35


「じっとしていてください」
「ほ、本当に安室さんが……?」

半信半疑のまま、私はそっとベッドの縁に腰掛ける。
安室さんは無言でドライヤーのコンセントを差し込み、スイッチを入れた。ブォォォ……と温かい風の音が部屋に響く。
──本当に、乾かしてくれるんだ。それがじわじわと現実味を帯びるにつれ、なんだか落ち着かない気持ちになってくる。まさかこんな状況になるなんて、数日前の自分に言ったら絶対に信じない。私が安室さんと結婚することになり、こうしてベッドに座って、彼に髪を乾かしてもらうだなんて──。猛スピードで色々起こりすぎて、本当に現実なのかと思うくらいだ。

「……ありがとうございます」

抵抗するのをやめ静かにそう言うと、後ろから微かな笑い声が聞こえた。
乾いたタオルが髪の根元にそっと押し当てられ、指先が優しくほぐすように動いた。そのたびに、髪の毛が柔らかく揺れる。
── 思ったよりも、ずっと丁寧だ。ドライヤーの熱がじんわりと広がって、頭皮まで温かい。水気でごわごわしていた髪が少しずつさらさらと整っていくのがわかった。今まで自分で適当に乾かしていたけど、こうして誰かにやってもらうと、なんだかすごく心地いい。
私がうとうとしてきたせいだろうか。安室さんが、くすっと小さく笑うのが聞こえた。

「……なんで笑うんですか」

思わず不貞腐れたように言うと、後ろから穏やかな声が返ってきた。

「久しぶりにりかさんの顔を見られて嬉しいからですかね」

思わず肩がピクリと跳ねる。
“久しぶりに顔を見れたから”── たったそれだけの言葉なのに、妙に心臓が跳ねた。

「そ、そうですよ……」

心臓の高鳴りをごまかすように、慌てて話を逸らす。

「…面会にあまり来て下さらなかったから……」
「申し訳ないと思っていますよ。ただ、突然結婚することになって忙しかったんです。結婚の辻褄合わせに、書類の偽造までしましたから」
「っ!そうです!やりすぎですよ…!!」

結婚の話題に、思わず振り向こうとしたが、その瞬間、軽く頭を押さえられた。

「じっとしていないと乾かせませんよ」
「っ……」

ぐうの音も出ず、大人しく前を向く。安室さんの指がふわりと髪を梳くたびに、かすかに甘いシャンプーの香りが立ち上った。
少しずつ落ち着きを取り戻しながら、私はそっと唇を噛んだ。

「……いくらなんでも、結婚はやりすぎです」

ぽつりと零すと、背後の安室さんの手がほんの少しだけ止まるのが分かった。

「そう思いますか?」
「……だって、私はこの世界にずっといるわけじゃないのに」

静かな問いかけだった。
本当の結婚ではない。彼が私を助けるために作った、ただの“書類上の関係”。私がここにいることで、彼の生活が変わってしまう。もし誰かに見つかれば、彼に迷惑がかかるかもしれない。私はいつまでこの世界にいれるか、またいつ来れるかも分からない。それなのに──

「安室さんだって困るんじゃ……?」
「困りませんよ」

安室さんは、ごく当たり前のように言った。
不思議だった。どうしてこの人は、こんなにも迷いなくそう言えるのだろう。私はまだ、この曖昧な関係性に戸惑っているのに…。ドライヤーの風が髪をなでる音に紛れて、自分の鼓動が速くなるのがわかる。頭の奥で小さく反響するようなこの音は、たぶん私にしか聞こえていない。
しばらくして、乾かしていた安室さんの指先が、名残惜しそうに私の髪を撫でた。

「……はい、終わりましたよ」

まだ心臓の音が落ち着かないまま、私はそっと髪に触れる。すっかり乾いて、指通りがさらさらとしている。

「……ありがとうございます」

静かに礼を言いながら振り向くと、安室さんは「どういたしまして」と穏やかに微笑んだ。その微笑みを前に、私はそれ以上何も言えず、ただ視線を落とす。安室さんは何事もなかったかのように、手際よくドライヤーのコードを巻き取り、立ち上がる。私はその様子を、ただじっと見つめることしかできなかった。髪に残る熱が、じんわりと頭の奥に滲むようで、まだ現実味がない。
洗面所へ行く安室さんの背中をぼんやりと見つめながら、私はそっと拳を握りしめた。この距離が近いようで、遠いようで……こんなにも胸がざわつく。

「りかさん、こちらをお渡ししておこうと思いまして」

不意に聞こえた声に、私はハッとして顔を上げた。
いつの間にか私の隣に座っていた安室さんは、ローテーブルの上に小さな箱を置いた。深い青色のベルベットに包まれた、見覚えのある形。
──え?もしかして、これって…。直感的に、何かを察する。安室さんが無言のままそれをゆっくりと開くと、眩い輝きが目に飛び込んできた。

「……これ……結婚指輪ですか?」

驚きに息を呑む。箱の中には、繊細なデザインの指輪がサイズ違いで2つ収められていた。シンプルなシルバーのバンドに、小さく輝くダイヤモンドが埋め込まれている。華美すぎず、けれど確かに目を引く美しさを持つそれは、どう見ても“結婚指輪”だった。

