37


ふわりと、何かが香った。まだ夢の中にいるような、けれど確かに鼻をくすぐる温かい匂い。甘く、ほんのりとバターのような香ばしさが混ざっている。心地よいその香りに包まれながら、私はゆっくりと意識を浮上させた。
まぶたの裏にうっすらと光を感じる。ぼんやりと目を開くと、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいるのが見えた。淡い光が室内を照らし、白いシーツの上に長い影を落としている。

「……んん……」

寝ぼけたまま、私は身じろぎした。ふかふかの布団の感触が、まだ夢の続きに誘おうとしてくる。けれど、それを邪魔するように、トントンとリズミカルな音が耳に届いた。
──キッチンから、包丁の音?完全に覚醒しきらない頭で、私はぼんやりと考える。しばらくの間、天井を見つめながら、うっすらと広がる温かい香りと、トントンと一定のリズムを刻む音に意識を向けた。
……誰かが、ごはんを作っている。

安室さん?
そう思い至った瞬間、はっとして私は目を擦りながらゆっくりと起き上がった。薄手のカーディガンを羽織り、足を床に下ろす。朝のひんやりとした感触に、小さく息を吸い込んだ。
昨日は夢みたいな1日だったが、目が覚めると少し現実味が増している気がする。けれど、左手に視線を落とせば──そこには確かに、指輪が光っていた。改めてその事実を噛みしめるように、そっと指輪を撫でる。昨夜、安室さんが真剣な眼差しで指に通してくれた光景が蘇り、じんわりと胸が温かくなった。

──朝ごはん、作ってくれてるのかな。安室さん起きるの早いな。
そう思いながら、不思議と足が自然にキッチンへ向いていた。和室を抜けると、そこには、キッチンに立つ安室さんの姿があった。背中越しに差し込む朝日が彼の輪郭をふわりと照らし、静かで穏やかな雰囲気を作り出している。カジュアルなルームウェアにエプロンを重ね、手際よくフライパンを動かしていた。

ジュワッ……と心地よい音が響く。その瞬間、ふわっとバターと甘いシロップの香りが広がり、お腹が空腹を思い出したように小さく鳴った。
テーブルの上には、すでに準備されたサラダと、湯気を立てるスープのボウル。トマトの鮮やかな赤が目を引く。それに、こんがり焼けたパンケーキが重ねられている。
まるで、休日の朝みたい。いつもは慌ただしく時間に追われていた生活の中で、こんな穏やかで温かい朝を迎えたのは、いつぶりだろう。

「……おはようございます」

そっと声をかけると、安室さんが振り返った。

「ああ、起きましたか。おはようございます」

柔らかく微笑む安室さん。
その表情があまりにも自然で、昨夜のことが嘘みたいに思えてしまう。

「すごくいい匂いがして…起きちゃいました」
「それは良かった。ちょうど焼き上がるところです」

そう言って、彼はフライパンからふわりとしたパンケーキをすくい上げ、最後の一枚を皿に重ねた。そして、優雅な仕草でエプロンを外すと、私を見て静かに微笑む。

「朝ごはんに、パンケーキとミネストローネ。それに、サラダを添えました」
「すごい…!こんな朝ごはん、久しぶりです」

呆然と呟くと、安室さんがくすっと小さく笑う。

「きちんとした食事を摂ることも、大切な生活の一部ですからね。…さあ、座ってください」
「あ、ありがとうございます…」

促されるまま、テーブルに着く。安室さんが用意してくれたお皿の上には、ふかふかのパンケーキ。シロップがゆっくりと染み込んで、バターがじんわりと溶けていた。
安室さんも席に着くのを確かめると、私は手を合わせ、フォークを手に取る。そして、一口。

「ん…おいしい!」

驚いたように言うと、安室さんが微かに眉を上げた。

「それは良かった」
「ふわふわ…!お店で出てくるやつみたいです!」
「ポアロで出しているメニューと同じレシピなんですよ」

その言葉に、私は「あ……」と短く声を漏らした。ポアロのメニューだったなんて…!
今までにも何度か彼の手料理を食べたことはあるけれど、こうして私のために用意された朝ごはんは、とても特別な感じがする。

「毎日でも食べたいです」

ぽつりと本音が漏れる。
その言葉に、安室さんは一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。

「光栄ですね」

その短い返事が、なんだかやけに優しくて、少しだけ胸が熱くなった。指先でそっと指輪を撫でながら、私はまたパンケーキに手を伸ばす。
安室さんが穏やかに微笑みながら、コーヒーを口に運ぶ。カップを傾ける仕草ひとつ取っても洗練されていて、無造作に整えられた髪が、朝の柔らかな光を受けて艶めいて見える。
…朝から心臓に悪い。

