3番ですよね?」
「ひっ……!!!」

背筋に冷たいものが走った。固まったまま、ゆっくりと振り向くとそこに安室さんが立っていた。静かにこちらを見下ろしている。
い、いつの間に?顔が一気に熱くなる。なんで、なんで、このタイミングで帰ってくるの?

「あなたの好みは、“怪しい組織の一員” である僕ではありませんか?2番で良かったのですか?」

低く落ち着いた声で問いかけられる。その顔には、どこか含みのある微笑みが浮かんでいた。

「は、早かったですね…いつ帰宅を…?」

喉がひりつくような感覚の中で、なんとか絞り出した。

「今です。……それより」

安室さんは静かに視線を落とし、ほんのわずかに首を傾げる。

「カフェの店員が好きって、合ってますか?」
「……え?」
「違うような気もしますが……」

その言葉に、ますます頭が真っ白になる。収納ボックスの中の物が目に入り、恥ずかしさのあまり爆発した。
バーボンは絶対にダメだ。それだけは阻止しないと。その世界に足を踏み入れてしまったら、最後なのだから…!

「わ、私は……!中身が分からず開けただけです!」
「そうですか?」

全力で否定をするが、安室さんはどこか楽しげに目を細める。

「それにしては、ずいぶんと長く眺めていたような気がしますが……」
「す、スルーしてください!!」

心臓が飛び跳ねる勢いで、思わず声を張り上げた。
バタン!と勢いよく引き出しを閉じる。顔は火照り、耳の先まで赤くなっているのが自分でも分かる。
安室さんは私の肩越しに視線を落としながら、クスッと笑う。口元に手を添え、楽しそうに目を細めるその仕草が、余計に私の焦りを加速させた。

「スルーしましょうか?」
「してください……!」

完全にからかわれている。私が焦れば焦るほど、安室さんは楽しそうに微笑むのだから、これは確信犯に違いない。
しゃがんだままジリジリと後ずさり、なんとか距離を取ろうとするが、部屋の広さには限りがある。背中がすぐに壁にぶつかり、行き場をなくした。

「からかうのも、そこそこにお願いします…」

精一杯の抵抗を試みるも、説得力は皆無だ。すでに顔は真っ赤で、目も合わせられない。
安室さんはくすくすと喉を震わせ、静かに笑った。この笑顔、絶対に私が焦る様子を面白がってる。

「分かりました。では、この話はここまでにしましょう」

そう言いつつも、彼の瞳にはまだどこか面白がる色が残っている。ひどい……こんなの、私が恥ずかしがるだけ損だ。
その時、不意に安室さんがゆっくりとしゃがみ込み、私と目線を合わせる。ほんのわずかに覗き込むような角度で、透き通る灰青色の瞳がこちらを映した。

「っ……」

息を呑み、胸の鼓動が早まるのを感じた。逃げ場をなくした私は、思わずぎゅっと目を瞑る。
その瞬間、ふわり、と髪の毛に何かが触れた。かすかな違和感に、そっと目を開ける。
安室さんの右手が、私の髪の毛を一束掬い上げていた。指先が絡むたびに、濡れた髪が微かに水気を含んで揺れる。

「……まだ濡れていますね」

安室さんの声は低く、けれどどこか優しげだった。

「乾かすのを手伝いますので、ドライヤーを持っていらしてください」

ふわり、と手を離される。絡まっていた髪が、指の間からするりと滑り落ちる感触がやけに鮮明だった。

「……え?」

予想外の言葉に、私は思わず間抜けな声を漏らした。
何をされるかと身構えていたのに、まさかのドライヤー?思わず肩の力が抜けた。熱くなった頬を悟られないように、そっと目を逸らす。

「…それとも、先程の話の続きをしますか?」

くすっと笑いながら、安室さんは立ち上がる。

「い、いえっ!乾かします…!」

私は顔の熱を冷まそうと、焦って返事をし、すぐに洗面所へと向かった。
けれど、ドライヤーを手にしながら、まださっきの指先の感触が、心臓の奥にじんわりと残っていた。




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