36


指に収まったばかりの指輪を、そっと撫でる。まだ少し冷たくて、けれど確かにそこにある温もり。こんなふうに指輪をはめてもらう日が来るなんて、ほんの数日前まで考えもしなかった。
ふと目線を上げると、目の前の安室さんの左手にも、同じ輝きがあった。シンプルなシルバーの指輪が、指にぴたりと馴染んでいる。

「大丈夫ですか?」

優しく問いかける声。涙を拭いながら、私はそっと顔を上げた。安室さんは、私をじっと見つめていた。いつもの冷静さを湛えた表情の奥に、ほんの少しだけ、不安げな色が滲んでいる。

「……大丈夫、です」

私は小さく頷きながら、もう一度涙を拭った。泣くつもりなんてなかったのに、安室さんの声や、指先の温もりが胸に沁み込んで、止められなかった。

「そうですか」

安室さんはふっと小さく笑った。それはどこか安心したような、でもほんの少し困ったような笑顔。
けれど、私の頬に伸ばしかけた手を、ふと途中で止める。

「……そうやって見つめないでください」
「え…?」

少しだけ困ったように、けれどどこか冗談めかしたトーンで言う。私は何のことかと首を傾げた。

「りかさんが、ここから消えてしまうじゃないですか。近頃、僕の心はすぐに動揺するんです。一緒にいたければ、涙や愛の告白は禁物ですよ」

心が、すぐに動揺する?安室さんが?
思わず、瞬きをした。まるで、それが自分でもどうしようもないみたいな言い方に、頭を傾げる。
だって、安室さんは、どんな場面でも冷静で、強くて。私の言葉にもなかなか動じず、公安の捜査官として、幾度も修羅場をくぐり抜けてきた人だ。
そんな彼が、“心がすぐに動揺する”なんて。

少なくともそれは、私たちの関係性が変わった証拠でもあるのだろうか。胸がぎゅっと締めつけられる。けれど、この世界に来られる時間はいつも限られていて、私はいつも”戻る”時を意識しながら過ごしている。

「……わかりました」

私は、涙を堪えるように小さく笑った。
今はまだ一緒にいたい。薬指に光るそれは、彼が“ここにいてもいい”と証明してくれるもの。だけど、指輪があろうと、結婚という形を取ろうと、安室さんが“動揺”すれば、私はまたこの世界から弾かれてしまう。

「気をつけます」

安室さんの目が、一瞬驚いたように揺れる。けれど、すぐにふっと微笑んで、指先がそっと私の髪を撫でた。
それは、いつもの軽いやりとりとは違う、どこか確かめるような仕草で。私は喉がひりつくのを感じながら、慌てて視線を落とす。安室さんは、そんな私の反応を楽しむように、口元にうっすらと笑みを浮かべた。
──このまま、安室さんが動揺しないように。私は、ここにいるために、気をつけなくちゃいけない。でも何だか、それをいいことに安室さんにやられっぱなしな気がしないでもない。

「……さて、そろそろお腹が空きましたね」

さらりと話を逸らすように、安室さんは立ち上がった。そのまま、何事もなかったようにキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。

「何か作りますか?」

そう言われて、私はハッと我に返った。さっきまでの空気が強すぎて、一瞬現実を忘れていた。

「……あ、はい。そういえば、まともなご飯なんて、ずっと食べてなかったです」
「そうでしょうね。あまりいい環境ではなかったと聞いています」
「はい……」

そう言いながら、私は立ち上がり、安室さんの隣に並んだ。こうして肩を並べてキッチンに立つのは、初めてじゃない。
でも、今は、指に光る指輪がどうしても視界に入ってしまう。

「……何を作ります?」
「冷蔵庫にあるもので何か作りますよ」
「はい……えっと、じゃあ私も手伝います」

ぎこちなく言うと、安室さんは「じゃあ、野菜を切るのをお願いします」と微笑んだ。
ほんの少し前まで、涙を流していたのが嘘みたいに、少しずつ日常の空気が戻ってくる。でも、完全に元通りではない。お互いの手元を見ながら、時折視線が指輪に落ちるたびに、どこか気恥ずかしさが混ざってしまう。

「りかさん」
「…はい?」
「お味噌汁に、セロリを入れても大丈夫ですか?」
「え、は、はい…大丈夫です」

不意打ちに、思わず慌てて答えてしまった。安室さんはそんな私の反応を楽しむように、目元を細める。

「…わかりました」

そうやって笑うの、ずるい。
私は包丁を握りしめながら、どうにかこの高鳴る心臓を誤魔化そうと必死だった。










夕食に並んだのは、安室さん特製の美味しい和食定食。温かい食事を共にし、片付けを手伝い、その後は安室さんも入浴を済ませた。
彼がバスルームから出てきたとき、タオルで軽く髪を拭いながら、ラフなルームウェアに身を包んでいた。いつもと違うその無防備とも言える姿に、一瞬ときめきを覚えてしまったのは否定できない。
そんな時だった。事件が勃発したのは。

「一緒に寝るなんてとんでもないです!!」

反射的に大きな声を上げてしまい、ハッと口を手で押さえる。さっきまでの穏やかで温かな時間が嘘のように、今は私の声だけがやけに大きく響いている。
いや、安室さんは何を当然のように言っているの?

