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残念ながら現実世界では──犯人の手によって、2人の命が奪われた。警察によると、ふたりは、犯人に"何か"を問いかけたらしい。通報の前、近隣住民が聞いた「誰ですか?」という声と、その直後の銃声。ただ話しかけただけなのに、それだけで命が奪われてしまったのだという。それはあまりにもむごく、あまりにも理不尽な結末だった。
けれど──天沢くんは無事だった。私が助手席から消えたあと、彼は恐怖に突き動かされるように、あの場から逃げ出した。それが結果的に、彼の命を救ったのだった。

そして、あの物語の中にいた登場人物たちも、漫画の中で何事もなかったかのように、いつもの日常を生きていた。まるであの2ヶ月半の出来事など、最初から存在していなかったかのように──彼らは変わらない顔で、変わらない台詞を交わし、紙の中に描かれていた。
読者のよく知る『名探偵コナン』が戻ってきたのだ。強くて、冷静で、どんな困難にもくじけず、必ず正義を貫く“我らのヒーロー”が。
隠されていた“安室さんの物語”が公開されたとき、一時的にSNSはざわついた。彼が自殺を図るなどのあまりに衝撃的な内容に、驚きや混乱の声も多く上がった。けれど──すべてが「夢だった」と締めくくられたその結末に、ファンたちは次第に落ち着きを取り戻し、安心したようだった。SNSには「やっぱりこの安室さんが好き」「これでいい」といった感想が並んでいた。
──そう、“これでいい”。現実の苦しみや犠牲など、知らないままでいられる世界。そのままの“彼ら”を、きっと誰もが望んでいたのだ。

私が目覚めたのは、病院のベッドの上だった。
熱中症だった。真夏の熱気に包まれた父の家で、エアコンもつけず、窓も開けず、ひとりで絵を描き続けたせいだ。
ただ夢から目覚めるシーンを描くだけじゃ足りなかった。彼が本当に生き延びるためには、必要なことがあった。
──誰かが屋上に駆けつける絵。ホテルのスタッフが非常階段を駆け上がる構図を、描いた。そして、運ばれる先も──ただの病院ではなく、彼の身元が確実に守られるよう、警察病院へ搬送されるシーンを、きちんと描いた。ひとつでも欠けたら、彼の命が守られない気がして。
そのまま力尽きて、熱中症で倒れてしまったところを天沢くんが発見した。すぐに救急車を呼んでくれたらしい。聞けば、ひとりで過ごすには不安すぎるからと、ずっと近くで見守ってくれていたのだという。

「具合はどうですか?」

優しく問いかける声がして、私はそちらに顔を向けた。天沢くんだった。白いパーカーを羽織って、手にはコンビニのペットボトルが握られている。少しだけ眠たそうな目で、でも心配そうに私を見ていた。

「……」

私は何も言えず、ただ小さくうなずいた。それだけで、彼は少しだけ安心したように息をついた。

「こまめに水とって下さいね。脱水ひどかったみたいですよ。……それに、過労も。あの部屋、すごい熱気でした」
「……そっか」

声を出すと、喉がひりついた。天沢くんがすぐに立ち上がって、サイドテーブルに置いてあった水を差し出してくれる。それを少しだけ口に含むと、少し落ち着いた気がした。

「大事をとって退院は明日に、って看護師が言ってました。点滴もあと少しで終わるって」
「うん……」

静かに返事をしながら、視線を窓に移した。外には眩しい真夏の光が降り注いでいて、白いカーテン越しに、柔らかくゆれる木の葉の影が床に映っている。私の腕には点滴のチューブが繋がれていて、その先からポタリ、ポタリと静かに落ちる液体の音がかすかに響いていた。

「昨晩、先生が来ましたよ」
「……え?」
「1ヶ月はスイスにいるって聞いてたのに……騒ぎを聞きつけて、すぐに帰ってきたみたいです。病室に来て……りかさんの寝顔を見て、ホッとした顔をしてました」
「……そうなんだ」

小さく息をつく。心の奥で何かが少しほどけるような気がした。しばらくスイスで休養するはずだったのに、父が駆けつけてくれた。とんぼ返りだったに違いない。申し訳ないけれど、今のこの状況では有り難かった。

「そのあと、りかさんが握りしめてたUSBを持って、すぐ帰られました」
「USB……?」

その言葉を受けながら、私はふと視線を伏せた。
──そうだった。彼に託された、あのUSB。気を失う直前まで、私はそれを強く、強く握りしめていた。あの中には、何が入ってるんだろう。彼は父に何を伝えたかったのだろうか。でも、そっか。ちゃんと父の手に届いたんだ…。
風が、そっとカーテンを揺らした。真夏の陽射しが静かに病室を照らしていた。私はもう一度、水を口に含みながら、そっと、胸の奥に手を当てた。

「いろいろと、ありがとう。天沢くん……」
「いえ。無事でいてくれて、本当に良かったです」

天沢くんは、それ以上多くを語らなかった。
ただ私の横に座って、静かに窓の外を見つめていた。
夏の光は強く、真っ白な雲が流れている。どこか遠くの国の話のように、あの出来事が、少しずつ遠ざかっていくのを感じた。

「……退院したら、どうします?」

ふいに天沢くんが口を開いた。私は少しだけ目を閉じて、それから、ゆっくりと答えた。

「すぐ仕事に戻るよ」

その言葉に、天沢くんは驚いたように目を見開いた。心配そうに眉をひそめる。

「もう少し休んでください。ちゃんと。まだ、顔色だって……」
「ありがとう。でも、もう、これ以上休んだら、崩れそうだから」

言いながら、自分でも驚くほど静かな声だった。
何かしていないと、考えてしまう。彼のことを──あの、夢のような日々を。
今だって、必死で思い出さないようにしてる。目を閉じれば、あの声が聞こえてしまいそうで。あの笑顔が、すぐそばにあるような気がしてしまって。

「……だから、戻るの。仕事に」

喉の奥がきゅっと締めつけられた。
これは逃げなのかもしれない。ちゃんと向き合わなきゃいけないのかもしれない。でも今は、まだ無理だった。
天沢くんは、何も言わずに私を見ていた。そのまなざしに、責める気配はなく、ただ、受け止めようとしてくれているような、優しさがにじんでいる。
私はほんの少しだけ笑ってみせた。

「お願い。もうちょっとだけ、強くなりたいの。今はまだその途中」

それを聞いた天沢くんは、ようやく口元をほころばせて、諦めたように小さくうなずいた。

「……わかりました。無理はしないでくださいね」

その言葉に、私は肩の力がふっと抜けるのを感じた。
病室の窓の外には、蝉の声。
季節はまだ、夏の真ん中だった。



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