38
食事を終えて、並んでシンクに立つ。
穏やかな食後の時間。流しに手を伸ばしてお皿を流す水音と、キッチンの窓から射し込む陽射しが重なって、なんとも言えないぬくもりが部屋を包んでいた。
隣に立つ安室さんは、いつも通りの柔らかな表情で、何もなかったかのようにお皿をまとめている。その自然さが、かえって胸をざわつかせる。
さっきまであんなふうに囁いてたのに。思い出すだけで頬がじんじんして、泡立てたスポンジを持つ手に無駄な力が入った。
「……き、今日は、すごくいいお天気ですね」
何気ないように見せかけたけれど、声に乗せた響きがわずかに震えたのを、自分でも誤魔化しきれない。
隣でお皿を拭いていた安室さんが「ええ」と優しく応える。そのままゆっくりと窓の方へ視線を向けた。窓の向こうに広がるのは、雲一つない澄んだ青。
「な、なんだか……久しぶりに、外に出てみたいなって」
お皿をゆっくりすすぎながら、私は口にした。
「容疑も晴れたことだし、拘置所からも出てこれて、ようやく自由になったので……その……」
そう言いながら、私はちらりと安室さんの横顔を盗み見た。食器を布巾で丁寧に拭うその横顔は、いつものように穏やかだけれど、わずかに何かを考えているようにも見える。
久しく味わっていなかった“自由”という感覚に、そっと触れてみたくなった。でもそれ以上に、外に出てみたいと思った理由は、私自身がこの世界の空気に触れて、音を聞いて、匂いを感じたいから。
そんな、少し子どもじみたような願いが、不思議と胸の奥を熱くしていた。
「……だめですか?」
控えめに尋ねると、安室さんは手を止めた。
そして、ゆっくりと顔を向けて微笑む。
「いえ、だめではありません。ですが──今日は、もう少し家の中で静かに過ごしませんか?」
「え……?」
思っていた返事とは違って、反射的に声が漏れた。
けれど、その優しい口調に「どうして?」と聞き返すことはできなかった。どこか胸の奥に小さな引っかかりが残る。
「人目もありますし、まだ世間が完全に落ち着いているとは言い難いですから」
「……そう、ですか」
納得はできた。けれど、やはり少しだけ寂しかった。
私の表情が曇ったことに気づいたのか、安室さんはさりげなく話題を変えるように、もう一度柔らかく笑う。
「今日は陽の光もたっぷり入ってますし、ゆっくりお茶でも飲みながら過ごしましょう」
その声に嘘はなかった。
けれど、なぜか──ほんの一瞬だけ、安室さんの瞳の奥に、ひどく冷静で張り詰めたものが走ったように見えた。
どうしたんだろう。そう思いながらも、それ以上踏み込むのは、ためらわれた。
「そういえば、りかさん。昨夜、僕を水の中から救ったときの話で──」
「……はい?」
私は首を傾げる。
「“白い画面で止まっていたパソコンが突然動き出した”と、言ってましたよね?」
「……はい。言いました」
それは昨夜、晩ご飯を食べながら交わした会話だった。水の中に引き込まれ、安室さんが川の中にいると知り、私が天沢くんのスパルタ指導で絵を描いて安室さんを救うに至った話だ。
一瞬、なぜ今その話を?と思ってしまった。でも、確かにあの出来事は不思議だった。何をしても反応しなかったパソコンが、あの瞬間突然動き出したのだから。
そのおかげで、安室さんの状況が分かり、助け出すことができたのだけど。
「どうしてそのとき、パソコンは動き出したのでしょうか?」
安室さんは静かに問いかけた。探るような色はなく、ただ事実を問い直すような──けれど、その裏にある何かを感じさせる、静かな圧。
私は、コップとスポンジを持ち直しながら答える。
「わからないです。ひとりでに動き出したんです。安室さんを救えというお告げかなって、そのときは考えたんですけど……」
苦笑まじりに言うと、安室さんは小さく微笑んだ。その目は、どこか遠くを見ているようで、今この部屋の中にいるのに、別の現実を静かに見つめているようなそんな空気。