「ベッドはひとつしかありませんからね」

さらりとした声で告げられる。安室さんの指先が、すぐそばのベッドを示した。白いシーツが整えられたままのそれは、確かに一つしかない。しかし、どう見てもこのシングルベッドは二人で眠ることを前提としているわけではない。
それなのに──安室さんが入浴を終え、「そろそろ寝ましょうか」となったところで、当たり前のようにベッドを指差され、私は全力で首を振った。

「結婚したら、普通は同じベッドで寝るのではありませんか?」
「そ、それは書類上の話でしょう…!?」
「まだそんなことを言っているのですか」

じりじりと詰め寄ってくる安室さんに、私は後退りしながら必死に抵抗する。

「わ、私は……床で寝ます!」
「だめです」

安室さんの冷静な声が、ぴしゃりと却下する。
反論するも、安室さんは微塵も譲る気がない様子だった。

「そ、そんなに即答しなくても…!」
「りかさん、以前も僕が家を空けたとき床で寝ましたよね?」
「……えっ」

思いもよらぬ指摘に、私は息を呑んだ。

「なぜそれを……?」

驚きと共に見上げると、安室さんは少しだけ困ったように微笑む。

「ベッドシーツが皺ひとつなく綺麗なままだったので、恐らくそうではないかと」

気づかれていた。
私が彼の留守中、申し訳なくてベッドを使えず、床で丸まって寝ていたことを。まさか、そんな細かいところまで…。
いくらなんでも観察眼が鋭すぎる。

「さすがに、また床で寝かせるわけにはいきません」

優しくも、けれど有無を言わせぬ声音。安室さんの瞳は穏やかに微笑んでいるのに、妙に逃げ道を塞がれているような気がした。

「りかさんが嫌なら僕が床で寝ます」
「それもだめです…!」
「では一緒に寝るしかありませんね」
「そ、それもだめです…!」

必死に食い下がるが、埒が開かない。なんとかして回避せねばと思うが、話が一方通行で進まない。
家主の安室さんを床で寝かせる訳にもいかないが、一緒に寝るのはもっとだめだ。だって、展開が早すぎるのだもの。今日は指輪をもらったばかりで、結婚生活も一応始まったばかりで。それなのに、いきなり一緒に寝るなんて…!

「…そんなに嫌ですか?」

ふいに、安室さんの声が低く落ちた。
まるで、その言葉の意味を確かめるようにこちらを見つめている。

「ち、違います…!決して安室さんが嫌というわけじゃなくて、その…」

言葉に詰まる。拒絶したいわけじゃない。
ただ、心の準備がまだできていないだけ。安室さんの近くにいることにまだ慣れいないだけだ。

「そうですか。なら、問題ありませんね」

安室さんが、ふっと片眉を上げた次の瞬間だった。

「──え?」

視界がぐるりと傾く。腕を引かれる感覚とともに、ふわりと身体が宙に浮く。次の瞬間、柔らかなベッドの感触が背中に広がった。
今、何が起こった…?慌てて体を少し起こすが、そこにすっと影が落ちる。

「……っ」

視線を前に向けると、すぐ目の前に安室さんの顔があった。彼は私に上半身が覆いかぶさるように体を支え、じっとこちらを見つめていた。
体を起こしたことで、かえって距離が近くなってしまった。咄嗟に逃げようとするも、あっさりと動きを封じられる。左手首を掴まれ、ベッドに縫い付けられるように固定された。
心臓が、落ち着かない。違う、落ち着けるわけがない。こんなふうに見つめられたら、自分で制御できるはずがない。

「……なぜ抵抗を?」
「それは……」

低く落ち着いた声が、すぐ耳元で囁かれる。
視線の置き場に困る。目を泳がせる私に、安室さんの瞳がわずかに細められた。

「て、展開が、早すぎます……。それに、安室さんとのやり取りはすべて漫画になるんです。だから……」

──それもまた、本音だった。
私たちの関係は、彼に関わっている限り、この世界の「物語」として記録されている。会話も、仕草も、些細な感情の機微まで全部、漫画として残る。
もし、この先の展開まで"読者"に見られてしまうとしたら。そんなの、羞恥で耐えられない。もうあの感覚はこりごりなのだ。

「こ、これ以上、私のプライバシーを晒すわけにはいきません」
「そうですか…。それは困りましたね」

ひそかに安室さんが微笑んだそのとき、瞬く間にベッドの上に押し倒された。
驚きに息を呑む間もなく、手首が柔らかなシーツの上に固定される。両手とも、逃げられないようにしっかりと。

「……っ」

声を詰まらせた。見下ろす安室さんの顔が、あまりにも近い。ほんの数センチ先に、彼の瞳。灰青色の光を宿した瞳が、私を捉えて離さない。
逃げられずに、身体がこわばる。顔を背けようとすれば、それすら許されない気がして、ただ見つめることしかできない。

「あ、あむろさ…」

この体勢、危ない。
安室さんの顔が、ゆっくりと近づいてくる。長い睫毛の影が、淡く頬を撫で、熱を帯びた吐息が、ふわりと肌をかすめる。
キスされる…!耐えきれず、思わずぎゅっと目を閉じた。心臓が今にも破裂しそうで、悲鳴を上げる。だ、だめ──!!

