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2ヶ月が経った頃。季節は少しずつ移り変わり、真夏の蒸し暑さは、ようやく風の中に秋の気配を混じらせ始めていた。病院のレジデント室。朝のカンファレンスが終わり、少し遅めの休憩時間。私はいつものように、ぼんやりとした頭でポットからマグカップに紅茶を注いでいた。眠気まじりの手元に、立ち上る湯気の香りが、微かに安らぎをくれる。

──バンッッ!
その時、勢いよく扉が開かれた。突然の大きな音に、思わず肩を跳ね上げる。

「熱っ……!」

カップを持つ手が揺れて、紅茶が少し指先にこぼれてしまった。小さく息をのむ。カップを持ち直して見ると、縁ギリギリまでお湯が注がれていたことに気づく。そんなことにも気づかないくらい、私はぼんやりしていたらしい。

「見たか!?」

いきなり大声が飛んできた。勢いそのままにスキップで部屋に入ってきたのは、白衣姿の教授。どこかテンションが異常に高い。

「な、何をですか……?」

紅茶を持ったまま問うと、教授は目を見開き、まるで私が人間でないかのように驚いて叫んだ。

「『コナン』だよ!!!」

その声に、レジデント室の空気が一瞬止まる。
ああ…そのことかと、私は一拍置いてゆっくりと首を横に振った。

「あ……いえ、まだです」
「まだだと!?」

教授は眼鏡がずれていることにも気づかず、空中でのけぞるように大げさに驚いてみせた。

「王の帰還だぞ!?宮間ノリヤ先生がついに完全復活だ!!!」

私はカップを持ったまま黙っていた。その熱がじわりと手のひらに沁みていくのを感じながら、目の前で盛り上がる教授をただ静かに見つめる。

「いや〜!宮間りかが消えてから最高の展開だ!少し前までのコナンは、正直酷かった!三流のクソロマンスで話にもならなかったからな!」

紅茶の香りと教授の罵倒が同時に鼻を抜ける。
白衣を翻しながらぐるぐると室内を歩き回る教授。その姿は滑稽で、でも──少しだけ、羨ましかった。そんな風に、コナンの続編を心の底から喜べるのが。

「けど今回!やっと戻ってきたんだ!完全に!もう最高すぎて震えたぞ!このまま組織壊滅へGOだ!!」

鼻息荒く語る教授。まるで少年のような瞳で、その先の展開を見据えている。私はただ、そっとカップを唇に運び、紅茶をひと口飲んだ。胸の奥が、また少しずつ痛み出すのを感じる。

「本当に、読んでないのか?」
「……はい」

再び答えるそう私の声は、さっきよりも小さかった。
だって、読めるはずがない。あの先に、“彼”の行き着いた結末が描かれている。物語がどう終わったのか、どう描かれたのか。その現実を目にした瞬間、私は本当に何かを失ってしまいそうで──。もう、あの時に戻ることはできないと、自ら確認しにいく作業でしかない。
教授は、ふうと満足そうに息を吐いてから、優しい声で言った。

「お父さん、体調はもう大丈夫か?無理はせず、これからも楽しみにしてると伝えてくれ」
「……はい。わかりました」

丁寧にうなずくと、教授はうんうんと頷いて背を向け、再びドアの方へ向かった。その背中を目で追いながら、私はマグカップをテーブルに置く。その時だった。

「あっ、そう言えば……」

扉に手をかけた教授が、ふと思い出したように振り返った。

「犯人の顔、宮間先生にそっくりだったぞ」
「……え?」

思わず間の抜けた声が漏れた。
教授はおかしそうに笑って続ける。

「ほら、安室透を刺した犯人だよ。いや、そっくりというか、もうそのまんまだったな。完全一致だ。読んだ瞬間、あれ?って声が出たくらい。……あれは誰が見てもお前の親父だよ。いや〜誰が思いつくんだ、犯人=作者なんて」

最高だな!そう言って、教授は笑いながらレジデント室を後にした。私はその場から一歩も動けなかった。静かになった部屋の中で、紅茶の湯気がまだ立ちのぼっている。
──父の顔を、犯人に?その意味を、すぐに理解できずに、胸の奥にずしりと重いものが落ちた。教授の言葉が、頭の中で反響し続ける。「そっくりだったぞ」
本当にそう……なのだろうか。

私は、ゆっくりと手元のノートパソコンに手を伸ばす。こんなにも近づかないようにしてきた世界。けれど今はどうしても、確認せずにはいられなかった。
電源ボタンを押すと、冷たい起動音が鳴る。検索バーに「名探偵コナン」と打ち込んだ自分の姿が、どこか他人のように感じた。
2ヶ月以上ぶりだった。それでも、手は迷いなく最新話へとスクロールしていた。画面が切り替わり、目に飛び込んできたのは──。