「……それがどうかしたんですか?」
私は少しだけ身を乗り出すようにして尋ねた。
けれど、安室さんは首を横に振るだけだった。
「いえ。ただ……ふと、気になっただけです」
それ以上は何も言わなかった。
でも、私は何かを聞き逃したような気がして、胸の奥に言葉にならない違和感が残る。
安室さんは何か、隠してる?けれど、そう思ったところで根拠も何もない。ただの直感だ。
気のせいかな?そう自分に言い聞かせるように、私はコップの泡を洗い流す。ガラス越しに揺れる陽の光が、まぶしく目を射した。
「……家の中でできること、何がありますかね」
ぽつりと呟いた私に、安室さんが手を止める。布巾で拭いていた最後のグラスを棚にしまい、視線をこちらへ向けた。
「カードゲームでもしますか?映画でも。あなたの好きなものに合わせますよ」
「うーん、なぜでしょう。カードゲームで安室さんに勝てる気がしません」
私の言葉に、安室さんがふっと目を細めた。
「…そう思うなら、余計にやってみるべきかもしれませんね」
口元にだけ小さな笑みを浮かべて、わざと挑発するような声色。
胸の奥が少しだけ温かくなり、同時に負ける未来がはっきり想像できてしまって、私は困ったように視線をそらす。
「……あ、お菓子作りなんてどうですか」
思いもよらない安室さんの提案に、目が瞬く。
「お菓子作り……?」
「はい。難しくないものなら、二人で一時間もあればできますし」
どこか楽しそうに、けれどいつもの分別は崩さずに。
その口調に、不思議と胸がほどけた。外に出られない代わり、と言われたら寂しくなるはずなのに、「二人で」という言葉が心に触れる。
「……や、やってみたいです」
答えると、安室さんの目尻がわずかにやわらぐ。
「では、さっそく材料を見てみますね」
冷蔵庫が静かに開き、ひんやりした空気が頬に触れた。バター、卵、牛乳。引き出しの中からは小麦粉と砂糖、ベーキングパウダー。
安室さんが棚の奥をのぞき込み、平らな金型を取り出して軽く指で叩く。金属が澄んだ音で応えた。
「そうですね。今ある材料でしたら…スコーンなんてどうでしょう。混ぜて焼くだけで簡単ですよ」
スコーン……何度か食べたことはあるけれど、自分で作ったことは一度もない。
表面はさくっと、中はほろりと柔らかい、あの香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がるのを想像しただけで、胸の奥がふっと温かくなる。
しかも、それを安室さんと並んで作る。粉を混ぜたり、オーブンの前で焼き上がりを待ったり。そんな光景まで勝手に頭の中に浮かんでしまって、自然と口元が緩んだ。
外に出られないのは残念だけど、家の中でこんなふうに作るのも悪くない。しかもスコーンなら、特別な型も難しい技術もいらないはずだ。
「…美味しそうです。それに、安室さんと作ったらきっと楽しいと思います」
「決まりですね」
軽く頷いて冷蔵庫へ向かう安室さん。その背中を見ながら、胸の高鳴りをそっと押さえた。
安室さんが私にエプロンを差し出す。薄いグレーの、生地にほどよいハリのあるものだった。
「どうぞ」と促されるまま首に掛けるが、背中の紐が手探りではどうしても届かない。
「結びますよ」
言葉と同時に、背後へ回る気配。
すべるように近づいた指先が、肩甲骨のあたりをよぎって脇へ抜ける。その瞬間、ぴくりと肩がわずかに跳ねた。
布が軽く引かれて腰に沿い、きゅっと結び目が作られる。背中に触れているわけではないのに、紐が肌のすぐ上を滑った感覚が残って、結び目が背中の真ん中に落ち着いたとたん、不意にそこだけ心臓が移動してきたみたいに脈を打つ。
「きつくないですか」
「……は、はい。大丈夫です」
思わず掠れた声になってしまい、自分でも少し驚く。
