06


そうとわかれば、迷っている時間はない。
父の家へ向かえないのであれば、私にできることはただひとつ――安室透が入院している病院へ行って、その看護師を直接止める。それしかない。この状況の意味もわからないが、とりあえず時間がない。父が描いてしまう前に止めなくなては。
タクシーのヘッドライトが視界に滑り込んでくるのを確認して、私は車を止めた。
たしか、安室透が搬送された病院は――

「すみません、米花総合病院までお願いします」

しかし、そう告げた瞬間、運転手がミラー越しに怪訝な目を向けてくる。

「はい…?お客さん米花病院ならすぐそこですけど…」
「えっ…?」

思わず問い返すと、運転手はフロントガラスに目を向けた。そのまま視線を辿ると、ほんの数メートル先、白く塗られた大きな建物に、《米花総合病院》とくっきりと刻まれた文字が見えた。

「うそ……」











自動ドアが静かに開き、鼻先をアルコールの臭いがツンとかすめる。私はそのまま中へ足を踏み入れた。
まさか、病院がこんな近くにあったなんて。それになんだか、私の働く"東京大学病院"に外観から内装までどことなく似ている気がする。白く磨かれたタイルの床や、配置された観葉植物や案内板。すべてが、見れば見るほど私の記憶と寸分違わない。
…そういえば、以前に天沢くんが「実在する建物をモデルに背景を描いている」と言っていたことがあった。その内のひとつが、私の病院だったのかもしれない。
どこか不思議な感覚のまま、私は受付へと走った。

「あの、すみません。安室透という男性がここに入院しているはずなんです。部屋番号を教えていただけませんか?」
「…失礼ですが、当院のお医者様でしょうか?」
「……あ、いえ。違います……」

受付の女性は、私が羽織っている白衣にちらりと視線を向けながら尋ねた。

「恐れ入りますが、それではお答えすることはできません」
「き、緊急なんです。お願いします…」
「申し訳ございません。規則ですので」

申し訳なさそうに首を振る女性に、胸がぎゅっと締めつけられた。
たしかに、うちの病院の白衣には"東京大学病院"の刺繍が入っている。彼女が私を怪しく思う理由も理解できるからこそ、それ以上何も言えなかった。

「わかりました。すみません…」

そう言って、とぼとぼと受付を離れる。
…どうしよう。こうなったら、自力で彼を探すしかない。けれど、この広い病院の中でどうやって探し出せばいいのか。
一つ一つ病室を覗いて回る時間はない。怪しい動きをすれば、警備の人に止められてしまうかもしれない。
…いや、でも。それでも、考えなくては。ここが私の病院と構造が同じだとすれば、彼がいる病室くらい推測できるはずだ。
安室透は公安の潜入捜査官。入院は、立場上あまり外部に知られてはいけないはず。一部の看護師や医者しか立ち入れない上に、入院しているのが内密にできる場所なんて、この病院の中じゃ限られてる。

「VVIPルーム…」

瞬時に思いつき、私は駆け出していた。





エレベーターで最上階へ。
さらに非常階段を上り、ひっそりと人の気配のない廊下へと足を踏み入れた。慎重に進みながら、前を歩く医者たちのグループにさりげなく紛れ、セキュリティカードが必要な扉をそのまま彼らと一緒に通過する。
見張りの警備員がいないのを確認すると、その集団からそっと離れ、そして最後の曲がり角を曲がる前に私は立ち止まった。

そっと角からその部屋を伺う。
――見えた。廊下の突き当たりだ。スーツを着た男が二人、ただならぬ警戒心を全身にまといながら、病室の扉の前に立っている。
あまりにわかりやすい警備体制に、ここだと確信に変わるのに時間はかからなかった。
私は息を詰め、タイミングを見計らう。そして――。

「すみません!医者です!入ります…!」

そのまま勢いよく角を飛び出して、私は駆け出した。スーツの男たちが何かを叫んでいたが、有無を言わさない速さで病室の扉を押し開ける。
その時、目の前に広がった光景にサアッと血の気が引いた。

