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車が静かに停まったのは、とある高層ビルの駐車場だった。地上から見上げてもてっぺんが見えないほどの高さ──この街でも、指折りのタワービル。安室さんは何も言わず、エレベーターへと私を導いた。無言のまま上昇していくエレベーター。夕陽が落ちた空にはすでに星が瞬き始め、都市の夜がゆっくりと顔を出しつつある。
そして、辿り着いたのは屋上。開けたドアの向こうから、ひやりとした夜風が吹き抜ける。高層ビルの屋上から見下ろす夜景は、まるで星を詰め込んだ箱をひっくり返したように輝いていて。フェンスの縁に近づくと、足元に広がる車の光、人々の動き、静かな喧騒……そのすべてが、ここからは遥か遠くに感じられた。
「……すごい、景色ですね」
そう言うと、安室さんが横に立ちながら静かに頷く。
「この場所を、覚えていますか?」
その問いに、私は一瞬目を伏せ、そして笑った。
「もちろん、覚えてますよ。今にも息を引き取りそうで本当に焦りました」
「ふふ、そうでしたね」
安室さんも、わずかに唇を緩めた。
「ちょうど、このあたりでしたよね……」
一歩踏み出して、床のヘリポートマークを見つめる。
米花プラザホテルの屋上。あの時、倒れていた安室さんの姿が、今でもはっきりと思い出せる。目の前の彼を助けたくて、怖さも何もかも振り払って必死に救い出した。
「倒れて……血を流してて……でも、安室さんは運がいいですよ。こんな場所で、私に出会えるなんて」
冗談めかして言うと、安室さんは一瞬驚いたように目を丸くし、そして穏やかに笑った。
「……ええ。とても、幸運でした」
そのまま、しばらくの間、ふたりで静かに夜景を眺めた。
けれど、私の中にはずっとひとつの問いが膨らみ続けていた。この場所に来たこと、安室さんがここに連れてきてくれた意味。
そして──今、向き合うべきこと。
「…安室さん。もう、聞いてもいいですか?あの人の…あの、フードを被った…」
語尾が自然と小さくなった。
口に出すのが少し怖い。それでも──知りたかった。安室さんが何を抱えていたのか、あの人物の正体は何なのか。
「そうですね、どこから話せばいいのか……」
安室さんは少しだけ目を伏せ、そして風の中に立ったまま、低く静かに語り始めた。
「あなたと偽装結婚することが決まった日の夜、僕のスマホに着信がありました。表示は“非通知”。あとで風見に調べさせましたが、発信源の特定はできず、追跡も不可能でした」
一拍、間が空いた。そのときのことを思い出しているのか、安室さんの声には緊張がにじんでいる。
「通話の向こうは、変声機を通したようなくぐもった声で…最初に聞こえてきたのは──」
"お前、どこにいる?"
風が吹き抜けた。
私は思わず、手すりを掴んだ。指先がひんやりとしていて、冷えた空気が肺の奥にまで染み込んでくる。その口調に、聞き覚えがあったからだ。
"どうやって生き返った?"
"お前が自殺だ?勝手に、誰の許可を得て?"
"俺がどれだけお前を待っていると思ってる?"
「最初は何の話か分からず、僕も誰だ?と問い返しました」
安室さんの目が、夜景を見つめたまま細められた。風が彼の前髪をかすかに揺らす。
「ですが、返ってきたのはさらに意味の分からない言葉でした」
"俺のことを知らんだと?俺はお前の胸と腹を刺したじゃないか!あのビルの屋上で!"