「こ、コナンを18禁にするつもりですか…!?」

完全にパニックに陥って、気がついた時には意味のわからないことを叫んでいた。
部屋の静寂が、ぴたりと凍りつく。

「…え?」

ぽつりと安室さんが呟き、彼の動きが止まる。間近にあった吐息が、一瞬だけ宙を彷徨うように揺らいだ。
私は必死だった。勢いよく目を開けると、そこには微妙に困惑した表情の安室さん。薄く開いた唇が、私の言葉を飲み込んだまま、何とも言えない表情を浮かべている。
ブルーの瞳が、瞬きを一つした。

「こ、これ以上はアウトです…!子供も読める漫画にしてください…!」

自分でも支離滅裂なことを言っているのは分かっている。けれど、この場の空気をどうにかして変えたくて、私は必死に訴えかけた。
頬が熱い。鼓動がうるさい。安室さんの視線が、じっとこちらに向けられる。そして──

「…ふっ…ふふっ…」

安室さんが、肩を小さく震わせはじめる。

「え……?」
「──っ、ははは!!」

次の瞬間、安室さんは堪えきれないように声を上げて笑い出した。

「…なんで笑うんですか」

不満と羞恥が入り混じった声が漏れる。
だって、こんな状況だ。こちらは必死なのに、安室さんはまるで気が抜けたように笑い続けている。

「いや、だって……!」

安室さんは口元を押さえながら、肩を震わせる。どうやら堪えようとはしているらしいけど、全然抑えられていない。
むしろ、笑いの波が次々に押し寄せてくるようで、何度も息を詰まらせながら、そのたびに噴き出している。目元にかすかに涙の粒すら滲んでいて、本気でツボに入ってしまったことが分かる。
何がそんなにおかしいの?と、私はカッと顔を赤らめた。笑われる理由が分からないし、そんなに面白がられるようなことを言ったつもりもない。
むしろ、私は限界ギリギリの抵抗を試みただけだ。これ以上は耐えられないっていう必死の叫びだったのに。

この人、こんなに笑うんだ……。
普段の安室さんは、どちらかといえば冷静で、大人の余裕を持った振る舞いをすることが多い。からかうような微笑みを浮かべることはあっても、こんな風にお腹を抱えるほど笑い崩れるなんて、初めて見た気がする。
でも、だからといって、私の方は全く笑えない。

「……あなたは本当に飽きないですね」

ようやく笑いの余韻を引きずりながらも、安室さんは私を見つめてくる。
ふわりと緩んだ表情。どこか愛おしげで、微笑ましいものを見ているような目をしていた。その視線が、余計に恥ずかしい。
──まあ、出会いが出会いだったから。初対面から急にビンタして、気づけばキスまでして。心当たりしかない。冷静に振り返れば、私の言動はまともな順序なんて踏んでいなくて、そう思ったら、頬の熱が一層増していくのを感じた。

「……っ」

私は視線を逸らし、枕に顔を埋める。
こっちは羞恥と混乱でどうにかなりそうなのに、安室さんにだけどうしてそんなに余裕が?
どうしよう。なんだかもう、いろんなことを意識しすぎて、まともに目も合わせられそうにない。
そのときに、ふいに髪を優しく撫でる感触があった。

「……っ」
「りかさん。寝ましょうか」

柔らかく言われて、私は小さく肩を震わせる。
まだ完全に気持ちが整理できたわけじゃない。でも、彼の声があまりにも自然で、そう言われると、抗う気力すら抜けてしまいそうだった。
そう思った次の瞬間、気づけば安室さんが当たり前のようにベッドの隣に滑り込んでくる。

「あ、あむろさん?」

驚きのあまり身体を引こうとするが、それより早く腕がするりと回される。柔らかな掛け布団の中、安室さんの体温がじわりと近くなった。
その熱が、まるで心の奥深くまで染み込んでくるようで。いつの間にか、抵抗する気持ちはどこかへ消えてしまった。

「おやすみなさい。りかさん」

夜の静寂に包まれながら、心臓の音だけが響く。
安室さんの呼吸がゆっくりと、私の耳に降り注ぐたび、身体が甘くしびれていくようだった。
──安室さんを好きだと自覚したのは、ほんのついこの前なのに。
胸の奥がほどけて、怖いくらい幸せで。まだ何ひとつ始まってもいないのに、まるでこれがゴールみたいに思えてしまう自分が信じられなかった。いいのだろうか、こんなにも早く、こんなにも強く。

「……おやすみなさい。安室さん」

自分の声が少し震えたのは、その戸惑いのせいだ。
それでも返した言葉が夜に溶けた瞬間、ふたりを包む静けさはさらに深く、優しくなっていった。





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