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父の家を訪れたのは、それから1週間後のことだった。インターホンを鳴らすと、玄関の扉が開き、ふたつの顔が並んで出迎えてくれた。
「来たか」
父と、そのすぐ後ろに立つのは天沢くん。白いシャツの袖を軽くまくりあげて、少し気まずそうに目をそらす。
「りかさん。身体はもう大丈夫なんですか…?」
「うん。ありがとう。もう平気」
そう答えると、天沢くんはわずかに表情を緩めた。
靴を脱いでリビングに入ると、窓から差し込む午後の光が、机の上の資料を照らしていた。プリントされた数枚の顔写真、手書きのメモ、資料の束。そして、中央には──あの、USBメモリ。
実は私は、仕事の合間を縫ってここに来ていた。病院の昼休み──たった1時間しかないけれど、どうしても今、話を聞いておきたかったのだ。あのUSBの中に、彼は何を託したのか。気になって、どうしても胸の奥が落ち着かなかった。
「……USB、見たよ」
父が椅子に腰掛けながら言った。その声は静かだったが、どこか張り詰めている。
リビングの奥、キッチンに向かっていた天沢くんが戻ってくると、無言のまま椅子を引き、いつものようにお茶を淹れてくれた。
「中身は、捜査記録と──安室透からの伝言が入っていた」
父は小さくため息をつくと、湯飲みをこちらに滑らせた。その手つきが、どこか迷いを帯びている。珍しく、何かを言い出しづらそうな空気。
「読んで、驚いた。いや……正直、動揺したよ」
「……どんな内容だったの?」
父はしばらく沈黙したまま、机の引き出しから折りたたまれた紙を取り出した。それをそっと開き、私の前に差し出す。
「……印刷したんだ。見たほうが早いだろう。彼の言葉だ」
私はそっと紙を手に取り、静かに目を走らせた。そこには、丁寧な言葉でこう書かれていた。
⸻
宮間ノリヤ先生へ
お久しぶりです。
このような形での再会をお許しください。
まずは、無断で娘さんと結婚という形をとったこと、心からお詫びします。事情はどうあれ、許可もなく勝手な行動をしたことに、責任を感じています。
本題に入ります。僕たちには、どうしても片付けなくてはならないことがあります。
僕は、あなたが描いた物語の宿命に従います。
だから、あなたも逃げずに、作者としての責任を果たしてください。
僕のためではなく、りかさんのためなら描けるはずです。彼女がこれ以上、何かを背負うことのないように。
犯人を消滅させるには、まず“実体”が必要です。今は顔も名前も存在しない、空白の存在。だから、捕まえることすらできない。
人として存在すれば、僕が捕えることができます。
僕が納得できる“犯人”を作ってください。
そうすれば、物語は本当の意味で終わりを迎えられる。
資料として、風見が調べた捜査資料と、13人の容疑者リストを送ります。
そこから導き出してほしい。あなたの手で。あなたが描く、その“顔”によって、すべてを閉じてください。
コナンの物語に、ハッピーエンドを。
今度こそ、それを読者に届けてください。
それが、僕たちの最後の仕事です。
降谷零
⸻
読み終えたあとも、私はしばらく手紙から目を離せなかった。胸の奥に、じわりとあたたかくて切ないものが広がっていく。
「……あいつらしいよな」
父が、ぽつりと呟いた。
どこか苦笑の混じった声だった。
「お前のために、自分の記憶すら巻き戻して……ずるい男だよ、本当に。反論さえできやしない」
私は何も言えなかった。ただ、手紙を握る指先が、ほんの少しだけ震えていた。
──きっと、あの時に書いたんだ。安室さんが家で、淡々とキーボードに指を走らせていた時。何をしているのか気になりつつ、私は何も聞けなかった。
「……描くの?」
沈黙のなかで、私は父にそう尋ねた。父は、短く目を閉じ、そして静かにうなずいた。
「描くよ。描くしかない。あいつがここまでして渡したものを、無視なんてできない」
その言葉に、天沢くんが驚いたように顔を上げた。そして父は、机の上に広げられた容疑者リストを手に取る。モノクロの顔写真、捜査資料、手書きのメモ。現実と虚構の間で集められた情報。風見さんが、きっと命をかけて調べてくれた記録。
「コナンを、ハッピーエンドにする。そのために描く」
