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まぶたの裏からじんわりと差し込む、やわらかな太陽の光。車の揺れと振動。かすかなロードノイズ。
次に目を開けたとき、私は──安室さんの車の助手席に座っていた。隣には、ハンドルを握る彼の横顔。窓の外を流れていく空は青く澄んでいて、昼下がりの穏やかな陽射しが、フロントガラス越しに差し込んでいた。
「…病院にもいなかったか?」
耳に飛び込んできたのは、低く落ち着いた安室さんの声。黒いイヤホンを片耳に差し込み、前を見据えたまま誰かと通話している。
「部屋にも病院にもいないとなると…」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。
──もしかして、今、私を探してる?
声を出さなければ、と思うのに上手く息が吸えない。現実でのあの恐怖が、まだ胸の奥で冷たく震えている。目の前で放たれた銃弾。私に向かって真っ直ぐ飛んできた、死の気配。
でも、声を出さなきゃ。今ここにいることを、ちゃんと伝えなきゃ。
「……私は……ここにいます」
かすれた声が、車内の空気を震わせた。
次の瞬間、安室さんが目を見開き、短く息を呑む。そしてすぐにハンドルを切り、ブレーキを強く踏み込んだ。車はそのまま道路脇へと寄せられ、軋む音を立てて止まる。
そしてこちらを見据えたまま、「…ああ、今見つかった」と静かに呟いた。
「りかさん……!」
動揺が滲んだ声だった。イヤホンを外し、通話を切った安室さんは、すぐに私の様子をじっと見つめた。何かを言いかけて、そのまま言葉を飲み込む。
私の呼吸の速さ。かすかに震える肩。青ざめた頬──その様子に異変を感じたのか、表情をわずかに曇らせる。
「何か…あったのですか?」
言葉を探すように一瞬黙り、それからおそるおそる問いかけてきた。私は堪えていたものが一気にあふれるのを感じながら、小さく震える唇を開いた。
「わ、私……あと一歩で、死ぬところでした……」
その言葉に、安室さんの表情が凍りついた。手にしていたシフトレバーに力がこもる。
「フードを被った人が……私に銃を向けて、撃ってきたんです……」
震える指先をぎゅっと握りしめた。声を絞り出すだけで、あの恐怖がフラッシュバックする。ひとつ間違えば、もう息をすることさえできなかった。
「どこで?」
安室さんの声が低くなった。
まるで、一つ一つの情報を頭の中で迅速に組み立てているような口調。それでも、私を気遣う優しさが、そこに残っている。
「……父の家の近くです」
口にすると、寒気がぞわりと背筋を這い上がった。あの静まり返った早朝の空気、突然迫ってきた殺意──忘れられるはずがない。
「家の電話に着信があって……変声機の声でした。宮間ノリヤの娘って……安室透の妻って……全部、知られてました」
言いながら、またぞっと寒気が走る。
安室さんが息をひそめたのがわかった。
「それから数分も経たないうちに、家の前の道に現れて……銃を、撃たれて……」
それ以上言葉にしようとすると、喉が詰まった。あの時の、時間が止まるような感覚。まだ引き金の音が、耳に残っている。視界が浮つき、思わずぎゅっと目を閉じた。
だけど、言わなきゃ。彼に全部、伝えなきゃ。
口を開こうとしたその時、安室さんがシートベルトを外し、こちらに身を乗り出してきた。そして私の肩をそっと抱き寄せる。
「大丈夫……もう、大丈夫」
低く落ち着いた声が、耳元で繰り返される。その度に、安室さんの胸の鼓動がわずかに伝わってきた。波打っていた心拍が、彼の穏やかな呼吸に少しずつ引き込まれていく。私はただ、その胸に顔を埋めるようにして、目を閉じた。
「大丈夫……大丈夫」
まるで自分に言い聞かせるように繰り返されるその声に、私はようやく涙がにじんでくるのを感じた。
荒れていた呼吸が少しずつ落ち着いて、指先の震えも和らいでいく。
「わたし、本当に死ぬかと……」
呟いた声は震えていた。安室さんの手が、そっと私の背を撫でる。繰り返し、なだめるように、包むように。あたたかくて、少しだけ苦しいくらいに安心できて──そっと息を吐き出したその時だった。