「はい。今後は、常につけてくださいね」

さらりと告げる安室さんの声に、胸の奥が妙にざわつく。当然のように言うけれど、そんなの……。
目の前の指輪を見つめながら、言葉に詰まる。これは、あくまで“嘘の結婚”のための指輪。そう理解しているのに、私は何を期待しているのだろう。
こんな綺麗な指輪を渡されて、「はい、そうですか」って簡単に受け取れない。だって、これは……本来なら、一生を添い遂げる人同士が贈り合うものなのに。

「……安室さん」

思わず顔を上げると、安室さんは静かに私を見つめていた。
嘘の結婚なのに、こんなことまでしていいの?ここまで完璧に“夫婦”を演じる必要、ある?
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。これは、単なる“役割”なのか。それとも──。

「……その……私たちって、どんな関係…ですか…?」

聞いてしまった。聞くべきではないと分かっていながら、それでもどうしても確かめたくて。安室さんの顔が見れなくなってしまった。
私は安室さんに想いを告白した。でも、彼から明確な答えをもらったわけじゃない。だからこそ、心のどこかで不安になる。もし、これが私への同情心なら──そんなもの、いらない。
俯く私の手の上に、ふと安室さんの指が重なった。

「…あなたを、妻だと思っていますよ」

静かに、確かに告げられたその言葉に、胸の奥が大きく揺れた。冗談なんかじゃない。そう思わせるほどに、安室さんの声は真っ直ぐで、迷いがなかった。  

「それは……、ただの“役割”として…?」
「“ただの役割”なら、あなたに指輪を渡すことも、こうして一緒に住むこともしませんよ」

あまりにも自然に、さらりとそう言われたことに、言葉を失う。安室さんがこんなにもはっきりと言い切ったことが、嬉しくて、苦しくて、どうしようもなくなった。
──ずるい。こんなふうに迷いなく言われたら、私はもう、逃げられないじゃないか。ずっと心の奥で期待していた言葉。それを、こんなにあっさりと、確信を持って口にされてしまった。

「……何度も、僕の命を救ってくれてありがとうございました」

安室さんはゆっくりと、私の左手を取りながら言葉を続けた。その指が少しだけ震えているように感じたのは、気のせいだろうか。

「僕のためを想ってしてくださったことに、酷いことを言ってすみません」

静かな謝罪だった。目の前の安室さんは、いつものように完璧で、冷静で、隙のない彼のままだというのに、なぜかその声は、ひどく脆く聞こえた。

「ただ……もう分からなくなってしまったんです。この世界の"虚"に気づいてしまってから、これから何のために生きていけばいいのか……」

安室さんはふっと視線を落とす。彼の手のひらから伝わる温もりが、かえって胸を締めつけた。
あの夜の川の描写が、脳裏に蘇る。橋の上に立つ安室さんの背中。川へと身を投じた、あの一瞬。
──あの時の彼の瞳には、何も映っていなかった。ただ、自らの役割を全うすることだけにすがり、生きることそのものを諦めていた。

「あなたに言われて、はっとしました」

再び目が合う。
灰青色の瞳に、深い感情が揺れていた。

「他にも方法はあったはずですが……僕は、自分を犠牲にすることを、自ら選んでいた気がします」

それは、ずっと誰にも言えなかった想いなのかもしれない。彼の声が、ほんの少しだけ震えた。

「今もまだ、未来に不安はあります。でも──」

指先が、そっと私の手を包み込む。その優しくも確かな力に、胸の奥がじわりと熱を帯びる。

「──あなたのためになら、生きていけます」

その言葉が、心の奥深くに響き、息が詰まりそうになった。そんな言葉を聞かされたら、もう、戻れない。

「……立場上、自分のことを多く語れなかった僕ですが、突然、あなたという“僕”の全てを理解してくれる人が現れた。それが、何よりの幸運だったと今は思っています」

そう言って、安室さんはそっと、私の薬指に触れる。ゆっくりと指をなぞるように、慎重に、優しく。その仕草に、心臓が跳ねるのを感じた。

「……あむろ、さん……」

声が震える。でも、それ以上の言葉が出てこなかった。言葉にならない想いが、胸の奥から溢れて止まらなくなりそうだ。安室さんが、こんなにも無防備に、自分の気持ちを打ち明けてくれるなんて。胸が、苦しくなる。
安室さんは、小さな青い箱の中から、サイズの小さい指輪を取り出した。繊細な宝石が、部屋の明かりを受けてきらりと輝く。

「……いいですか?」

囁くような問いかけに、私はただ頷くことしかできなかった。指先が触れる。その瞬間、頬をつたう涙の筋を自覚した。

「っ……」

込み上げる感情に、視界が滲む。
冷たい金属の感触が指に馴染み、するりと収まる。違和感は、まったくなかった。まるで最初からここにあるべきものだったかのように、ぴったりと薬指にフィットする。

「……ちょうどいいですね」

安室さんは満足そうに微笑む。私は、もう涙で滲んだ視界の中で、それを見つめることしかできなかった。ぴたりと収まったそれを、ぎゅっと握りしめる。

── 嘘だったはずの結婚。
でも……この指に通された指輪は、彼が私のために選んでくれたもの。この指輪が、今、私の薬指にあること。それだけは、絶対に嘘じゃない。

「…………っ」

言葉にならない想いが、涙と一緒にこぼれる。
安室さんが、そっと私の手を包み直した。

「……泣かせるつもりじゃなかったんですが」

少しだけ困ったように笑いながら、安室さんは、私の涙を指でそっと拭う。
── これが“本物”かどうかなんて、もう、考える必要はなかった。私は、ただ、指輪の温もりを感じながら、安室さんの手をぎゅっと握り返した。



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