05


「……また漫画、読んでんのか?」

背後からふいに声をかけられ、私はびくりと肩を跳ねさせた。振り向けば、青木が紙コップを片手に、呆れたような笑顔を浮かべている。

「あ、ご、ごめん……」
「いや、いいけどさ。なんか最近、ずっと上の空だから」

苦笑しながらそう言うと、青木は自分の席へ戻っていった。私は再びディスプレイに目を戻す。そこには、もう何度も見た、最新話のページが映っていた。
安室透が刺され、倒れ――彼を助けた“女医”が現れる。そして、彼女は風見裕也の目の前から、煙のように消える。
…わかってる。漫画の中の話だって。だけど、あのとき感じた彼の体温も、手の中で脈打っていた命も、私の記憶があまりにも鮮やかすぎるのだ。
指先で頬杖をつきながら、気づけば視線は画面を通り越し、虚空をさまよっていた。
――父は本当に、あれを“描いた”のか?まるで霧の中にいるように、考えがまとまらない。

「じゃんけーん、ほいっ!」

弾けるような声が、遠くから聞こえてきたが、気にも留めなかった。最近はずっとこんな調子だ。目の前に何があっても、思考がそこにとどまらない。
それに、ここ最近、あまり眠れていない。横になっても、まぶたを閉じても、脳だけが覚醒し続けていて――呼び戻されるように、あのページの中の“自分”を何度も見に行ってしまう。読めば読むほど、どこまでが現実で、どこからが物語なのか、境界がわからなくなる。

「……おーい、宮間〜?」

こんなふうに思考が霞んでいる状態で、患者に触れていいのか――そう考えるたびに、背筋がうすら寒くなる。このままじゃ、いつか取り返しのつかない失敗をするかもしれない。それだけは、絶対に避けなければならないのに。

「宮間?」

遠くでざわめく空気の中で、私はただ画面を見つめ続ける。彼を救おうとした自分の手。その袖口に描かれている、ミントグリーンのブラウス。
…そういえば、あれは通販で届いて、その日はじめて袖を通したものだった。なのに、それが、こうして漫画の中に描かれている。デザインだって寸分違わない。直接父が見たわけでもないのに…。そう考えると、やっぱりおかしい。父が絵を描いたと言った説明がつかなくなる。

「宮間?」
「ひゃ……!」

ぽん、と突然右肩を軽く叩かれて、思わず大きく息を呑んだ。反射的に振り返ると、にこにこと笑う青木の顔が目の前にある。

「完全にまたどっか行ってたな」
「ご、ごめん……なに?」

そう聞くと、青木は手にしていた小さな紙切れをひらひらと私の前に差し出した。

「これみんなの分。じゃ、よろしく」
「……え?」

言われて手に取ったメモには、カフェラテやキャラメルマキアートなど、見覚えのある名前がいくつか並んでいる。

「なにこれ…?」
「みんな雨で気分下がって残業どころじゃないってさ。じゃあ気分転換に、そこのカフェまで買い出し行こうってなったんだよ。で、誰が行くかジャンケンしたんだけど、宮間だけ反応しなかったから満場一致で不戦敗扱いになったってわけ」
「なにそれ、ずるい……」

ぼやく私に、青木は悪びれもせず、笑いながら背中を押した。

「ついでに自分の分も何か頼んできな。最近顔色良くないし」

……言い返せなかった。
しぶしぶ立ち上がり、メモを白衣のポケットに押し込む。ロッカーから傘を引き抜き、出口に向かって歩き出したところで、ふと足元を見る。
――どこか、いつもの日常の風景。けれど、そのどこかが、ほんの少しだけずれている気がしてならなかった。