「安室さん、今日はお仕事ですか?」
「ああ、僕は……」

話題を変えようと、ぽつりとこぼした言葉に安室さんの手が一瞬止まる。
なにも返事がないことに不思議に思い、私はフォークを持つ手を止めた。

「そういえば」

安室さんが、思い出したように口を開く。

「りかさんは、いつまでそう呼ぶつもりなんですか?」
「え?」
「“安室さん”、ですよ」

きょとんと首を傾げる私に、安室さんは優雅にカップを持ち上げながら続ける。

「僕の本名は”安室”じゃないですよね?」

言われて、ハッとした。
たしかに、彼の本名は”安室透”ではない。
でも、それは──。

「私…直接聞いたわけじゃなくて…」
「でも、あなたは僕の本名を知っているでしょう?」
「そ、それは……」

指先でそっとフォークの柄を撫でる。金属のひんやりとした感触が指先に伝わるのに、どういうわけか、胸の奥は妙に熱を帯びていた。
本当の名前。それはきっと、彼の素顔に触れる鍵。でも同時に、私が踏み込んでいい領域なのかどうか――。
呼んでしまえば簡単なこと。けれど、その一言を乗せた声が、どうしても唇を離れてくれない。
それに何より、は、恥ずかしい。

「漫画で読んだから、知ってるだけで……」

ぼそぼそと視線を落としたまま、なんとか言葉を繋ぐ。けれど、自分でも思ったより声が小さくなってしまった。

「でも、一度呼んでくれましたよね。あの時」

──呼んだ。
確かに、一度だけ。
でも、それは……。

「それは、安室さんに言われたからで……」

俯きながら、小さく言い返す。

――零さん。
耳の奥に、過去の自分の声がよみがえった。
動揺する私に、安室さんは軽く肩を揺らして、低く喉の奥で笑う。それがあまりにも心臓に悪くて、聞いているだけで体温がさらに上がっていく。

「言われたからでも、声にした事実は消えません」

そう告げる声は落ち着いていて、反論を許さない。
安室さんはカップを置き、静かにテーブルの上で手を組んだ。差し込む朝日の角度が変わり、彼の髪の一筋が光を帯びてきらりと輝く。その一瞬の美しさに目を奪われて、呼吸を忘れる。
それに、名前を呼ぶなんてそんな簡単なことじゃない。一度だけなら、あの時は勢いで呼べた。でも、改めて意識してしまうと、言葉が喉の奥で引っかかる。

「まあ、無理にとは言いません。…今はね」

え?と顔を上げた私に安室さんが距離を詰める。ほんの少し近づいただけで、距離がぐっと詰まったように感じられて、その気配に背もたれへと身体を引き寄せてしまう。

「そのうち呼んでくださればいいですよ。いずれ、必ずね」

真っ直ぐに向けられた瞳。
穏やかな笑みの奥に隠しきれない含みが宿っている気がして、逃げ道を塞がれる。
視線を逸らしたくても逸らせない。
心臓が早鐘を打ち、息が詰まる。

「だって、“安室さん”なんて他人行儀な呼び方、僕たちにはもう似合わないでしょう?」
「そ、そんな未来、まだ決まってません!」

からかうような響きなのに、不思議とその言葉には抗えない重みがあった。
必死に声を振り絞るが、けれどそれさえも、子供じみた反論にしか聞こえない。

「でも、あなたは2番を選択しましたよね?」

その囁きに、息が止まる。
2番、公務員。風見さん経由でなぜか選ばされたあの3択問題。

「今は恥ずかしいなら、それでも構いません。でもいずれ、"零"としか呼べなくなる日がくるといいですね」

体が反射的に震え、机の上に置いた手にぎゅっと力が入る。
安室さんにはすべてお見通しなのだ。私が恥ずかしくて、言葉を出し渋っていると。それを知った上で、こうしてわざと言ってくるのだからずるい。

「……っ」

声を返そうとしても喉が塞がれて、息だけが掠れる。
視線を皿に落とすと、パンケーキにかけたシロップがじわじわと広がっていくのが見えた。まるで自分の心が溶けていくみたいに。
そんな私の沈黙を愉しむように、安室さんがふっと笑った。その笑みは優しいのに、どこかいたずらっぽくて、胸をきゅっと締めつける。

「あなたは意外と、照れ屋なんですね」
「えっ……?」

思わぬ言葉に、反射的に顔を上げてしまう。
首を傾げる私とは対照に、安室さんはまるで私の反応を楽しんでいるかのように、穏やかに目を細める。

「はじめは、常識外れで、正直クレイジーなくらいに思ってましたよ。突然ビンタをしてきたり、急に拳銃を向けてきたり」
「うっ……」

安室さんの低い声が、胸の奥にぐっと刺さる。
本当に、その通りである。嘘を重ねて、急に距離を詰めて、彼を随分と振り回してきた。
記憶が一瞬で蘇り、さっと青ざめる。
今、自分でも考えると、頭のネジがどこか一個外れていたのだと思う。それくらい、私らしくないことをしてきた。

「でも――」

一拍の間を置いて、安室さんはテーブルに置かれた私の左手をそっと取る。
指輪を確かめるように、彼の親指がそっとなぞった。そこに触れられただけで、昨日の夜の光景が鮮明に蘇り、胸の奥が熱に焼かれたようになる。

「どうやら、こうして照れているあなたの方が本物のようですね」
「……っ」

耳の奥で血流の音が鳴り響き、頭が真っ白になった。
本物――その言葉が柔らかく、でも強く胸に沈む。無鉄砲で無茶ばかりしていた自分よりも、こうして彼の前でまともに言葉さえ出せずに照れている自分が「本物」だなんて。

「……いつか、楽しみにしていますね」

最後に、やさしく耳をくすぐる声が落ちた。
その言葉は、甘いシロップよりも濃く、私の胸に絡みついて離れなかった。





前へ   次へ


目次へ戻る

Back to top

total - 103362 hit