父の声はいつになく冷静で、でもその奥には燃えるような決意があった。
「犯人は……俺の娘まで殺そうとした。だったら、殺人鬼の生みの親として……俺の手で、その存在を始末する」
それは復讐の言葉ではなかった。創作者としての、最後の責任。罪を見届ける覚悟だった。その時、しばらく黙っていた天沢くんが、ぽつりと声を落とした。
「……実を言いますと、僕は、故郷に戻ろうかと考えていました。漫画家を目指すのは、もう……やめようかと」
「……え?」
思わず聞き返した声は、自分でも驚くほどかすれていた。胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「銃声を聞いたあの日から、あまり眠れません。なぜ、ただ漫画を描いただけで、命を脅かされるのか。……正直、理解できないんです」
彼の声は静かで落ち着いていた。でも、その静けさの奥には、深く沈んだ痛みがある。天沢くんの瞳は少し赤く、けれど必死に平静を保っていた。
そうだよね……。あんなことがあったんだもの。目の前で銃を放たれた。私がいなくなった助手席で、天沢くんは一人で、あの現実を直視しなければならなかった。どれほどの恐怖だったろう。どれほどの絶望だったろう。胸の奥が熱くなり、言葉がうまく出てこなかった。
「……それでも、やっぱり僕も手伝います。逃げても、どこかでまた、同じ怪物を生み出すことになる。なら、僕たちの手で終わらせるしかない」
天沢くんはそう言いながら、唇を噛んで俯いた。
強いな、と思った。彼だって傷ついている。眠れぬ夜を過ごし、夢を諦めかけていた。それでも、自分の手で“終わらせる”覚悟を決めた。その姿が、静かに胸を打った。
対して、私は──。いまだに幻を見続け、未来を見据えることができていない。彼らが歩む“結末”を、私は果たして受け止められるのだろうか。安室さんが、どうなるのか。どう“描かれる”のか。それを、自分の目で読む勇気が──今の私にはまだ、ない。
ただ、逃げることすらできず、こうしてここにいる。ただそれだけで、私の足は前に進めていない気がして。
俯く天沢くんの横顔を見つめながら、私はふと、自分の掌を見下ろした。もう何も握っていない、でも確かに、あの時、私は託されたのだ。この手に。あの人の、最後の願いを。それを思い出すたび、胸がきゅっと痛んだ。
「…でも先生。あれは、完全犯罪なんですよね?そんな所に、真犯人を作れるんですか?どうやっても、矛盾が生じるような気がします」
しばらくの沈黙ののち、天沢くんが小さく問いかけた。彼の声には、自分の中にある迷いと、それでも前に進もうとする覚悟の揺らぎが滲んでいる。
父は視線を机の資料から外し、天沢くんの方を見た。眼差しは鋭くもあたたかく、まるで何かを見定めるような色を帯びている。
「──それは、仕方がない」
低く、けれどどこか決意のこもった声だった。
「完全な整合性など、どんな物語にもない。だが、安室透が"信じそうな犯人"を描くことはできる」
「信じそうな犯人……?」
「そうだ。安室透が“納得できる”犯人。それが存在すれば、物語は崩れずに進む。そして、あいつの中で真実が確定される。……あいつが違和感を覚えた瞬間、あの悪夢がまた始まってしまう。だから、描くんだ。“違和感を覚えない顔”を」
天沢くんは、黙ったまま息を呑んだ。
「顔……?」
「ああ。もう、決めてある」
父の口調に一切の迷いはなかった。目の奥には、どこまでも静かで、でも確かな光が灯っていた。それは誰が何を言っても変わらない、創作者としての強い意思だった。
私はそんな彼らを、どこか遠くから眺めていた。
*
病院の白い廊下を、手術着の足音が淡々と響く。滅菌エリアの前で、私は列の最後尾に立っていた。順番に流れていく手洗いの流れ作業。
まるで、別の世界に立っているようだった。父の家へ行ってから、どこか思考が遠い。周囲の声や動きが、どこか膜の向こうでぼんやりと聞こえる。今日の手術も、大切な仕事だと頭では分かっているのに──どうしても心が現実に引き戻されてこない。
「おい、宮間。帽子は?」
不意に投げかけられた声に、私は顔を上げた。
目の前には、手を洗い終えたばかりの教授が、呆れたような顔でこちらを見ていた。
「あ……」
自分の頭に手をやると、冷たい手のひらが髪をそのまま撫でる。