閉店間際のコーヒーショップは、すでに静まり返っていた。カウンターの奥で豆を挽く音と、ドリンクマシンの低い駆動音だけが、取り残されたように響いている。
私は窓際の席に座ったまま、ドリンクが出来上がるのを待ちつつ、スマホの画面を見つめていた。その指先が、かすかに震えていたのは、気温のせいじゃない。
――描かれていた、服の色。通販で頼んだばかりの、まだ誰にも見せていなかったはずの服が、なぜか漫画の中に正確に再現されていた。
わかってる。あり得ないことを言ってるのは。でも、それでも――確かめずにはいられなかった。私は天沢くんに「今、話せる?」とメッセージを送る。数秒後、画面に“既読”がつき、「大丈夫ですよ」とだけ返ってきた。ためらわずに通話ボタンを押す。耳にスマホを当てると、間を置かずに、天沢くんの声が聞こえた。

『……りかさん。もう、漫画の世界の話はやめましょうね』

静かな呆れ声だった。でも今私は、そのことで電話をしたんじゃない。

「……ねえ、天沢くん。お父さん、今なにしてる?」
『え?』
「聞きたいことがあるの。あの服……私が着てた、あのブラウスのこと」

電話の向こうが、一瞬、息を呑む気配に変わった。そして答えは、私の予想をはるかに超える方向からやってきた。

『……先生は原稿を進めてます。それが――その、また安室透を“殺す”と言って』
「……え?」

鼓動が、妙に耳に響いた。
また――?その言葉が意味するものを理解するまで、数秒かかった。でも、理解した途端、全身の血の気がすっと引いていく。

「なんで?せっかく生き返ったのに……」

目の前のガラス越しに、車のライトが濡れたアスファルトの上を通り過ぎていく。その反射が、まるで現実そのものが揺れているかのように錯覚をしてしまう。

『頑ななんです。僕が何度止めてもだめでした……。さっきだって、“病院で簡単に手に入る毒薬を調べろ”って僕に……』

天沢くんの声が、少しかすれていた。
私はスマホを握りしめる手のひらが、じっとり汗ばんでいるのに気づく。なんとか落ち着こうと、反対の手で紙コップを握ったが、冷たくなりかけたコーヒーの感触も、今は何の慰めにもならなかった。

「毒薬って……?」
『抗生剤の代わりに"カリウム"を使うことになりました。あれ、調べてみたら…』
「静脈に大量静注すれば……心臓が止まる」

口が勝手に動いた。頭の中に、研修医としての知識がずらりと並び、現実味を帯びて襲ってくる。
カリウムは、適量なら治療に使われる薬剤。けれど、誤って静脈に大量に投与されれば、それは致死性の毒になる。実際、過去には看護師による誤投与事故も報告されていた。
まさか、そんなものを――父が、物語の中で使おうとしている?

「……誰が安室透を殺すの?」
『彼の担当看護師、だそうです』
「動機は……?」
『ありません。看護師に、動機もなにもないんです。……おかしいですよね?"コナン"で、動機のない犯人なんて』

天沢くんの声がわずかに震えていた。きっと彼も、気づき始めているのだ。父の異変に。
私は、一度深く息を吸った。

「……ごめん、お父さんに替わって」

天沢くんが無言で応じたあと、しばらく無音の時間が流れた。その間に、カウンターから「お待たせしました」と店員に呼ばれ、私はぼんやりと立ち上がり、紙袋を受け取った。
そのまま店を出ると、雨はいつの間にか上がっていた。湿った路面に、街灯の光がにじんでいる。私は軒下に紙袋と傘を立てかけ、スマホを握りしめたまま、深く息を吸った。
やがて、低く、少しかすれた声が受話口から聞こえてきた。

『……りかか』
「ねえ、お父さん……。どうしてまた、安室透を殺そうとしてるの?」

あまりに早い問い詰めだったかもしれない。だけど今は、一刻の猶予もない。
声に出した瞬間、自分でも驚くほどに感情が混じっていた。戸惑い、焦り、そして怒り。全てを押し殺して、ただ“真実”を求めて訊く。
しかし、しばらく息を呑むような沈黙が続いた。

