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私は──どうして、ここにいるんだろう。
安室さんは、私のことを完全に忘れている。何一つ、彼の中には残っていない。それなのに、なぜまたこの世界に引き込まれてしまったのか。それとも、また幻を見ているのか。
息を吐きながら、手元に視線を落とす。止血したガーゼがじわりと赤く染まっていく。目の前には、銃弾に傷ついた患者たち。
父が、ストーリーを変えた?
あのUSBに託された“安室さんの願い”。犯人を作り上げ、物語を終わらせるために、父と天沢くんは動いていた。でも、こんな残酷な形にするとは聞いていない。
何がどうなっているのか。けれど、今ここで手を止めるわけにはいかなかった。目の前に、助けを求める人がいる。現実だろうが夢だろうが、命に境界なんてない。
私は黙って、次の患者に向かう。手の甲を抑え、肩を震わせている男性。弾は貫通しているが、骨や腱には達していないようだった。洗浄し、止血し、包帯を巻いていく。ひとつ、またひとつ。どんなに頭が混乱していても、身体だけは動いてくれた。──その時だった。
「……誰ですか?」
低い声が頭上から落ちてきた。
「え?」
思わず顔を上げると、そこには見慣れない男性医師が立っていた。私の白衣をじっと見つめている。視線は、私の胸元へ──。
「うちの白衣ではないようですが?」
彼の言葉が、突き刺さるように響いた。胸元を見ると、自分が着ている白衣には“東京大学病院”と金の刺繍が入っている。
──しまった。頭が一瞬真っ白になったが、咄嗟に口を開いた。
「あ……これは……間違えて、持ってきてしまったんです。……姉も医者で、たぶん取り違えて……」
声が少し震えた。自分でも苦しい言い訳だと分かっている。でも、ここで“違う世界から来ました”なんて言えるはずもなかった。
男性医師は訝しげな目をしていたが、救急の現場でそれ以上詮索する余裕もなかったのか、無言のまま視線を外す。
「この方にはあとは抗生剤を投与すれば大丈夫です。整形に連絡をお願いします」
手早くそう言い残し、私は深く頭を下げてその場を立ち去った。背中に視線を感じながら、廊下を早足で歩く。誰かに追いかけられているような錯覚に胸がざわつく。
逃げなきゃ。気づけば私は、無人の廊下を走っていた。光の少ない通路。非常口の緑のランプがぼんやりと足元を照らしている。どうにかして、今の白衣を脱がなければ。このままでは、どこかで足がつく。
適当に扉を開けた。そこは備品室のようだった。
ダンボールの山、処置用の備品、そして壁のフックにかかった数着の白衣。私はそのうちの一枚を手に取り、慌てて着替えた。ゴミ箱に捨てた自分の白衣が、足元に静かに沈んでいく。
「ふぅ……」
背を壁に預け、少しの間だけ目を閉じた。
私、どうすればいい?どこに行けばいい?心の中で問いかけても、答えは返ってこない。
ふと、机の上に置かれた紙パックのお酒が目に入った。『402号室 没収品』と書かれた付箋が貼ってある。どうやら入院患者の持ち込みを取り上げたものらしい。
私は、その紙パックに無意識に手を伸ばした。中身の液体が、重力でゆっくり動く。その重みが、なぜか私自身の心の重さと重なった気がした。
*
静かにひとりになれる場所を探して、たどり着いたのは病院の屋上だった。
夜の空気は冷たく、でもどこか心地いい。遠くの街灯りがにじんで見える。喧騒から離れたこの場所だけが、時間の流れを忘れていた。
誰もいないベンチの隅に腰を下ろし、脚を抱えるようにして小さく丸まる。持ってきた紙パックを手に取ると、ストローを差し込んでひと口飲んだ。
味なんて、正直よく分からない。ただ、喉に落ちる熱さが、今の自分に何かを与えてくれる気がした。何も考えたくない。この状況も、記憶も、あの目も──全部、遠ざけたい。
風が吹き、髪がそっと揺れて頬にかかる。夜景の光がぼやけて滲んだ。
──ガチャ。
そのとき、静かな扉の開閉音が、背後から届いた。反射的に振り返ると、風になびく柔らかな金髪が目に入った。
「っ……」
体が一瞬でこわばる。
