45
翌日。久しぶりに、自分のアパートに帰ってきた。玄関の扉を開けた瞬間、ふわっとこもった空気が迎える。数日しか空けていないはずなのに、なんだか時間が止まっていたような、そんな気がした。靴を脱ぎながら小さく息をつく。
「……ただいま」
声に出してみたけれど、それは誰にも届かず、静かな部屋の中に消えていった。バッグをソファに置き、まずは窓を開ける。重たい空気が流れ出し、代わりに真夏の光と風が入り込んでくる。カーテンがふわりと揺れた。空は眩しいほど青く、どこか遠くから蝉の声がかすかに聞こえた。
そのまま浴室に向かい、シャワーを浴びた。病院の消毒の匂いや汗を、丁寧に洗い流す。身体を流しながら、なぜか胸の奥が少し痛んだ。──あの世界で過ごした日々の記憶が、石のように沈んでいる。
シャワーを止めてバスタオルを手に取った。
しばらくして髪を乾かしながら鏡を見ると、少し痩せた気がした。頬の輪郭が心なしか細くなっている。病院のベッドでたくさん寝たはずなのに、目の下にはまだ薄く影が残っていた。
ドライヤーのスイッチを切ると、部屋の静寂が戻ってきた。
「……スマホ……」
ふと思い出した。鞄やポーチの中を探し、ベッドの下を覗き込む。でも、どこにも見当たらない。机の引き出しを開けて、しばらく整理しかけたそのとき──ふと、手が止まった。
「……あ」
思い出した。あの時──あの黒い水の中に引き込まれたとき、私はスマホを落としてしまっていたんだ。そのまま、安室さんを水の中から引き上げて、色々あって……それっきりだった。
「……そっか。まだ、ないんだ……」
ぽつりと呟いた声が、自分の部屋にぽつんと落ちた。
少し困ったように笑って、それから引き出しを閉めかけた──そのときだった。
目の前に──ふいに、あの光景が現れた。
白いシーツ。静かな呼吸。閉じられたまぶた。こじんまりとした病室。ベッドの上で、安室さんが穏やかな表情で眠っていた。
「……え……?」
息が止まる。一瞬、目の錯覚かと思った。
けれど、はっきりと見える。音もなく、ただそこに“いる”ように。
心臓がどくんと鳴った。足がすくみ、動けない。それでも、震える指先が、彼へと伸びる。触れたら、何かが変わってしまう気がして──でも、触れたくて。もう一度だけ、あのぬくもりを確かめたい。そっと、そっと──
「……っ」
けれど、次の瞬間。指先が頬に触れる寸前で、彼の姿は、ふっと消えた。
気がつけば、私は自分の部屋に立っていた。引き出しを開けたまま、ひとりきり。まるで──何もなかったかのように。何の変哲もない、自分の日常の光景。
「……」
何も言えず、ただ俯いた。込み上げてきた感情が喉を塞ぐ。ああ──やっぱり幻だったんだ。
思い返せば、扉を閉めようとした一瞬、引き出しの奥の闇に、ふと浮かび上がるように現れた安室さん。優しく穏やかで、痛みも不安もない、静かな彼の寝顔。きっとあれは──私が、勝手に“作り出してしまった”ものだ。
会いたくて、触れたくて。あの声を、あの手を、あのぬくもりを、もう一度だけ感じたくて。心のどこかで、別れを受け入れきれていなくて。だから私は、無意識に“彼がそこにいる世界”を想像してしまったのだろう。
きっともう二度と会えない。触れられない。そう──わかっているのに、心は追いつかない。心の奥では、まだ、彼の名を呼んでいる自分がいる。
胸がきゅっと締めつけられた。息を吸っても、うまく肺に入ってこない。苦しい。ただ、ただ苦しくて、私は目を伏せた。
そっと息を吐き出し、ゆっくりと引き出しを閉じた。小さな音が部屋に響く。それだけなのに、まるでなにか大切な扉を、自分の手で完全に閉めてしまったような気がして、胸がぎゅうっと痛んだ。
――ねぇ、安室さん。元気ですか?幸せですか?私は全然です。私は毎日毎日が…。
そんな問いかけすら、もう返事をくれる人はいなかった。
*
しかし──それから私は、何度か彼の幻を見るようになった。場所も時間も、特に決まっているわけではなかった。仕事の休憩中、帰宅してキッチンに立っているとき、夜ふと目を覚ました瞬間。ごくありふれた日常の隙間に、ふっと入り込むようにして──彼はそこにいた。
決まって、その姿は病院のベッドの上。白いシーツに包まれ、静かに眠っている。眉間にシワはなく、呼吸は穏やかで、まるで深い深い夢の中にいるような安らかな顔。目を開けることはなかった。ただ、眠り続けるだけの彼。
それは、本当に一瞬のことだった。体感としては、たった1秒か2秒。まばたきひとつする間に、彼の姿はふっと現れて──そして、まるで風にさらわれるように、消えていく。
最初は幻だと思った。でも私の意識は、はっきりしている。まるで、彼の無意識の中に残された夢が、何かの拍子にふと、私の世界と重なってしまったかのような。彼が眠っている間にだけ見る、かすかな残り香のような──もしかすると、そんな“彼の夢の端”を、私は時おり垣間見ているのかもしれない。
──会いたいと願っているのは、私だけじゃない。
ふと、そんな風に思ってしまう。彼の中に、まだどこかで記憶のしっぽが残っているのだとしたら。もしほんの一滴でも、私との時間が彼の心に染み込んでいるのだとしたら──それだけで、私は少しだけ救われる気がした。
けれど──その幻が消えるたび、私は必ず胸を締めつけられた。目の前に確かに存在したはずの彼が、煙のように消えていくその感覚。伸ばしかけた指先に何も触れられなかったという事実が、ひどく冷たく、哀しかった。
私はそれでも、彼を思う。
幻でもいい。夢でもいい。ただ一瞬でも、彼に会えるなら──私は、何度でもその光景を見てしまうのだと思う。
そして今日も、静かな時間のなかに、彼の眠る病室が──ふと、心の奥に立ち現れてくるのを、私は待っている。
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