「……と」
全身に鳥肌が立った。
この場所で──安室さんが倒れていた、この場所で。まるでその場に“本当にいた”かのような、そんな口ぶりだ。
「そうなると、僕を刺した犯人が電話をかけてきたことになりますが、どうにも腑に落ちません」
こちらを向いたその目には、明らかな確信と疑念があった。
「あなたのお父さん…宮間ノリヤさんは言っていました。僕を刺した犯人は"存在しない"と」
…そうだ。私も、覚えている。
父の家に安室さんが訪れた、あの漫画のセリフで読んだ。あの時、安室さんに犯人の顔を描くよう言われた父が、苦し紛れに答えていたはずだ。
"安室透を殺すことができるなら、何でも良かった。犯人を考えてもいない。" と。
「それなのに、犯人から着信があった。それも存在するはずのない人物から」
安室さんの声が、冷たい夜気の中で、さらに低く響く。父が「考えていない」とはっきり口にしていたはずの存在。設定さえ、されていなかったはずの人物。
なのに、その“犯人”が、突然姿を現し、私の存在を知り、銃を持って現実世界に現れた?
「犯人は最後にこう言い残して、電話は切れました」
"そういえばお前、結婚したんだってな?次は、その女の番だ。額に穴を開けてやる……待っていろ"
額に穴──それは、明らかに“私”のことを指している。あまりにも具体的で、生々しい言葉。ただ脅すだけの言葉じゃない。そこには確かな“殺意”がある。
思わず自分の指先で額をさすった。鼓動がひとつ、明らかに強く脈打った。
「だから僕は、あなたを家の外に出すことを躊躇った。あの声の正体も、どこにいるのかも、何も分からなかったからです。その犯人が現実世界に現れたと聞いて、肝が冷えました」
「そう、だったんですね……」
「この世界ではあなたが怪我をしないことが唯一の希望だったのですが、それももう意味がないようですしね。…おそらく、僕と結婚という形をとったからでしょう」
私がこの世界で怪我をした理由。やはり、安室さんも私と同じように考えているみたいだ。
それに、あの時の安室さんの張り詰めた表情。私を外に出したがらなかった理由。口にはしなかったけれど、ずっと私を守ってくれていたんだ。しかし、その犯人が思いもよらず、現実へと…。
風が再び吹き抜ける。この夜の静けさは、決して穏やかではない。むしろ、これから起きる何かを知らせるように──背中をひやりと撫でていく。
私は小さく息を吸って、こわばった唇を開いた。
「犯人は、なぜ……現実世界にいるのでしょうか?……漫画の人物のはずですよね?」
ぽつりと、心の奥から漏れた疑問。安全なはずの現実に、犯人がいた。あの電話の声が、耳の奥に焼き付いている。
“戻ってきたのか” “今から、お前のところに行く”
まるで、私が戻ってくるのを最初から知っていたみたいな口ぶりだった。
「僕もそこが一番の疑問です」
「犯人は2つの世界を、好きに行き来できるとか……?」
「いえ、それはないと思います。りかさんが戻った途端に狙ってきたのは、こちらに来ることができないから。…これは憶測でしかないですが、僕が現実に行ったときに、あの人物も後を追ってきて、そのまま戻れなくなったのではないでしょうか」
私は言葉を失い、ただ目の前のビル群を見つめた。
私が望んだ続編は、こんなものじゃなかった。もっと穏やかで、あたたかいものになるはずだった。
それなのに、なぜ?どうしてこんな悪夢みたいな展開になってしまったのだろう。
「もう、めちゃめちゃですね……」
誰にも届かないような声で、そう呟いた。
頭が混乱する。世界の境界は壊れてしまった。物語と現実の境目が、どこからどこまでなのか、もう分からない。
風が強くなり、ワンピースの裾がふわりと揺れた。
「りかさん。一つ、僕と約束をしてくださいますか?」
静かな問いかけが、夜風の中でゆっくりと響いた。沈黙が降り、静寂の中に、都市のかすかな喧騒だけが遠くに漂っている。
私は息を呑んだまま、安室さんをじっと見つめた。問いかけの真意を測るように、彼の横顔に目を向ける。
「向こうに戻ったら、絵を描いてください」
小さく瞬きをした。
絵?この状況で?──言葉の意味が分からず、戸惑いのまま言葉を返す。
「……なんの……絵ですか?」
安室さんは少し空を仰ぎ、それから私の目を見て、静かに答えた。
「“夢”です」
夢──たった一言なのに、一瞬、何の話をされたのか分からなかった。
「僕が夢から覚める絵を」
その言葉が静かに落ちた瞬間、私は完全に言葉を失ってしまった。何かが起ころうとしている──そんな予感が、背中を這いのぼる。
「2ヶ月前の、僕たちの出会いから、今この瞬間までのすべてを、“夢”だったことにしてください。僕が、長い夢から目を覚ましたことに」
なにを……言っているの……?