なんで、ここに…。どうして、このタイミングで…。でもすぐに、そんな焦燥を自分で打ち消した。彼にとって私は、ただの医師の一人。偶然、たまたま、屋上に来ただけ。一瞬でも焦ってしまった自分の愚かさに、思わず苦笑が漏れそうになる。
安室さんは私に気づくことなく、夜景の方へと視線を向けていた。無言のまま、フェンスの縁に立つ。腕を軽く組み、都会の灯りの海を静かに見下ろしている。タイトフィットな白いワイシャツの背が、どこか孤独に見えた。
ほんの数メートル。手を伸ばせば届く距離。けれど、その背中は果てしなく遠かった。思わず手を伸ばしかけて、でもそっと下ろした。触れたところで、彼の心には届かない。ただの他人。私はもう、彼の世界に存在していない。
その時だった。ふいに安室さんが振り返り、目が合った。
「…宮間りかさん」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
「医者が院内で飲酒ですか?」
「あ……っ」
その言葉が、現実に引き戻す。手に持っていた紙パックを、慌てて背中に隠した。
けれど彼は、責めるような顔ではなく、ほんの少し呆れたような目で私を見ている。
「今は非常態勢では?」
「今は……手が、足りてるんです。救急担当も配置されていて……私は当直でもないですし……」
ぽつり、ぽつりと絞り出すように言い訳をする。自分でも情けないとわかっていた。でも、それしか言えなかった。すると彼は、ふっと静かに息を吐いて、私の隣に腰を下ろした。
……なぜ、隣に座るの。その問いを心の中で繰り返しながら、隣で膝を組んで座る彼を横目で見る。
「僕にも、ひと口くださいますか?」
「……え?」
「すごく、飲みたい気分なんです」
その言葉が意外で、一瞬だけ彼の表情を盗み見た。少し疲れたような目で、それでもどこか穏やかに笑っている。私は黙って、背中に隠していた紙パックを彼に渡した。
飲みたい気分、か。何があったのだろう。今日の銃乱射事件と関係している?それとも──考えかけたその時、彼がひと口飲んで、紙パックを私に差し出した。
「……全部、飲んでいいですよ」
私はポケットから、もう一つの新品の紙パックを取り出しながら言った。そう、予備を持ってきていた。ひとりで全部飲むつもりだった。
そんな私に、彼は少し驚いたように、そして可笑しそうにふっと笑う。
「…ありがとうございます」
その笑顔に、また胸が締め付けられる。
気づけば、私はその横顔をじっと見つめていた。視線に気づいたのか、彼がゆっくりと首を傾げる。
「……やはり気になりますね。なぜ、そんなふうに僕を見つめるのか」
静かな声だった。責めるでもなく、探るでもなく──ただ、純粋な疑問として投げかけられた言葉。そのやわらかさが、かえって胸に刺さる。
私は一瞬、視線を逸らす。冷たい夜風が頬を撫でるなか、言葉が喉の奥でつかえていた。どう答えるか迷って──でも、ふと、もう隠す意味なんてあるのかなと思った。
「……似ているからです」
「似ている……。僕が?誰に?」
「………私の夫に」
その言葉に、彼が自然と私の胸元を見る。ぶら下がったネックレスに通した指輪が、月明かりに微かに光って揺れていた。
「結婚指輪だったのですね。道理で、綺麗な指輪だと」
何でもないように、そう言われた。気にも留めないように。ただのひとつの装飾品を見た、そんな目だった。
胸の奥に、じわりと染みてくる痛み。期待なんてしてなかったのに。それでも、その温度のない反応が、どうしようもなく堪えた。
その時、安室さんの胸ポケットでスマホが震え、彼は手早く取り出してその場で通話に応じた。
「……いや、ちょっと屋上に。……わかった。すぐ向かう」
短く言って、通話を切る。
そして立ち上がった。
「お先に失礼します。……ご馳走様です」
私の方をもう振り返ることもなく、彼は扉口へと歩いて行った。
その背中を、私は最後まで見つめた。足音が遠ざかっていく。扉が閉まる音が、やけに静かに響いた。
私は、もう一度ストローを口に咥え、ぐっと吸い込んだ。
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