「だ、だめっ……!!」

叫ぶより早く、私はベッド脇に駆け寄り、看護師の手から注射器をひったくった。そのまま、彼の腕に繋がれていた点滴ラインを、ためらいなく引き抜く。

「大丈夫ですか…っ!?」

左手で彼の肩を支えるようにして問いかけると、彼は驚いたように目を見開いた。その拍子に、手にしていた書類がふわりと宙を舞い、床に散らばる。
直後、「動くな!」という鋭い声と同時に、背後から腕を掴まれた。

「いっ……!」

力強く捻り上げられた右腕に、思わず呻き声が漏れる。重心を奪われ、両腕をきしむように抑えられ、もう一人の男が背後から回り込み両肩を押さえ込んだ。

「君!何をしているんだ!」
「点滴を抜いたのか!」
「ふざけるな!患者を殺す気か!?」
「ち、ちが…っ!待ってください、私は…!」

必死に声を上げたが、男たちは聞く耳を持たなかった。私を変質者とでも思っているのだろう。無理やり拘束しようとする手が、白衣の袖を引き裂く勢いで食い込む。

「彼を、助けただけなんです……!注射器の中身がカリウムで、その看護師は彼を毒殺しようと……!」

私の必死の声が、病室の静けさを切り裂くように響いた。その言葉が届いたのか、男たちの表情が瞬時に強張る。

「……カリウムだと?」

その時、視界の端で看護師が怯えたように後ずさる。顔色をみるみる青くさせ、次の瞬間、ドアを乱暴に押し開けて病室を飛び出していった。

「あっ…待って…!」

このままだと、逃げられてしまう。
しかし、焦る私と対象に男たちは冷静だった。鋭く視線を交わし、ベッドの上の彼になにか目配せをする。そして私の腕から力を解き、そのまま病室を出て彼女の追跡へと移った。

残された室内には、嘘のような静けさが落ちる。
私は震える手で、点滴の先をそっと確かめた。注射器の中に残された薬液。その色と濃度を確認した瞬間、押し殺していた息が喉の奥から洩れる。

「よかった……」

――間に合った。
投与はまだ行われていない。ほんの数秒。たったそれだけの差で、彼の命が守られた。そう思った途端、全身の力が抜けて心臓がバクバクと音を立てる。

「本当に危なかった、よかった…」

もう一度深く息を吐き、私は注射器をトレイに置いた。
そして、私もこのままの流れで立ち去ろうと静かに後ずさる。病院の外まで行ければ大丈夫だろう。そう思って、足を踏み出したその瞬間だった――。

「っ……!」

不意に腕を掴まれ、強い力に引かれた。思わずバランスを崩した体が傾き、私はベッドに上半身を預けるようにして倒れ込んだ。
反射的に身を起こそうとした私の腕を、褐色の手が掴む。

「……やっと会えましたね。宮間さん」

低く澄んだ声がふわりと頭上から落ちてきて、空気を震わせた。その響きに、胸が一拍遅れて跳ねる。
ゆっくりと顔を上げると、すぐそこに淡いブルーグレーの瞳。光を宿したその眼差しが、まっすぐに私を見つめている。

「あ……」

言葉にならない声が漏れた。
整った鼻筋、品のある金髪、そして漫画で描かれるほど強くはない褐色の肌。視界に映るのは、私が何百回もページをめくり、夢中になって追いかけたあのキャラクターだった。

「あ、の……」

光に縁取られたその横顔が、現実とは思えないほど整っていて、息をすることさえ忘れそうになる。
信じられない。安室透だ。
紙の上にしか存在しないはずの彼が、今こうして私の手を掴み、目を見て名前を呼んでいる。
胸の奥で、なにかが弾けるような感覚。現実と虚構の境目が一瞬で壊れ、甘く痺れるような感覚が全身を駆け抜けた。

