48


その日も、長い一日だった。時計を見ると、すでに夜の9時を回っていた。モニターの明かりが少しだけ瞬く休憩室で、私はゆっくりと息をついた。

「……少し、休もう」

ここ数日、睡眠時間がほとんど取れていなかった。手術と外来の合間、無理をしてでも出勤していたせいで、目の奥がじんわりと痛い。
休憩室奥の仮眠室に足を運ぶと、空調の音とほんのわずかな蛍光灯の灯りだけが、部屋を静かに包んでいた。昼間は先輩や同期が出入りしているこの小さな部屋も、今は私ひとり。毛布のかかった2段ベッドと、小さな机、椅子がひとつ。そして──机の上には、一冊の漫画が置かれていた。
表紙は、見慣れた顔だった。ミルクティー色の髪。端正な横顔。微かに鋭さを残したまなざし。『名探偵コナン』の最新刊だった。

「……誰かが持ち込んだのかな」

ぽつりと呟きながら、その表紙を指先でそっとなぞる。紙の上に描かれた彼は、当然のようにそこにいて、そして、当然のように──私のことなど、何も知らない。
ふと、胸がきゅっと痛んだ。あの世界では、誰も私を覚えていない。そしてこの世界では、私が何を経験したかなんて誰も知らない。目に見えるものすべてが静かに進んでいるのに、私だけが、あの夜の屋上から、ずっと取り残されたまま。
──もう3ヶ月も経ったのに。

「……」

何も言わず、ベッドに仰向けに寝転んだ。天井の板の継ぎ目をぼんやりと見つめる。指先には、さっき撫でたばかりの漫画の余熱がまだ残っていた。
そのまま深く呼吸をする。まぶたの裏には、まだ時々、彼の姿がよみがえる。優しく微笑んだ顔も、少し焦ったような表情も、もう触れられないことは分かっているのに、心の奥に、確かに残り続けていた。

「宮間!」

不意に仮眠室の扉が開き、勢いよく誰かが入ってきた。思わず肩が跳ねる。振り向く前に、私はとっさに手元にあった漫画を顔にかぶせる。潤んでいた目元を隠すように、無意識の防衛だった。

「……寝るのか?」

声の主は青木だった。気まずさを隠すように、私は漫画越しに答えた。

「……10分だけ、寝かせて」
「おう。じゃあ、起きろよちゃんと。教授がまた怒るぞ」

ひとことだけそう言い残し、青木は特に深く詮索することもなく、部屋を出て行った。その背中を追うこともせず、私は漫画の下で目を閉じた。
静かな空間。ほんのり漂う印刷インクの匂いと眠気。紙の重さがまぶたをふさぐように、私はじっとしたまま動かなかった。扉の向こうでは、青木たちが出前を頼もうと騒ぎ始めている。
私は漫画の裏で、そっと唇を噛んだ。頬をつたう熱いしずくが、紙の角をわずかに濡らしていく。
それから、しばらく経った時だった。

『コードブラック コードブラック
銃乱射事件が発生しました
医療スタッフはただちに救急外来にお集まりください──』

静かな空間に突然響き出した、機械音声のアナウンス。私は反射的に目を見開き、起き上がった。涙を拭う暇もなく、足を下ろし、漫画を机に置いて、すぐに走り出す。
廊下を抜け、エレベーターの前に駆けつける。すでに休憩室には誰もおらず、皆それぞれの持ち場に走った後だった。青木も、きっととっくに現場へ向かったのだろう。
エレベーターに乗り込むと、私は鏡のようなドアの内側に映る自分の髪を整えながら、隣にいたスタッフに声をかけた。