彼は何でもない顔で、自分のエプロンの紐も結び、手を洗う。蛇口から落ちる光をまとった水滴が、褐色の肌の上を伝い落ちるのをぼんやりと目で追ってしまい、胸がまた忙しく波打った。
……手を見ているだけでときめくなんて、重症だ。自分で心の中に呟きながら、視線を慌てて逸らす。
「ああ、そうだ。作業中は指輪は外しておきましょうね」
不意に安室さんがこちらに視線を向けて言った。
「そ、そうですね」と私も自分の手を添えて、二人でそっと銀の輪を外す。小さく転がる光を見つめながら、胸の奥にまた別の鼓動がひとつ増えた気がした。
安室さんが材料を並べながら、ふとこちらを見る。
「りかさんは、普段料理はされますか?」
「簡単なものなら作れますけど……ここ最近はめっきりです」
正直に言いながら、なんとなく肩をすくめる。
ほとんど家に寝に帰るような研修医の生活を理由に、キッチンに立つ時間がすっかり減っていたのは事実だった。
最近自宅で料理したものといえば、卵を茹ですぎて爆発させたことくらい。
「だから……教えてください」
思い切ってそう告げると、安室さんは一瞬だけ目を細め、口元に小さな笑みを浮かべる。
「もちろんです」
その返事と同時に、安室さんが軽く袖をまくる。
白いシャツの生地が肘のあたりでくしゅっと寄れ、手首から指先までの動きがよく見えるようになった。
キッチンの窓から射し込む昼の光が、ステンレスの作業台や並べられた計量カップに反射してきらりと光る。
「まず、バターは冷たいままで大丈夫です。小麦粉に切り混ぜていきます」
そう言って安室さんがボウルに粉の白い丘を作り、砂糖を細い雨のように落とす。そして、ベーキングパウダーをひとさじ。
そのままバターを角切りにして加え、フォークを私に差し出した。
「こう、潰して、粉となじませるんです。最初は大きな塊で、だんだん砂の粒より少し大きいくらいに」
見本の手つきが、驚くほど静かだった。道具が器に当たる音は小さく、速度も形も一定で、見ていると呼吸がそのリズムに合っていく。
渡されたフォークを握る。バターが固く、思ったよりも抵抗が強い。安室さんのように上手くはいかなくて、力を入れすぎると滑って、器の底を空振りして粉が舞う。
「わあ…!す、すみません」
「いいえ。最初は難しいんです」
ふいに、背後から腕が伸びる。
私の手の上に、彼の手が重なった。フォークの柄ごと包まれて、動きがそのまま導かれる。
肩越しに感じる息遣い。耳の後ろをかすめる気配。体温の輪郭が、布の厚みを超えて届く。
「……っ」
「手首を固めすぎず、肘から。刃先の角度を少しだけ立てて」
言われるままに動かすと、バターの角がすっと崩れた。
二人の手が同じ方向へ、同じ速さで、器の底をなぞっていく。粉の白に、黄色の欠片が細かく散って、やがて全体がしっとりした砂に変わる。
「そう、その調子です」
耳元の低い声が、くすぐったい。
振り向くわけにもいかず、視線だけが泳いで、窓の外に逃げる。
雲は薄く伸びて、光は柔らかい。外は遠く、ここは近い。そんな単純な事実しか、今の頭では考えられない。
「冷たい牛乳を少し」
やっと背中から安室さんの気配が離れたときには、バレないよう一度大きく息を吸い込んだ。
安室さんが牛乳を注ぐと、粉がゆっくりとまとまり始める。言われた通りにフォークから手を離し、指で集めていく。
「練りすぎないように。層ができなくなります」
「層……?」
「焼き上がりの、ほろっと割れるあの断面です。崩れそうで崩れない、ぎりぎりの重なりが一番おいしいんです」
崩れそうで、崩れない。
そんなこと、お菓子作りをして考えたこともなかった。さすが、安室さんだ。潜入捜査とはいえ、カフェの店員をしているだけはある。
生地を二つに割って重ね、また押して、また割る。層の境界が薄く光って見えた。そこに空気が含まれているのだ、と、指先が教えてくれる。
そのとき、ふと昔のことが蘇った。