「……お父さんだ」

そこに描かれていたのは、確かに父の顔だった。
漫画の中の“犯人”として、線と影で構成されたはずのその顔は、あまりに現実味がありすぎた。信じられない、なんて感情はないが、ただ静かに画面を見つめる。
おもむろにスマホを手に取り、連絡帳から天沢くんの名前を探す。着信のアイコンを押した数秒後、彼のいつもの穏やかな声が耳に届いた。

『あ、りかさん?どうかしましたか?』
「……あの、コナン…読んだんだけど……」

言い出したはいいものの、思った以上に口が重い。自分からかけた電話なのに、どう切り出していいかわからず、私は一瞬、言葉を選んで沈黙してしまった。

『ああ、最新話のことですね。どうでした?びっくりしました?』

天沢くんは明るい調子で言った。
相変わらず、空気を和らげるのが上手い。

「……うん。お父さんを犯人に?」
『え?ああ、まだですまだです!』

思いのほかあっさりとした答えが返ってきて、思わず息を吐いた。

『そこに至るまでに、4話あります。今、やっとその1話目が公開されたところなんですよ』

画面には、すでに“父”の顔が描かれていた。
犯人のモノローグ。散りばめられた伏線。安室さんの過去とつながるような断片。そこから、これから何かが始まっていくのだと──そのページ全体が語っているようだった。

「どんな流れなの……?」

私は、モニターの中の父の顔を見つめながら問う。そこにあるのは、私が知る父とは違う──冷たい目をした、物語の中の“犯人”だった。

『ええとですね、犯人は60代の男。安室透が刺された事件の容疑者として浮上します。動機は……』

そのとき、天沢くんの声が、ほんの少しだけ低くなったのを感じた。

『安室透に、痴漢の現場を取り押さえられたことです。社会的に終わった犯人が後日、偶然通りがかった喫茶ポアロで安室が“店員として笑顔で接客している”のを見て、「自分の人生を潰しておいて何食わぬ顔で他人に親切にしてるのが許せない」と歪んだ憎しみに変わる。という流れです』

私は黙ったまま、画面を見つめた。
現実には少し不自然にも思える設定。けれど、フィクションの中なら──コナンの世界なら、それは確かに成立する気がした。そしてそれ以上に、彼を“納得させるため”に必要なプロットだと、無意識に理解していた。

『精神科の既往歴もある設定にしました。理性を失った末の犯行、という形ですね』

天沢くんはさらりと、脚本家のように物語を説明する。私は、静かにうなずいた。画面に映る父の顔。その見慣れた輪郭に、どこか息を詰まらせてしまう自分がいた。

『奴の自宅からは、安室透の写真、凶器、犯行日記が見つかります。決定的な証拠ですね』

天沢くんの声は穏やかだったが、その中に、しっかりとした“決意”があった。現実に起きた理不尽を、今度こそフィクションの中で完結させようとする、彼なりのけじめのような。

『そして、安室透が直接、取り調べに入ります。対峙するんです』
「取り調べ……」
『はい。犯人は、安室透を真正面から見て言うんです──「俺が刺した」って』

私は、思わず息を呑んだ。
心の中に、重く響くその言葉。父の口からそれが語られる場面を想像してしまって、自然と胸の奥が少し苦しくなる。

『でも、まだここでは終わりません。犯人を完全に“始末”してしまいます』
「始末……って、まさか……」

不安が言葉になって、自然と漏れ出た。

『あ、もちろん、安室透に手を汚させません。悪党を殺すのは、悪党の仕事です。拘置所の中で、“別の受刑者に殺される”という形で消します』

天沢くんの言葉に、もう二度と現実との境目を越えさせないために。そういう選択なのだと、伝わってきた。

『これでもう、犯人が現実世界に関与する心配はなくなります。きっぱりと幕を引く。一件落着というわけです。……どうですか?読者にウケそうでしょう?』
「……そうだね」

言葉に詰まりながら、それでも私は答えた。物語としては、確かに、正しい。読者は納得し、拍手を送るだろう。だけど、それでも胸の奥には、ぽっかりとした穴が空いている。

『これでようやく僕も安眠できます!最初からこうすれば何も起こらなかったのに…!』

笑うようなその声に、私は小さく目を閉じた。

「……でも何で、お父さんの顔にする必要があったの?」

静かに尋ねた。そのことだけが、どうしても引っかかっていた。父に罪を背負わせるようで、どこか苦しかった。

『……それは、あの屋上で安室透が最後に見た顔が、宮間先生だったからです!彼の記憶に残っているのは、先生の顔なんです。それを“犯人”として描けば──安室透は、きっと疑わない。迷わない。疑問を持たない』

なるほど、と心の中で小さく呟いた。
コナンの世界に一度引き込まれた父は、安室透とそのとき対峙している。父の顔が犯人だなんて、なんとなく複雑だけれど、正しい選択だったのだろう。

『納得できる犯人。それが、先生の顔だったって訳です』
「……そうなんだ」

それだけしか言えなかった。正しい選択だった。理屈も、流れも、整っている。でも、その正しさが、少しだけ苦しくて。心のどこかで、ほんの少し──彼の背中を思い出していた。



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