「……銃乱射事件って、どこでですか?」

その人は、スマホを見ながら言った。

「ニュース、見てないんですか?テレビ局ですよ。生放送中に犯人がスタジオ内で突然、銃を乱射したらしくて」
「テレビ局……?」

驚きに目を見開いた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
日本で銃乱射──それにテレビ局で。滅多に聞いたことがない。ほとんど映画や海外ドラマの中だけの話だ。それなのに、今、その非常事態のような話が、確かに起こったのだという。
エレベーターは「1」の表示を光らせて、扉がゆっくりと開いた。一階のフロアからは、すでに緊迫した空気が滲み出していた。

「救急です!どいてください!」

スタッフのその声に、自分の足も自然と動き出す。前を行く白衣の背中を目印に、私は足を速めた。廊下を通り抜け、カートを押す看護師の間をすり抜けながら、いつもの動きで救急外来へと向かう。
──その時だった。

「……え?」

すれ違いざま、視界の端に何かが映った。思わず歩みを止めて振り返る。
廊下の向こうに、見覚えのある後ろ姿があった。小柄な小学生くらいの男の子。黒髪に丸いメガネ。青いジャケットに短いズボン。そして──その小さな手には、緑色のスケートボードが握られている。

「うそ……」

息が止まりそうになった。あのシルエットを──私は、知っている。見間違えるはずなんて、ない。父の漫画で、何千回と目にしたんだ。彼だけは、絶対に間違えない。
──江戸川コナンくん?走り去っていくその背中を、私は呆然と見つめた。

「まさか……」

不安が喉の奥で震える。足がふらつき、どこか浮いているような感覚に襲われる。目の前の病院の廊下が、急に遠くの世界のように感じた。
状況確認のため、私はゆっくりと廊下の端に掛けられたモニターの方へ歩いていく。画面の中では、ニュースキャスターが冷静に、けれどどこか緊迫した声で言葉を繰り返していた。

『…今のところ、死者6名、負傷者13名となっています。繰り返します。本日午後8時頃、日売テレビのスタジオ内で銃乱射事件が発生しました。犯人に関する情報はまだ明らかになっておらず、スタジオ内の警備をかいくぐって建物に侵入したものと見られています──』

「日売テレビ……?」

その言葉が耳に届いた瞬間、背筋が凍るような感覚が走った。そんなテレビ局、私の世界には存在しない。

『負傷者は全員、米花総合病院に搬送され……』
「米花……?」

胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。頭が真っ白になった。そんなはず、ない。だって、ついさっきまでここは──現実だったはずなのに。

「なんで……」

口の中が乾き、息が浅くなっていく。
壁に手をついて、体重を預けるようにしながら、足を動かし始めた。
救急外来へ向かい、扉を開けた瞬間、強い光と喧騒けんそうが一気に押し寄せてきた。

「ストレッチャー!!こっち!!」

「止血間に合わない!輸血の準備を!」

「CTまだか!?間に合わないぞ!!」

怒鳴り声、叫び声、重なり合う足音と機械音。
消毒の匂いに混じって、どこか生々しい鉄のにおいが鼻をつく。廊下には次々と搬送されてくる負傷者たち。血で染まった服、力なく揺れる手足、泣き叫ぶ声。そこはまさに、地獄だった。
私の周囲だけ、時が止まったような感覚に襲われる。音が遠く、輪郭がぼやけて、私だけがそこに取り残されたような。
──まさか、また、始まってしまったというの?

「なんで……」

唇が震える。足が、動かない。視線は目の前の光景に釘付けなのに、意識だけが遠くへ引き離されていく。
誰かが叫んでいる。命をつなごうと、必死で手を動かしている。だけど私は、その場に立ち尽くすことしかできない。
なぜまた、ここに戻ってきてしまったの?どうして?頭の中がパニックになりかけていた、その時だった。

「……っ!」

突然、誰かの手が、私の手首を掴んだ。
驚いて振り返り、反射的に声を上げそうになったが──次の瞬間、言葉が喉で凍りつく。
金色の髪が光の下で柔らかく揺れていた。灰青色の瞳が、まっすぐ私を見つめていた。その瞳に一瞬でも見つめられてしまえば、心臓がどうしようもなく跳ね上がる。