「……こうやって昔、母ともよくお菓子作りをしました」
ぽろりとこぼれた自分の声に、私自身が少し驚いた。でも、一度口から出てしまうと、そこからはするすると続いてしまう。
「母も私も、あんまり器用じゃないんですけど……でもお菓子作りはすごく好きで。休日になると突然母が『今日はケーキよ!』とか言い出すんです。材料なんて全然揃ってないのに」
自分でも笑ってしまう。
安室さんが、にこりと目を細めた。
「それで、どうするんですか?」
「近所のスーパーに走って行きます。二人でエコバッグを持って。でも、帰ってきた頃にはだいたい私が途中で何か別のものに目移りしてて……買い忘れがあって」
「ふふ。それから?」
促されると、記憶がやけに鮮やかに蘇る。
粉まみれのキッチン、母の笑い声、バターの甘い匂い。何もかも混ざって、胸の奥があたたかくなる。
「結局、買い忘れた材料は適当に代用しちゃうんです。だからいつも同じ味にならない。クッキーのはずがスコーンみたいになったり、逆にケーキがパンみたいになったりして……でもそれが楽しくて」
話している自分が、たぶん今、とても嬉しそうな顔をしているのがわかる。
安室さんは、相槌を打ちながら、ほんの少しだけ身を乗り出して私の言葉を待ってくれていた。
「失敗作でも、母は必ず『美味しいね』って言って食べて。それが嬉しくて、また次の週末も作るんです。…あ、私が小学生くらいのときの話ですけどね」
「……すてきな時間ですね」
静かにそう言われて、胸の奥にやさしい痛みが走った。母はもう、この世界にも、あの世界にもいない。でも、今この瞬間は、まるでそこにいるように話すことができた。
安室さんはきっと、その事実に気づいている。けれど、何も聞かない。ただ、私の思い出を最後まで、微笑みながら受け止めてくれる。
「今日は何味にしましょうか?」
軽やかに話を戻してくれる声が、ありがたかった。私は小さく笑って、ボウルの中の生地を見下ろす。
「紅茶の葉があるみたいなので、少しだけ混ぜてもいいですか?」
「もちろん」
彼が手を差し伸べ、生地の端を押さえてくれる。指先が近づくたびに、母と過ごした台所の記憶が、少しずつ今の匂いと溶け合っていった。
そのまま仕上げに入り、安室さんは手際よく作業を進める。ひとまとめにした生地を軽く押さえて厚みを均一にし、表面をなぞるように手のひらで整える。包丁をまっすぐ下ろすと、生地はきれいな四角に切り分けられていく。
切り口からのぞく層が、焼き上がりのほろっとした食感を約束しているようで、思わず見入ってしまう。
それからオーブンに予熱を入れ、天板を出して油を薄く塗る。一連の流れは水面を滑るように滑らかで、見ているだけで時間が穏やかに満ちていくのを感じた。
「……よし。あとは220度で15分ほど焼けば完成です」
オーブンの扉を閉め、タイマーをセットする。
その動作が終わったあとも、安室さんはなぜか視線を外さず、まっすぐこちらを見てきた。じっと見つめられると、理由もなく胸が落ち着かなくなる。
何か言われるのかと息を呑んだ、そのとき——彼の瞳がふっと細まり、口元に小さな笑みが浮かんだ。
「……粉、顔についてますよ」
言われて、頬を指で触る。白い粉が、指先にうっすらと移った。安室さんが、ほんの半歩だけ近づく。
「失礼」
そう言って、人差し指の腹でそっと拭われる。触れたか触れていないか、ぎりぎりの力。その柔らかさに、喉の奥が小さく鳴った。
「ありがとう、ございます」
早口でそう言って、慌てて視線を逸らす。胸の奥で跳ね続ける鼓動を悟られたくなくて、テーブルの上のジャム瓶やカップに意識を向けるふりをする。
けれど、その様子を見ていた安室さんが、小さく息を漏らした。
「……ベタな展開ですね」
くすっと笑いながらそう言われ、心臓がさらに跳ねる。思わず彼を見返すと、視線の先で柔らかく目を細めていた。