「あっ…天沢くん…!わたし……わたしだけ、ここに来てしまって…!どうしましょう!」
はっと思い出して顔を上げた。
あの瞬間、天沢くんも一緒にいた。運転席でパニックに陥りながらも、逃げようとしてくれていた。
でも私は、途中でこの世界に来てしまった。ということは──
「天沢くんって、誰ですか?」
「父のアシスタントです!私と逃げていて……一緒に車に乗っていたんです!でも、もしかしたら……あの銃で……!」
血の気が引いていく。頭の中で最悪の想像が止まらない。私のせいで、天沢くんが巻き込まれたかもしれない。まさか、私だけ助かって──
「狙いはあなたです」
安室さんの声が、その妄想を断ち切った。
私は一瞬言葉を失い、彼を見つめた。安室さんの瞳は、真っ直ぐで、曇りのない強さを秘めている。
「おそらく、彼には危害は及んでいないはずです。その人物の目的は、はっきりしています」
「…知ってるんですか?あの人のこと」
思わず問いかけた声は、かすれていた。
安室さんは一拍の間を置き、それから静かに頷いた。まるで、余計な不安を煽らないように、慎重に。
「お父さんから何か、その人物について聞いたことは?」
安室さんが確認のためそっと尋ねる。
私は、彼の胸元に額を預けながら、小さく首を振った。
「……何も。まだ飛行機の中で、連絡も……きっとつきません」
耳の奥で、自分の鼓動が脈打っていた。
状況は、私が思っているよりももっと深刻で──もっと複雑に入り組んでいるかもしれない。静かに、足元を崩してくるような、そんな恐怖。
「安室さんは、どこへ向かっていたんですか…?」
私の問いに、安室さんは短く息を吸ってから、穏やかに答えた。
「あなたを、探していました。りかさんのことを考えれば、この世界に引き込まれるはずだと……そう思って」
──そうだったんだ。
安室さんが私を想ってくれたことで、私は命を繋ぐことができた。あの弾丸から逃れ、この世界へと辿り着けたんだ。
「……助けてくれて、ありがとうございます」
そう言った瞬間、また涙がにじんだ。
囁いた私の声は、まだ震えていたけれど、少しずつ安堵の感情に包まれる。安室さんは何も言わずに、ただ私の頭をそっと撫で続けた。
*
安室さんの腕の中で、私はゆっくりと目を開いた。
あたたかい体温。一定のリズムで伝わってくる心音。少し前まで、確かに私は死の淵にいた。けれど今はこうして、彼の腕の中にいる。それがどんな薬よりも効いた。
しばらくして、安室さんが私の肩をそっと離した。
「だいぶ落ち着きましたね」
「……はい。ありがとう、ございます」
かすれた声でそう返すと、安室さんは軽く頷いて、再びシートベルトを締めた。私もそれに倣って体を起こし、窓の外に目をやる。まだ陽は高いけれど、空の色がほんの少しずつ傾き始めている。
それからの車内は、しばらく静かだった。ラジオも音楽も流れていない。けれど、その沈黙は不思議と重たくなくて、むしろ心地よかった。
走る車に揺られながら、私は何度か安室さんにあのフードの人物のことを聞こうかと悩んだ。けれど、口を開こうとするたびに──安室さんの横顔に映る、静かで落ち着いた表情が、それを止めさせた。
まだ、話すタイミングじゃないんだ。きっと。
安室さんも、私の心がちゃんと戻るまで、無理に話す気はないのだろう。私はそれに甘えるように、シートに深く体を預けて、目を閉じた。
どれくらい走っただろう。
ふと、波の音が聞こえた気がして、目を開けた。
「海……?」
車がゆるやかにスピードを落とし、目の前には大きな水平線が広がっていた。群青色の海と、金色に照らされた波。太陽はちょうど西の空に傾き始めていて、空のグラデーションがゆっくりとオレンジに染まっていく。
安室さんが車を浜辺のすぐ近くに停めた。ドアを開けると、海風がふっと頬を撫でる。冷たいけれど、嫌じゃない。
「……どうしてここに?」
そう尋ねると、安室さんは少しだけ頬を緩めた。
「りかさんが外に出たがっていたので。どうせなら、綺麗な景色を見せてあげたいと思ったんです」
「……わたしのために?」
「ええ」
その一言が、胸にじんわりと染み込んだ。