「ど、して……」
「それは僕が聞きたいですね」

手首を包む指先に、わずかに力がこもる。熱が確かに伝わってきて、胸の奥がまた強く跳ねた。

「……あ、の……」

必死で言葉をつなぐ私に、彼はゆるやかに目を細めた。

「やっとお会いできた以上、あなたに訊きたいことが山ほどあります」

穏やかに告げられたはずの声なのに、逃げ道を塞ぐように深く胸へ染み込んでいく。
どうしよう。彼から目が、離せない。

「わ、わたしに……?」

かろうじて声を絞り出すも、彼はそんな私の動揺を見透かすように口元だけで微笑む。

「ええ。もちろん、わかっていただけますよね?」

そう言って、包まれていた手首から指先がすべる。けれど完全には解かず、今度は私の指を軽く絡め取った。思わず逃げるように腕を引こうとするが、彼の手がそれを許さない。
どうしよう――。この状況を打ち破る言葉がひとつも浮かばない。

「座ってください」

咎めるような視線。促されるまま、私はぎこちなく近くのパイプ椅子に腰を下ろした。
脚が震えているのが分かる。そわそわと落ち着かず、視線をさまよわせしまう。

「………」
「…………」

沈黙。とても重い沈黙。
あの安室透が当たり前のように言葉を発し、私を見つめてる。彼を救うことに精一杯だったけど、やっと現実が追いついてきたみたいだ。
何か言わなきゃと思うけど、こんな状況で一体何を話せというのか。それに、心臓の音ばかりが耳の奥で大きく響き、彼に聞かれてしまうのではないかと怖くなる。

「宮間りかさん、ですよね」
「は、はい……」

痺れを切らした彼に名前を呼ばれた瞬間、びくりと肩が揺れた。
感情を読み取れないまなざしが、静かにこちらを射抜いている。もしかして、観察されているのだろうか。

「本来なら、あの夜の礼を先に伝えるべきなんでしょうが、その前にいくつか確認事項があります」
「は、はい……」

目の奥を射抜かれるような視線を前にして、声が自然と小さくなった。

「宮間さん。僕を助けてくださったあと、どうして警察に証言せず姿を消したのですか?そのせいで、貴方が容疑者じゃないかと疑われているようですよ」

ドキリ、と思わず心臓が跳ねる。
答えられるはずがない。どうしてって聞かれても、自分自身がわからないのだから。気づいたらそこにいて、気づいたら元の場所に戻っていた。そんな説明、信じてもらえるはずがない。
それに、今のこの状況だって夢みたいだというのに。
視線を逸らしながら黙り込むと、彼は一度小さく息を吐き出した。

「……質問を変えましょう。なぜ、あの薬がカリウムだと?」

今度は、声音が少しだけ低くなっていた。
けれど、感情は見えない。

「…へ、部屋の前を偶然通りかかったときに、看護師の動きが、不自然、だったから……」

何か答えなきゃ、と咄嗟に口をついて出たのは苦しい言い訳。そして彼は、こちらの動揺を見逃さなかった。

「宮間さんは、この病院の職員ですか?」
「え…?は、はい」
「本当ですか?警察の方に見せていただいた名刺には、"東京大学病院"とあったはずですが」
「……っ」

そうだ名刺――あのとき、ホテルの支配人に渡したんだった。しまった、そこまで考えが及んでなかった。

「い、以前はこちらに勤めていて……今はその……」
「東京大学病院は存在しない病院のようですが」
「今はもう、潰れました……だ、だから私は今、無職で……」
「なるほど」

嘘の上塗りに、自分でも呆れそうになる。
それ以上追及しない彼の口調が、余計に怖い。
私が何を言ってもすべて見透かされているような気がして、肩身が狭くなる。

「では、どうして今日はこの病院まで?」
「あのあと、心配で……あなたが……どうしてるか、気になって……」 

これは、半分本当だ。
漫画の世界とはいえ、彼の命があのまま奪われていたかもしれなかった。だから、ここまで来た。ただそれだけだったのに。

「さっきは“偶然通りかかった”と仰っていました」
「そ、そうでしたっけ……あなたに会いに来て……その途中で、たまたま……看護師が怪しかったからそう言ったのかも……です」