私もつられて笑ってしまう。空気が少しだけ軽くなり、それでも胸の鼓動はなかなか落ち着かなかった。
そのとき、オーブンの中からふわりと甘い香りが漂ってくる。バターと粉が一緒になって焼けていく、あたたかくて満ち足りた匂い。鼻先をくすぐるその香りは、まるで「ここで十分じゃないか」と囁くみたいだった。
外には行けなかったけれど、この香りと、同じ空間に流れる穏やかな時間があれば、今日はもうそれでいい。タイマーがまだ静かに進む音を聞きながら、私は胸の奥でそう思った。
*
気がつけば、柔らかな光に包まれていた。
ぼんやりと視界が滲む。カーテン越しに差し込む光は、すでに夕方のものへと変わっていて、部屋が淡いオレンジ色で染まっていた。
「……しまった」
思わず呟く。ほんの少し横になるだけのつもりだったのに、思いきり眠ってしまっていたらしい。
身体を起こすと、ブランケットが肩からするりと滑り落ちた。微かに安室さんの香りがして、彼がかけてくれたんだと理解すると、胸の奥が少しだけ温かくなった。
——眠る前、二人で焼きたてのスコーンを食べた。バターの香りがふわりと鼻をくすぐり、外はさくっと、中はしっとり。半分に割った生地から立ち上る湯気を、向かい合って見つめ合いながらふっと笑い合ったのを覚えている。
ラズベリージャムを添えて「あーん」とまではいかないけれど、互いの皿へそっと分け合う。そのたびに視線が重なって、ジャムの甘酸っぱさよりも胸の奥の熱のほうが勝っていた。
「外に出られない代わりに」と安室さんが提案してくれたお菓子作りけれど、あの時間は何にも代えがたいものだったと思う。
食べ終えてからは、これまた安室さんの提案でカードゲームをすることになった。
最初は簡単な神経衰弱や七並べ。笑いながらもつい本気になってしまい、札をめくる手に力が入る。
次第にババ抜きやスピードといった勝負色の強いゲームへと移っていったが、結果は——やはり惨敗。彼が勝つたびに穏やかに微笑むのが、悔しいのに嬉しいという複雑な気持ちを煽った。
そのあと、欠伸をこぼした私に、安室さんが少し休むよう提案してくれて……そのままベッドに横になったんだった。
耳を澄ますと、隣のダイニングスペースからカタカタと控えめなタイピング音が聞こえてきた。
視線をそちらに向けると、安室さんがテーブルにノートパソコンを開いて座っている。椅子に深く腰をかけ、片肘をつきながら画面を静かに見つめていた。
「……安室さん?」
声をかけると、彼はゆっくりと視線をこちらに向け、穏やかに微笑んだ。
「起きましたか。よく眠っていましたね」
「……すみません、つい……」
少しばつが悪くなって、私はブランケットを手早く畳む。少し横になるつもりだったのに、気づいたら夢の中だった。外に出たいなんて言っておいて、結局こんなふうに部屋で昼寝していた自分が、なんだか少し情けない。
「疲れが出たんですよ。拘置所から出てきて間もないですし、少しでも眠れたのならよかった」
安室さんはそう言って、すぐには席を立たなかった。再び画面に視線を戻し、淡々とキーボードに指を走らせる。その横顔は相変わらず穏やかだけれど、どこか別の空気をまとっているように見えた。
何をしているんだろう。その問いが胸の内に浮かぶけれど、言葉にはしなかった。代わりに、私は立ち上がってキッチンに向かいお茶の入ったポットにそっと手を伸ばす。まだ、少し温かい。
「……安室さんも飲みますか?」
「ああ、ありがとうございます。助かります」
少しだけ顔を上げて安室さんが応える。
その声には、普段と変わらぬ優しさがあったけれど。やはりどこか、深く冷静な空気が漂っている。まるで、すべての情報を整理しながら、同時に何かを見張っているような。
お茶を注ぎながら、私は先ほど自分が目覚めたときに感じた、胸の奥のかすかな引っかかりを振り返っていた。