そうだ。手術用のキャップ、つけてない。ぼんやりしていた。いつもなら何の迷いもなく着けていたのに。手術前の一連の動作が、まるで抜け落ちていた。
「チッ…おまえ帽子はしないのに、指輪はしてるのか」
教授の視線が、私の左手に落ちる。
手術用ガウンから覗く左手の薬指には、小さな銀色の指輪が光っている。
「それで手術できるのか?なあ?」
そのとき、後ろから待機していた青木がクスクスと笑いながら近づいてきた。
「うわ、それ高そうな指輪っすね。どこで盗んできたんですか?」
からかうように肩を揺すってくる。
私は何も言えなかった。ただ、ぎゅっと左手を胸元に引き寄せて、その指輪にそっと親指を添える。
「左薬指につける理由は?まさか、極秘結婚でもしたってのか?…まあ、相手がこの世に存在してりゃの話だがな」
教授の畳みかけるような言葉に、隣で青木が吹き出した。
「彼氏もいないのに、なにが結婚ですかねぇ」
「俺はこいつを見合いに連れて行ったときに、すぐ分かったぞ」
教授が振り返って、私の肩を膝先で軽くつつく。
「こいつは一生独身だ。あるだろ?子犬を抱えて“私とだけ生きて”って言ってるタイプの女。あの路線まっしぐらだ」
「ははっ!僕も同意です」
青木も調子に乗って便乗する。
ふたりの声が耳の奥でぐらぐらと揺れた。笑い声が大きく響く。まるでここだけが、手術室へ向かう緊張感から切り離された別世界のようだった。
私は一言も返せなかった。笑い返すことも、反論することも。言葉を出そうとすれば、喉の奥がきゅっと締まってしまう。左薬指のその指輪を、ただ指で撫でることしかできない。
──まだ、私は立ち直れていないのだ。
この指輪は、証だった。ほんの短い時間だけ重ねた“夫婦”という絆の証。彼が消えたあとも、私はそれを外すことができずにいる。どんなに揶揄われようと、笑われようと──これは私の中で、終わっていない物語の証なのだ。
「…真面目にしろ」
教授が吐き捨てるように言い残し、歩いて行った。手術用ガウンが廊下の先で揺れる。
私はようやく、絞り出すように小さな声を出した。
「すみません……」
その声が、誰かに届いたのかも分からない。
青木も教授のあとを追って、笑いながら立ち去っていく。その背中を見送りながら、私はただ、静かに指輪を見つめ続けた。
──外さなきゃ。名残惜しさに、そっと指を添えてから抜き取った。その時だった。
「……あっ」
指先を滑った指輪は、ステンレスの床の上で軽く跳ねると、ころん、と音を立てて転がり始めた。
あわてて屈みこみ、指輪を追いかける。
ころころ、ころころ……掴もうとするたび、指輪はまた少し先へと逃げていく。なぜか全く掴めなかった。
焦りで息が上がりかけたその時。視界の隅に、誰かの足が映る。
「……っ!」
避けきれず、私はその人物の腰にぶつかってしまった。
「す、すみま……」
咄嗟に謝ろうとして、顔を上げた瞬間──息が止まった。
柔らかく首を傾げ、こちらを見下ろしている男性。少し驚いたような表情と、すぐに浮かぶ穏やかな微笑み。
その瞬間、胸の奥が、きゅうっと音を立てて締め付けられた。
「……大丈夫ですか?」
その声。静かで、優しくて、どこか懐かしい音色。耳が覚えている。心が覚えている。身体の芯まで沁み込んでいたその声が、目の前で確かに響いた。
──どうして。どうして、ここに……。
言葉が、出なかった。何も言えず、ただ息を呑むしかできない。まばたきさえも忘れて、その場に凍りついてしまう。時間がねじ曲がったような錯覚に包まれて、思考がついてこなかった。
「……あ」
彼が視線を落とし、私の足元にある指輪に気づく。そして、迷いもためらいもなく、そっと屈んだ。
「すみません、気がつかなくて。……素敵な指輪ですね」
そう言って、私の手のひらに、それをそっと返してくれる。
受け取った瞬間、その手の感触に胸がざわついた。懐かしい温もりに似ていて、けれど知らない人の手のようでもあって……泣きそうになるのを必死で堪えた。
こんなに、こんなにも同じなのに。全然ちがう。
──安室さん。
心の中で、彼の名前を呼ぶ。口には出せなかった。出したら、壊れてしまいそうだったから。
目の前にいるのは、確かに彼だった。光を受けて淡くきらめくミルクティー色の髪。灰青色の瞳。整った顔立ちと、優しさが滲む口元。どれも見間違えようがない。