『……天沢から聞いたのか。お前は、俺の作品にまで口を出すようになったのか?』

返ってきたのは、乾いていて、どこか他人のような父の声。

「だって……!どう考えても殺す必要なんか……!」

私は感情を抑えきれずに言い返した。怒っているのではなく、必死だった。ただ止めたかったのだ。父が“その道”を選んでしまうのを。

『主要キャラを殺してはいけない、なんてルールはない。俺の物語だ。描きたいように描く』

淡々とした口調に、心の芯が冷える。けれど、決定的だったのは、その次の言葉だった。

『……あのとき、邪魔さえ入らなければ』

ぽつり、と放たれた言葉。それを私は聞き逃さなかった。
――邪魔、だと父は言った。きっとそれは、私のことだ。あのとき、原稿の中で彼が死ぬはずだった。でも私が、救い出してしまった。だから今、父は――

「今……なんて言ったの?あれ…本当はお父さんが描いてないよね?もう、お父さんも知ってるんでしょう?安室透が、“本当は”生きてるんだって……!」

胸の奥から、熱いものがせり上がってきて、堰を切ったように言葉があふれ出す。
ただの漫画の話であったはずなのに。自分でも驚くほど、声が震えていた。それでも止まれなかった。もう、止める気もなかった。

『だからだ……。だから、奴の息の根を止めねばならん……っ!!』
「やめて…っ!!そんなこと、絶対にだめっ!!」

叫んだ瞬間、通話がぷつりと途切れた。
父に切られたみたいだ。もう一度かけ直そうとするが、なぜか電話がかからない。画面の右上をみると、電波表示が圏外になっている。何度やっても再接続はできない。現実からも、父からも、切り離されてしまったようだった。

「……どうしよう……」

声が漏れた瞬間、足元がふらついた。
また――あの人が、殺される。一度救った命が、今度こそ、消されようとしている。そしてこのままじゃ、父が……自分の手で、人を殺めてしまう。生きていると知っていながら、殺人を犯そうとしている。たとえそれが紙の上の物語だとしても、取り返しのつかないことになる気がした。

「止めなきゃ……」

私は咄嗟にそう思った。
誰に言われたわけでもない。ただ、どうしても、父にそんな罪を背負わせたくなかった。自分自身が、それを見て見ぬふりをすることにも、耐えられそうになかった。
思考よりも先に体が動いて、置いていた紙袋に手を伸ばす。――その時だった、異変に気づいたのは。

「あれ……?」

違和感が、指先から始まった。
そこに置いてたはずの紙袋が……ない。傘もない。それに、さっきまで確かに目の前にあったはずのコーヒーショップの看板が、跡形もなく消えている。

「え?」

代わりにそこに立っていたのは、明るくライトアップされた“家電量販店”。看板の蛍光色がやけに目に刺さる。
何かがおかしい。慌てて周囲を見回す。建物の配置。道の形。遠くの街灯。すべてが――見知らぬものに、すり替わっていた。
どういうこと……?私は思考が追いつかないまま、店先のディスプレイに目を向ける。テレビが何台も並び、同じニュース番組を映している。その中のひとつから、アナウンサーの声が、はっきりと届いた。

『……明日の米花町は、晴れのち曇り。午後からは急な雷雨に注意が必要です。気温は十四度前後…』

心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
――ベイカチョウ。その言葉が、脳に突き刺さる。"米花町"だなんて言葉、現実には存在しない。だって、それは父の作った“架空の地名”だからだ。でも、確かに今、アナウンサーがそう言った。

“米花町は、晴れのち曇り”。

目の前の景色が、じわじわと塗り替えられていく。街の色が、光の粒が、音の響きすらも――現実から取って代わるように、その“輪郭”を変えていく。
ここは……現実じゃない。でも、夢でもない。けれど、感覚だけがひどく生々しく残っている。私はその場で立ち尽くしたまま、ディスプレイを見つめながら、唇を震わせた。

「……また……来てしまったの……?」

静かに、確かに、思い出していく。あのときと、同じ感覚。重力がゆがみ、時間の軸がぼやけて、気づけば物語の中にいた。
――そして、彼に、会った。あの瞬間の、あの視線の温度まで、鮮やかに蘇る。

…また、来てしまったのだ。
物語の中へ――“名探偵コナン”の世界へと。





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