「……!」

──安室さん。
声には出せなかった。この現実味のない光景の中で、彼だけがあまりにも鮮明で、私のすべての思考を止めてしまった。
けれど、彼はそんな私の戸惑いも無視して、手首を掴んだまま軽く引く。

「まずこの人から、診てあげてください」

その声は静かで、でもはっきりとした緊急性を帯びていた。
ついていくと、そこには長椅子に横たわる女性がいた。脚に銃弾がかすっていて、血がにじんでいる。彼女はうずくまりながら小さな声で泣いていた。

「宮間りかさん?」

安室さんが、私の名前を呼んだ。
その瞬間、胸がどくんと大きく波打つ。
今……名前を……?まさか、まさか……思い出したの?混乱する頭の中に希望のような光が差しかけたが、次の瞬間、彼の視線が胸元に向いていることに気づく。
あ……。私は、自分の首に下げられた社員証を見下ろした。そっか。名前なんて、ここに書いてある。

「宮間先生?聞こえませんか?」

急に声が鋭くなった。
彼の顔が真剣に近づく。

「早く、手当を!」

びくり、と肩が揺れた。完全に呆然としていた自分に気づいて、我に返る。

「……すぐに、取り掛かります」

そう答えながら、私はカートの上からガーゼと消毒液、圧迫止血用の包帯を掴んで、女性の足元にしゃがみこんだ。
手が少し震えていたが、止めるわけにはいかない。目の前の命を救うためには、動かなきゃいけない。

「どうですか?」

隣にしゃがみ込んできた彼が、小声で尋ねた。顔が近い。気が散るほどに、あの頃と変わらないまなざしがそこにあって、心がまたひとつ痛む。

「……出血は多くないです。命に別状はないと思います」

彼はほっとしたように、小さく息を吐いた。

「さっきは、大きな声を出してすみませんでした」
「いえ……。あなたは……怪我をしたところは?」
「ありません。大丈夫です」

そう返されたとき、私は自然と、彼の身体を視線で追っていた。
その顔に、腕に、胸元に──傷はないか。本当に無事なのか。彼の命がそこにあるというだけで、なぜか胸の奥があたたかく、苦しかった。

「……あ、今先生のことを思い出しました。以前、一度お会いしましたよね?」

その一言に、手元が止まりそうになる。

「え……?」

顔を上げて、彼を見つめる。灰青の瞳の奥に、何かがきらりと光って見えた。
まさか、今……なんて言ったの?

「少し前ですが、落としてましたよね?そのネックレスにしている指輪」

──ああ。あのときの、か。胸元のチェーンに通したままの指輪を、私はそっと見下ろす。教授に怒られてから、こうして肌身離さず持つようになったこの証。
そりゃ、そうだ。言葉にならないため息を、心の奥で吐いた。思い出したのは、私じゃない。ただの落し物のこと。分かっていたのに、何を期待してるんだろう。バカみたいに、胸がきゅうっと縮む。
自然と目が潤んでいくのを自覚した。安室さんの顔が滲む。でもそれを見せたくなくて、私はそっと目を伏せた。

「前も気になったのですが、なぜ…そんな目をして僕を見つめるのですか?」

不思議そうに彼が首をかしげる。
その問いが、あまりにも無垢で、あまりにも残酷で──また胸が苦しくなる。

「……私が、ここにいる理由がわからなくて」

それが、ようやく絞り出した言葉だった。涙を拭いながら、再び女性の足に包帯を巻く。彼の視線を感じながら、でも決して目を合わせなかった。
彼はしばらく私を見つめていたようだったが、やがて静かに立ち上がった。何も言わず、何も残さず、そのまま背を向けて歩き去っていく。
その背中を、私はそっと見送った。




前へ   次へ


目次へ戻る

Back to top

total - 103398 hit