だめだ。自分でも墓穴を掘っているのがわかる。自分の設定を何も考えていなかったため、その場の気合いでつくしかない嘘は簡単に崩れてしまう。それに、これ以上ここで何をどう取り繕っても、きっと彼には通用しないのだろう。
震える指先をじっと見つめながら、この状況をどうにかできないかと私は頭を必死に回転させた。

「……あの、あむろ、さん」
「はい」

呼んだ瞬間、自分でも戸惑う。彼をどう呼ぶのが正しいのか、いまだに答えが出せないまま、ぎこちなくその名を選んだ。

「私のこと、あなたの命を救った人だって忘れてはいませんよね…?」
「はい。もちろんです」
「では、私を助けてくださいませんか…?私、ここから静かに出たいんです。今は警察にも行けません」

なぜなら、私を保証してくれる何かは、この世界にないからだ。名前も、家も、身分証も――そんな私が警察に行けば、別の問題に発展するに決まっている。ひとつ間違えれば、逮捕だ。
震える訴えに、安室さんは一瞬だけ眉をひそめた。

「なぜです?貴方に対する疑いも晴れていませんし、なにか特別な理由でも?もしかして、不法滞在者かなにかでしょうか?」
「理由は……聞かないで下さい。命の恩人なんですから、それくらいできますよね?」
「いくらなんでもそれは困りますね。警察だって、貴方を疑っているのに」

淡々とした返答だった。
眉を下げながら懇願するが、中々話が通らず私も痺れを切らした。

「でも……、あなたは分かってるはずです。私が犯人ではないって」
「どうしてそう思いました?」

問いかけられた瞬間、言葉が詰まった。
どうする――どう言えば、この場を切り抜けられる?本当のことは言えない。でも、黙っていれば、このまま拘束されるかもしれない。
帰らなければ。どうにかして、現実の世界へ。

「直感で…。安室さんもそう思っているはずです」

直感で。というのは、漫画で安室さんが言っていたセリフだ。彼と風見さんしか知り得ないこと。
じっと私の顔を見つめる安室さんに表情はない。疑っている様子もなく、むしろ碧眼の奥は面白そうに笑っている。

「あなたは……僕のことを、よく知っているようですね」
「はい。何でも知ってます。あなたが私を犯人ではないって思ってることも、人生の鍵だって思ってることも」

その瞬間、安室さんの表情がわずかに揺らいだ。
そう、私は安室さんのことをなんだって知っている。ということは、ここから逃げる手段を考えることはできるはずだ。

「今は話せないことがたくさんありますが、でも、次に会ったときに必ず説明します。お願いです。私、帰らなきゃいけないんです」
「……取引がお上手ですね」

ここに居ても、話せることは何もない。
安室さんには申し訳ないが、またそう嘘をつくしかなかった。
やがて、ふっと苦笑の混じる声で安室さんは息を吐く。

「…わかりました。今度いつ会えますか?」
「こ、今度……?」

思わず間の抜けた声が漏れる。
まさか、もう次も会う約束話が進むとは思っておらず、言葉に詰まってしまう。

「ええ。貴方について知りたいことがたくさんできました」
「え、ええっと……安室さんが退院したら……?」
「では、これを持って行くといいですよ」

勿論会う予定なんてないが、今はそう言うしかない。
安室さんは柔らかく微笑み、ベッド脇の机の引き出しを開けた。そこから取り出したのは、真新しい白のスマートフォン。手馴れた手つきで何かを操作すると、それをすっと私の方へ差し出してくる。

