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side: Furuya


──まぶたが重い。光がかすかに差し込んでいる。まるで水面の向こうから、揺れる陽光が瞼を透かしているように。ゆっくりと意識が浮上していく。ゆるやかに目を開けた瞬間、白い天井が視界に入ってきた。
病院の天井。乾いた空気。わずかに漂う消毒液の匂い。布団の重みと、背中に感じる柔らかなマットの感触。自分が、警察病院のベッドの上にいることが、すぐにわかった。
その時なぜか。ぽたりと、右のこめかみを何かが伝った。なんだ?涙か?頬をつたい、枕に落ちる前に、指先でそっと拭う。
目覚めたばかりのはずなのにどうして、自分は泣いている?夢を見ていた気がする。とても長くて、不思議で、でも確かに心を揺さぶられるような夢。
けれど、その内容は思い出そうとするほど霧の中に沈んでいく。確かに、何かを大切に思っていた気がする。それが何だったのか、まるで水の底へ沈んだ記憶のように、指先からこぼれ落ちていく。
もう一度、そっと目元を拭った。

「……降谷さん」

扉の向こうから聞き慣れた声がした。
風見だった。手にはファイルを抱えていて、扉を静かに開けたまま、こちらの様子を見ていた。

「起きましたか……!よかった……!」

ほっとしたように駆け寄ってくる。目の奥に、明らかな安堵の色が浮かんでいた。
扉を閉めベッド脇まで来ると、やや小声で問いかけた。

「気分はどうですか?どこか痛みはありますか?」

しばらく黙ったまま、自分の体を見下ろした。胸に包帯が巻かれている。腕に点滴が刺さっていて、心電図の音が小さく規則正しく響いていた。

「病院に搬送されたのか……?」
「はい。あのホテルから通報が入りまして……すぐに警察と救急が駆けつけました。刺された傷は、幸いにも臓器に届いておらず、今は安定しています」

そうか。そうだった。自分はあの夜──あのホテルの屋上で、何者かに襲われた。
なぜそこに行ったのか。誰と話していたのか。その前後の記憶が、ところどころ途切れている。思考を戻すように、ゆっくりと息を吐いた。

「犯人は見つかったのか?」
「……いえ。残念ながら、まだです。防犯カメラには映っておらず、現場に指紋や足跡も残っていませんで……」

そこで、ふと風見が言葉を止めた。
僕の顔をまじまじと見つめ、眉をひそめる。

「って、降谷さん……泣いてるんですか?」
「……え?」

反射的に手が頬に伸びた。乾いたはずの肌に、また新たな雫が伝っていた。気づかないうちに、再び涙が零れていたみたいだ。

「おかしいな……」

かすかに眉を寄せ、拭っても拭っても止まらない涙を指先で受け止める。痛みも、苦しさもない。ただ妙に胸が、ぽっかりと空いている。
まるで、大切な何かを失ったような。触れていたはずの温もりが、静かに指の隙間からすり抜けていくような。喪失感。虚無感。それだけが、身体の奥に確かに残っていた。

「なんだか、悲しい夢を見ていた気がする」

ぽつりと呟いた。その言葉に、風見は一瞬、驚いたように目を見開いたが、何も言わずに、「無理もない」とでも言うように黙ってうなずいた。
もう一度、視線を天井に戻した。どんな夢だったのか、思い出せない。けれど、確かに何かを強く想っていた。強く、守りたいと思っていた。そんな気がする。だけど、その理由も、訳も、感情も──すべてが、霧のように消えていく。
なぜか、とても、大切だったのに。ただひとつ、理由のわからない涙だけが、静かに目尻を濡らしていた。





**





カチ……カチ……。
ペンがタブレットの表面を擦る音だけが、しんとした部屋の中に響いていた。止まったら、描けなくなる。描けなくなったら、気持ちが崩れてしまう。
「戻ったら、すぐに描いてください」あの約束だけが、今の私を突き動かしていた。頭の中にある彼の姿を、たった一枚の絵に閉じ込めるように。“夢だったことにする”ために──。

私は夢中で、画面の中に彼の姿を探し続けた。
重ねたレイヤー。消しては描き、また描き直す。
まるで記憶の奥に沈んでいく彼を引き戻すように、一本一本、線を繋いでいく。
眉の形。睫毛の影。眠りから覚めたばかりの瞳の色。すべてを、忘れないように。二度と見ることができないかもしれない彼を、この一枚に封じ込めるために。
描くたびに、胸が締めつけられた。たった3ヶ月ほどの出来事だった。でも──あの時間が、私のすべてだったのだ。だからこそ、自分の手で「夢」に変えなければならないこの作業が、何よりも苦しかった。

「…っ……」

首筋を汗が伝う。ワンピースは背中に張りつき、髪は額にまとわりついていた。
カーテンも閉め切ったまま。エアコンに手を伸ばす余裕すら惜しかった。その数秒さえ、彼の表情を一筆でも多く描くために使いたかった。

「もう少し……あと少し………」

自分に言い聞かせるように呟く。
やがて、彼の顔が完成に近づいてきた。病院のベッドの上、朝の光の中でゆっくりと目を開ける瞬間。その瞳はまだ夢の名残を宿していて、どこか遠くを見ている。
──できた。最後の線を引き終えたとき、私はそっとペンを置いた。画面の中には、静かに、穏やかに、夢から目を覚ました安室透が、描かれていた。まだ覚めきらない夢の中を彷徨うように、ぼんやりとしたまなざしで。その表情は穏やかで、どこまでも優しかった。けれど──

「え……?」

私は目を凝らした。
おかしい。描いていないはずの線がある。

「なん、で……?」

絵の中の、彼の目尻から──透明な、ひとすじの涙がこぼれていた。描いた覚えは、ない。私はそんな線、入れていないのに。
指を伸ばす。けれど、画面の中には触れられない。その涙だけが、あまりにもリアルで。まるで、彼の中に何かが残っていると告げているようで。胸の奥が締め付けられた。

「……っ……」

ぽろ、と涙が頬を滑り落ちる。止めようとしても止められなかった。嗚咽が喉の奥で詰まり、体が震える。
胸が、痛い。苦しい。涙が頬を次々に伝い、タブレットの画面にぽつりぽつりと落ちていく。

「……っ、苦しい……」

思わず叫んだ声は、誰にも届かない。部屋には私しかいないのに、恥ずかしいくらい、泣きじゃくった。ペンを握る手が、力を失って震える。がくりと肩が落ち、私は机に突っ伏した。
こんなふうに終わってしまうなんて、思ってなかった。だけど、どこかできっと、わかっていた。あんなに優しい人が、誰かを守ろうとしたとき、全てを差し出す人だということを。
胸を強く押さえる。呼吸が浅く、喉がつかえ、どれだけ吸っても、空気が足りなかった。視界が滲んでいく。

「安室、さん……」

名前を呼んだ瞬間、ふっと意識が遠のいた。体の力が抜け、私はそのまま机に崩れ落ちた。

──真夏の午後。締め切った部屋の中、風も光も届かない場所で。唯一そこにあったのは、タブレットの画面に映る、目を覚ました彼の静かな涙だけだった。



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