呼吸が詰まり、喉の奥がきゅっと痛む。声を出そうとしても、うまく息ができない。胸の内側が、急激に冷えていくのを感じた。まるで、凍りつく湖の底に沈んでいくような感覚。
「どれだけ考えても、今はこれしか方法が思いつきません。僕があなたを、人生の鍵だと気づく前に──すべてを戻してください」
言っていることの意味が、理解できない。
言葉としてちゃんと聞こえたのに、頭の中で繰り返せば繰り返すほど、脳が理解することを拒否している。
「あなたを捜し始めたことで、僕は"知ってはいけないこと"を知ってしまった。犯人も僕を追って、あなたの世界にまでやってきた。その人物もすでに気づいているはずです。世界の"虚構"に」
胸の奥が、急激に冷えていく。
まるで冷たい水の中に沈められたように、じわじわと感覚が奪われていった。
「だからこそ、僕たちが出会う“前”に戻さなければなりません。そうすれば、あなたはこの世界に引き込まれずに済む。僕も何も知らないままでいられる。犯人がこの世界から出ることもない。…何もかも、危険が消えるんです」
淡々と語るその言葉のひとつひとつが、ナイフのように胸に刺さった。まるで、それが一番いい方法だと信じて疑っていないような、そのまなざしが、余計にどうしようもない喪失の予感を運んでくる。
「あなたを危険にさらすわけにはいかないんです。…できますよね?僕を川底から救い上げることもできたんですから」
安室さんの思いは、痛いほど伝わってくる。
私を守ろうとしてくれている。わかってる、ちゃんとわかってるのに……。視界がじわりと滲んだ。
あまりにも残酷で、あまりにも彼らしい言葉──だって、そうでしょう。“夢だったこと”にする。それは、あなたの中から私がいなくなるということ。私だけが、全部を覚えていて、あなたは何も知らずに、最初のあなたに戻ってしまう。そんなの、あまりにも一方的で、残酷で。
でも、自分のことは二の次。私を守るためなら、自分の記憶さえ差し出す。
「……どう思いますか?僕の気持ち、理解できますか?」
やさしく、けれど決意を含んだ声。
私が拒否する選択肢なんて端からない。
「……理解、は……できます……」
絞り出すようにそう答えた。
すべてを解決するには、きっとそれしか方法がないのだろう。けれど、心がそれを拒む。叫びたい。駄々をこねるように、首を振って泣き出したい。「いやだ」「私を忘れないで」って、縋りつきたい。
「……っ」
けれど、彼の瞳を見た瞬間、何も言えなくなった。心の奥が、ぽろぽろと崩れていく。もう何も、押しとどめられそうになかった。
「では、描いてくれますか?僕がここで倒れたあと、入院中に見る“思い出せない夢”を」
迷いのないまなざし。その奥にあるのは、苦悩や葛藤をすでに乗り越えたあとの、静かな決意だった。私がどれだけ手を伸ばしても、もう引き止められない。そんな顔をしていた。
ここで犯人に刺されて入院したあの日からのすべてを、夢として──。私と出会い、世界の嘘を知り、心を交わしてきたこの時間のすべてを、彼は“夢”にするよう私に頼んでいる。
それが、私を守る唯一の方法だと。
「約束してください。戻ったら、すぐに描いてください。戸惑う時間もありません。犯人は、もうすぐそこまで来ているかもしれない」
私は下を向き、何も言えずにいた。口を開けば泣いてしまいそうだった。身体がふるえ、視界が揺れる。
そのとき、安室さんがそっと私の頬に触れた。優しい指先が、涙の跡をなぞうように、そっと私の顔を上に向かせる。
「返事は?」
瞳を覗き込まれた瞬間、私はすべてを悟った。この人はもう、私と別れる覚悟をしている。引き止めても、それが彼を苦しめてしまうだけだと分かった。
だから、私は──ほんのかすかに、頷いた。