「……え?」
「これを。持って行ってください」
「え……そ、そんな……受け取れません!」

一歩身を引きながら首を振る。
けれど安室さんには、一切のためらいがなかった。

「問題ありません。僕はもう一台持っていますし、すでに初期化済みです。僕の番号も入れてあります。あなたと連絡が取れると信じて渡すんです、受け取って下さい」

信じて渡す――たったその一言に、胸がぎゅっと締めつけられた。
私は、この世界で何者でもない。名乗った肩書きも嘘になり、居場所も身分も、証明できるものがない。そんな私に向けられた「信じる」という言葉が、自分でも意外なほどに胸に刺さってしまった。
だが、こうなると裏があるのではないかと疑ってしまうものだ。

「……GPSで追跡しても、無駄ですよ?」
「はは、命の恩人にそんなことしませんよ」

さらりとした笑い声が返ってくる。 
…ずるいな。皮肉のつもりだったのに、まともに受け取られさえしない。疑いの余地もなくまっすぐな目で返されて、それ以上は何も言えなくなってしまった。

「どうして信じるんですか?私が悪用するかもしれないのに……」

問いかけながらも、どこかで試すような、拗ねるような、そんな響きが自分の声に混じる。
安室さんは、ほんの一拍だけ間を置いて、穏やかに答えた。

「……直感、ですかね」

さっき私が言ったセリフを真似て復唱する姿は、私が言ったのより随分様になっていた。
きゅんとする場面でもないのに、頬がじんわりと熱を持つ。どんな顔をしていたのか、自分でもわからなかったけれど、安室さんがくすりと笑ったことで、きっとずいぶん間の抜けた表情をしていたのだと悟った。
手渡されたスマートフォンは、ひんやりとしたガラス越しに、どこか微かなぬくもりを帯びていた。

「あなたはすでに、モンタージュで面が割れています。道中、通報される可能性もゼロではありません。僕の信頼できる知人に案内させますので、ここで少しだけ待っていてもらえますか?」












安室さんが言っていた「知人」というのは、やはり"風見裕也"のことだった。
探偵業をしている安室さんの、知り合いの警察官…というていで一応紹介されたけれど、私は彼が来る前からピンときていた。
きっちり整えられた髪型、無駄のない動き、そして感情が読み取りづらい無表情――。彼もまた、こうして息をしてこの世界に存在している。

「裏口まで案内します」

エレベーター前で控えめにそう言われて、私は小さくうなずいた。安室さんの病室を出てから、風見さんは一言も余計なことを話さず、ただ淡々と私を先導してくれている。
エレベーターが到着し、並んで乗り込むと狭い空間に静寂が満ちた。なんとなく気まずくなって、私は口を開いた。

「…あの、風見さん。この間、突然いなくなってしまってすみません」
「いえ。ですが状況を踏まえると、行動の理由は後日確認させていただく必要があります」
「…はい。すみません。あの、私のこと安室さんから何か聞いてますか?」

ちらりと顔を横に向けると、風見さんはわずかにこちらを見て、首を横に振った。

「必要以上のことは。“保護対象”としか」
「保護、対象……」

その言葉の意味をかみしめる間もなく、エレベーターの扉が開いた。風見さんは軽く手を差し出し、私を促す。

「こちらです」

人の少ない場所を選んでくれたのか、廊下は静まり返っていた。風見さんは無言のまま、周囲に気を配りながら、病院の裏口へと私を導いていく。

「ここから外へどうぞ」

彼はきちんと私を死角に入れるようにして立ち、最後にさりげなく裏口のドアを押し開けた。

「…あ、ありがとうございます」

そう小さく呟いて、私は一歩、外へ踏み出す。
背後で、ドアが静かに閉まる音がした。
私はしばらく立ち止まったまま、夜の冷たい空気を深く吸い込んだ。
ふと、手の中を見やる。安室さんから渡された、白いスマートフォン。その重みが、さっきまでのやり取りのすべてを思い出させた。

"信じて渡すんです"

彼の言葉が、耳の奥に残っている。
信じられないような出来事ばかりだった。
風に吹かれるたび、輪郭がぼやけていくようで、何が夢で何が現実なのか分からなくなる。

――しばらくのあいだ、私はふわふわとしたまま、世界の中に立ち尽くしていた。




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