なんとなく、空気が違う。言葉にできない違和感が、夕暮れの静けさの中で、じんわりと広がっていく。
──外に出られなかった。でも、もしかして“出してもらえなかった”のかもしれない。そんな考えがよぎったとき、安室さんが不意に問いかけてきた。
「りかさん」
キーボードを打つ手が止まり、こちらに向けられたその瞳は、やはり少しだけ、何かを探っているように思えた。
「現実世界へ帰るのに、僕が動揺する以外に方法はないですか?」
静かな声だった。問いかけというより、確認に近い。だけど、胸の奥に小さな波紋が広がる。
まるで、帰れと言われているみたいだ。私は手にした湯呑みを胸の前でそっと両手で包み込んだ。湯気がゆらりと揺れて、夕暮れのオレンジ色に滲む。
「……私もわかりません」
口を開いた声は、自分でも驚くほど静かだった。けれど、はっきりとそう言うしかなかった。だって、それが事実だから。
「"コナン"は連続物語なので、次の物語へと進むための「終わり」が必要だっていうことは分かっているんですけど……それ以外の方法は……」
言葉を紡ぎながら、安室さんの顔色をうかがう。だけど彼の表情は変わらない。ただ、じっと私の言葉を待っている。
「だから…動揺させる以外の方法があるのなら、私も知りたいです」
この世界で、安室さんとこうして過ごす時間がどれだけ愛おしくなってしまったか、もう自分でも制御できない。けれどそれは同時に、彼の“感情”に頼らないと帰れないという、危うい現実でもある。
一緒に過ごす時間が多くなるほど、動揺をすることは少なくなってくる。そのままだと動揺する題材が減り、いつか現実に帰ることさえ出来なくなるかもしれない。
私はゆっくりと口を閉じて、湯呑みの中に目を落とした。けれど、ふと、胸に浮かんだ一瞬の感情が、ざわりと揺れを生んだ。
もしかして、安室さんは私に帰ってほしいの?この問いは、“方法”を探るためじゃなく、“手段”を変えるためじゃなく──「帰れるようにしたい」という意思の現れ?
思考の流れが、勝手に悲しい方向へ傾きそうになって、私は慌てて首を小さく振った。
昨日の晩、私の頬を撫でるように髪を整え、「あなたのためなら生きていけます」と囁いてくれた声。さっき、ブランケットをかけてくれたぬくもり。そのどれもが、私をここに“留めようとしてくれている”証だったはずだ。
それに。この夕暮れの静かな空気。安室さんの目線。落ち着いた手つき。表面上はいつも通りなのに、ずっとどこかぴんと張りつめた空気が漂っている。
私には気づかれないように──でも、確かに何かを見張っているような、その背中の張りつめた緊張。
「……何が、起きているんですか?」
気づけば、そう問いかけていた。
安室さんは目を細めて一瞬だけ間を置く。けれど、すぐにゆるやかな笑みを浮かべた。
「なぜそう思いましたか?」
その答え方が、すでに確信を裏付けていた。私は視線をテーブルの縁に落とす。
「……直感です。安室さんが私を外に出そうとせず、“帰る方法”の話をするなんて、おかしいと思ったから……」
そう口に出してしまってから、少しだけ後悔した。けれど、安室さんは驚くでもなく、静かに私を見つめ返す。
「観察力がつきましたね」
「…安室さんに比べたら全然です」
自然と笑いがこぼれたけれど、それはどこか張り詰めたものを和らげたくて出たもの。この部屋の空気がこれまでになく研ぎ澄まされていることを、私は確かに感じ取っていた。
安室さんは、何かを守ろうとしている?それが私なのか、この世界なのか、はたまた別のものなのかはわからない。けれど、確かに“何か”と向き合っていることだけは、疑いようがなかった。
「……私、できるだけ邪魔はしません」
そっと告げると、安室さんはほんの少しだけ目を見開いて──それから静かに、真剣な表情で頷いた。
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