私たちは車から降りると並んで歩き、波打ち際から少し離れた岩場のそばに腰を下ろした。
遠く、船が一隻ゆっくりと進んでいるのが見える。空はもう半分くらいがオレンジに染まっていて、まるで世界全体が、夕陽に包まれているようだった。
「きれい……」
ぽつりと呟くと、安室さんは隣で目を細めた。
「何も考えずに、ただ海や空を見上げる時間って思っているより大事なんです。僕もこうして海に来るときは、少しだけ全部から離れたくなります」
「…安室さんでも、そんなときあるんですね」
「もちろんありますよ。僕も人間ですから」
ふっと笑ったその声に、私の心も軽くなる。
波の音、カモメの声、砂を蹴る風。世界がすこしずつ落ち着いて、ほんのわずかな平和が心の奥に広がっていく。不安も、恐怖も、あの銃声さえも、少しだけ遠くへ追いやることができた。
そのとき、夕陽に照らされる水平線を見つめながら、ふいに安室さんが口を開いた。
「……怒らないんですか?」
「え……?」
思いもよらない言葉に、私は瞬きを繰り返す。
隣で彼は海へ視線を投げたまま、表情をわずかに曇らせていた。
「りかさんが外に出たがっていたこと、僕は知っていました。なのに……わざと部屋に閉じ込めていた。鍵を持って出て行っていたのも、帰るまであなたを外に出られないようにするためです」
その声には、普段の落ち着きとは違う色が混じっていた。低く、どこか罪を告白するような響き。
「…もちろん理由があってのことですが、善意を利用した軟禁には違いない。あなたが玄関を開けたまま外に出るはずがないとわかっていたからです。本当なら、怒られて当然なんです」
ようやくこちらを振り返った彼の瞳には、ためらいと苦さが宿っていた。
私は小さく息を吸い込む。心臓が少し速くなったのは驚きのせいか、それとも彼の真剣さに胸を打たれたせいか。
「……怒ってなんか、ないです」
安室さんの眉がかすかに動いた。
私は言葉を重ねる。
「たしかに、鍵がないことに気づいてあれ?と思ったときもありましたけど……理由があるのは、なんとなくわかってましたから。安室さんは、私を守ろうとしてただけですよね」
そう告げると、彼の瞳にわずかに揺らぎが走る。
それから、ほっとしたように小さく目を伏せて、海風に混じる声で呟いた。
「……あなたは、本当に優しいですね」
「優しいんじゃなくて……安室さんのこと、少しずつわかってきただけです」
そう言うと夕陽に照らされた安室さんの横顔が、ゆっくりと柔らかくほどけていった。
どれくらい眺めていただろうか。
太陽がゆっくりと地平線に沈んでいくのを見つめながら、私はようやく口を開いた。
「……あの、安室さん。そろそろ聞いてもいいですか?あの人のこと──」
夕陽の名残を追いながら、そっと隣にいる安室さんへ視線を向けた。
あの銃を持ったフードの人物。父の名前を知り、安室さんとの関係まで言い当てた、あの不気味な声。私は、やっと心が落ち着いた今だからこそ、聞くべきだと、知るべきだと思った。
けれど、安室さんは、ふいに静かに立ち上がった。砂の上でわずかに音を立てて、スラックスの裾が風に揺れる。
「…もう一つだけ、行きたいところがあるんです」
目を細めて、水平線の向こうに視線を向けながら、安室さんはそう言った。
「付き合っていただいてもいいですか?」
まっすぐこちらに向けられた瞳。
嘘も誤魔化しもない目。
「……はい」
少し驚きながらも、私はすぐに頷いていた。
彼が行きたいというなら、私はどこにでも行く。たとえその先に何が待っていたとしても──。
「安室さんとなら、どこだっていいです…」
語尾が少し小さくなってしまったけれど、そう言うと、安室さんは小さく笑って「ありがとう」と呟いた。その声が、夕陽に照らされた風の中に溶けていく。
安室さんのあとを追って、私はゆっくりと立ち上がる。足元の砂がきゅっ、と音を立てた。
暮れゆく空の下、背を向けて歩き出す彼の背中は、どこか覚悟を決めたようにまっすぐで、私はただ無言でその背に手を伸ばすような気持ちでついていった。
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