けれど、その瞳の奥に、私は映っていなかった。
「……ありがとう……ございます」
私はそれだけを口にするのが、やっとだった。声はかすれ、息も浅く、全身が震えていた。
その時、彼の胸元でスマートフォンが小さく振動する。軽く会釈し、彼は画面を確認して──そのまま立ち去っていく。私は、まだ温もりの残る指輪を、震える手で握りしめながら、ただその背中を見つめることしかできなかった。
廊下の向こうで、彼は風見さんと合流した。少し遠くにいるふたり。彼らの会話の内容が、ざわめきに混じってかすかに聞こえてくる。
「退院おめでとうございます」
風見さんの唇が、そう動いた。
「…彼女、知り合いですか?」
「いや……初対面なのに、じっと見てくる」
それは、私に向けられた言葉だった。
胸の奥がひゅっと冷える。
「眼差しが切ないですよ。降谷さんの元恋人ではありませんか?傷つけて捨てたとか」
「……僕を何だと思ってるんだ」
そんな冗談めいた会話が、静かな廊下の向こうで交わされていた。私は、自分の胸の中で何度も、何度もその会話を反芻した。
笑えない冗談だった。悪い夢の続きみたいだった。手のひらの上にある指輪を、そっと握ったその瞬間。
ふっ……と風が吹いたように、目の前の光景が色褪せていく。彼の姿も、風見さんも、あの柔らかい声も、廊下の温度さえも──すべてが溶けて、にじんで、消えていった。
気づけば、私は手術室前の廊下にひとりきりで立っていた。蛍光灯の白い光。遠くから聞こえるモニターの電子音。壁に掛かった時計の針が、ただ静かに時間を刻んでいる。
──幻だったんだ。
理解するのに、時間はかからなかった。私が描いたとおり、彼は全てを忘れてしまった。その事実が、鋭く胸をえぐった。
分かってはいた。分かってはいたのに…。その事実を、わざと実感させられたような、そんな気がした。
彼は今も、生きている。けれど、私のことは──すっかり忘れてしまった。夢の記憶も、出会った奇跡も、笑った日々も、触れた温度も。すべて、“なかったこと”になっていた。私は、ただの通りすがりの誰か。彼にとって、もう何の意味もない存在。
「……っ……」
膝が、抜けた。そのまま、崩れ落ちるように床にしゃがみこむ。両手で胸を押さえた。
痛い。息ができないほど、心臓が苦しい。涙が頬をつたって、ぽろぽろと溢れ出した。
「……くる、しい……っ……っ」
視界が滲んで、床の白いタイルがゆがんで見える。声にならない嗚咽が喉をふさいだ。こみ上げる感情が、堰を切ったようにあふれて、私はただその場で、泣き喚くことしかできなかった。
「おい!宮間!入ってこないで何を──」
後ろから教授の怒鳴り声が聞こえた。けれど、その足音は、私の姿を目にした途端に止まる。
「お、おい……俺らがさっきからかったからか?」
動揺したような声が、沈黙の中に響いた。
「え?ご、ご、ごめん。宮間!」
「青木のせいだぞ!」
「ぼ、僕ですか!?」
廊下に響く取り乱した声。
でも──何も耳に入らない。世界の音が、すべて遠のいていく。私はただ、膝を抱えて泣いた。嗚咽を止めることができなかった。
彼、降谷零は──完全に、私を忘れてしまった。
世界の嘘を知り、生きる道を失い、それでも前へ進もうとしていた、あの“彼”はもう、どこにもいない。私はただの、他人になってしまったのだ。
「……あむろ……さん……っ……」
名前を呼ぶたびに、胸が壊れそうに痛んだ。
私の“全部”だった人。たった数ヶ月でも、人生を変えてしまったあの人。その人の中に、もう私はいない。
思い出すのは、彼を好きだと気づいた瞬間に重なった、あの夜の幸福。
薬指に指輪をはめられて、世界で一番満たされたと錯覚するほどの幸せを知ってしまった。
なのに、その次の瞬間には容赦なく現実に引き戻された。夢のような時間からポンと放り出され、もう二度と戻れないと突きつけられる。
その落差が、何よりも残酷だった。あんなに愛おしい温もりを知ってしまったからこそ、今の冷たさが骨身に沁みる。
涙が止まらなかった。嗚咽と、絶望と、胸を締めつける痛みだけが、手術室前の冷たい廊下に響いていた──。
それから、退院した降谷零は夢を見ることはなくなり、それに伴ってか、私も幻を見ることはなくなった。
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