「最後に一度抱きしめておきたいですが……もう、それもできそうにありません。決意が、揺らぎそうで」
安室さんの声が、静かに心の奥に染み込んでいった。そして、その手が頬から離れる。温もりが、するりと消えていく。残されたのは、ひどく冷たい風と、胸の痛みだけ。
一歩だけ後ろに下がった安室さんは、ポケットから何かを取り出し、そっと私の手のひらに握らせた。
「これを。あなたのお父さんに渡してください」
見ると、それは小さなUSBメモリだった。金属の表面が夜の光を受けて、きらりと光る。目を見開いて彼を見つめ返した。
「これは……?」
「僕が記録していた、これまでの事件の一部始終とお願いです。あなたが帰ったあと、2つの世界で起こったことを残しておくために。このデータを見れば、きっと役に立つはずです」
「……そんなの……まるで……」
まるで──これが遺言みたいじゃないか。ただ強くUSBを握りしめる。
安室さんは、私の表情を一瞬だけ見つめてから、ゆっくりと背を向けた。そして、まっすぐにフェンスへ向かって歩き出す。
「どこに……行くんですか……?」
思わず息を止め、彼の背中を追った。
その一歩ごとに、何かが遠ざかっていく。取り返しのつかない、何かが──。
「ごめんなさい。時間がないので、確かな方法がこれ一つだけなんです」
──風が吹いた。頬を撫でるような優しい風。けれどそれは、まるで別れの冷たさを孕んでいるようで、心をなぞるようにひたひたと吹き抜ける。
目の前に立つ彼の輪郭が、夜の闇と光の中でゆらいでいた。まるで──今にも溶けてしまいそうに、儚くて不確かで。
「りかさん」
やさしい声が、耳に届いた。
たくさんの場面で呼ばれたその名前。だけど今の声は、どこか遠くて、切ない。
「……僕のことは、忘れてください」
その言葉が、胸に突き刺さる。まるでナイフのように鋭く、そして、何よりも哀しかった。
「どうして……?」
絞り出すように、そう言った。忘れるなんてできるはずがない。こんなにも確かにここにいるのに、心の奥まで刻まれているのに。
安室さんは、ただ優しく微笑んで首を振った。
「僕は、ただの漫画のキャラクターです。そう思ってください」
静かで、けれど決して覆せない事実のように、彼は言った。冷たく突き放すその声に、何も言えなくなる。
風が強くなる。髪が揺れ、足元の影がにじむ。一歩を踏み出そうとするが、足が動かない。まるでこの場に縫いとめられているように、身体が動かず、焦りが喉を締めつける。
「僕に会いたくなったら、漫画を読んでください」
最後の言葉が、夜の空に静かに溶けていく。
まぶたの裏に、安室さんの微笑みが焼きついた。
待って。行かないで──そう言おうとした瞬間。
彼の身体が、ふっと風に乗るように、フェンスの向こうへ姿を消した。躊躇いもなく、静かに。重力に従うというよりも、光に引き寄せられるような、静かな動きだった。
瞬間、胸が張り裂けそうになり、息が止まった。叫ぼうとした声は喉の奥で凍りつき、足も動かない。世界の重さが一瞬、すべて消えたような感覚に陥る。
だけど。どこかで、わかっていた気がする。こうなる未来を、いつか夢で見たような──そんな感覚が、胸の奥をかすめた。初めて出会ったときから、ずっと遠ざかる運命だったのかもしれない。それでも、手を伸ばさずにはいられなかった。
そして──光が、すべてを包んだ。目の前が反転するように眩しくなり、風の音も、足元にあったはずの地面も、夜景のきらめきさえも、遠ざかっていく。
私の視界はふわりと滲んで、元いる場所へと静かに引き寄せられていった。
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