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朝の光が、すうっとカーテンの隙間から差し込んでいた。淡く、冷たい光。まだ眠気の残る頭が、じんわりとその温度を受け取る。
どこか遠くで、テレビのニュースの音が流れている。誰かがつけっぱなしにして行ったのだろう。まだ、夢と現実の境界にいるような、そんなふわふわした感覚のなか──アナウンサーの言葉が耳に届いた。
「銃乱射の事件発生から12時間が経ち……現在、死者は8名……負傷者は23名……重症者のうち3名が……」
その瞬間、体がびくりと跳ねた。視界がぱっと明るくなる。
夢じゃ、ない──?思わず飛び起きると、目の前に全く見覚えのない医師が立っていた。少し癖のある黒髪を結んだ、しっかりした雰囲気の女性。彼女は眉をひそめ、明らかに怪訝な表情でこちらを見ている。
「……誰ですか?なぜここで寝ているんですか?」
心臓がどくんと跳ねる。状況を思い出すのに、数秒かかった。
屋上で……お酒を飲んで……そのあと……。酔って、いつもの流れで、ついこの仮眠室まで来てしまったのかもしれない。
「あ……へ、部屋を間違えたみたいです。す、すみません……!」
とっさにそう言って、ベッドから飛び降りた。靴を履きながら背中に冷や汗が流れていく。ここは私の世界じゃない。私の病院の仮眠室と作りは全く同じなのに、ここにいるべき人達がここにはいない。
廊下に出ると、消毒液の匂いと朝の雑多な声が耳を打った。遠くで誰かがナースコールに応じている。エレベーターの扉が閉まる音。朝の病院の、いつもどおりの光景──なのに、自分だけがその景色から浮いているような感覚だった。
──どうして、私はまだこの世界にいる?
昨夜は、ただの幻だったんじゃないの?一時的なもので、またすぐ現実に戻れるって……そう信じていた。だけど朝になっても、目覚めたのは見知らぬ病院の仮眠室で、流れているのは昨夜のニュースの“続報”。
呆然としたまま、私は階段で病院の受付フロアまで降りた。何か手がかりがないかと、ゆっくりと辺りを見渡した。──その時だった。
「っ……!」
視界の端に、見慣れた後ろ姿が映った。咄嗟に近くの柱の陰に身をひそめる。私は何をしているんだろう、と思う一方で、体が勝手に動いた。
何で安室さんがまだここにいるの?ほんの数メートル先にいる。白いタイトフィットなワイシャツに黒のスラックス。まっすぐな背筋。
そして、そのすぐ傍らに──
「コナンくん……?」
思わず目を見張った。
小さな体。青いジャケット。丸眼鏡。間違いない。彼も、いる。2人揃ってここで何をしているのだろう。
「安室さん!どうしてここに!?」
コナンくんの声が、はっきりと聞こえる。明瞭で、よく通る声。2人はすぐ近くで立ち話をしていた。私はただ、その会話に耳を傾けるしかなかった。
「コナンくんこそ、どうして?」
「いや、そんなことより!銃乱射の犯人の行方は?」
「……君が口を出すことじゃない」
安室さんの声が低く、重く響いた。
その一言に、コナンくんが少し息を呑む。
「でも、安室さんがここにいるってことは、何か理由があるはずだよね?」
「……どうしてそう思うんだい?」
その会話を、柱の陰から私は息をひそめて聞いた。
「あまりにも犯人の手際が良すぎるからだよ。医療搬送を利用して逃げたっていう線が濃厚だと思う。乱射直後の混乱に紛れれば、見つからないのも不思議じゃないからね」
高水準な会話が繰り広げられている。そんな中、私はそっと息を呑んだ。
つまり今、コナンくんが言ったことは……。処置したあの中に、犯人がいたということ?
心臓が、どくんと大きく跳ねた。あの騒然とした救急外来。私も手当てをした、あの血まみれの患者たちの中に──犯人が紛れていた可能性があると?
ぞっとした。私はあのとき、ろくに名前も顔も確認せずに次から次へと処置を続けた。でも、その中に、もし──あの銃を撃った本人が混じっていたとしたら?
「君はさすがだね。……ある犯人を追っていたんだ。その人物が、あのテレビ局に出入りしているという情報が入った」
安室さんの声は低く抑えられていたが、どこか冷静さの裏に怒りのようなものが滲んでいた。
「じゃあ、今回の乱射事件も……?」
「ああ。同一犯の可能性が高い。姿は確認できていないが、手口と痕跡が一致している部分がある」
同一犯。追っていた犯人が、事件を起こした。そういうこと?その追っていた犯人って、もしかして、"父と同じ顔"をした犯人のことなんじゃ……。
私は、震える指先をそっと胸元に押し当てた。息がうまく吸えない。聞いていた話と違う。銃乱射事件が起こるなんて、天沢くんは一言も言ってなかったのに。
「一度でもこの病院を出てしまえば、奴の足取りは消えてしまう。だから……」
安室さんとコナンくんは、なおも何か話していたが、もう彼らの言葉は頭に入ってこなかった。ただひとつだけ、はっきり分かったことがある。
このおかしな出来事をやっと理解した。父と安室透の"犯人"を抹消する計画に、何らかの問題が生じ始めているのかもしれないと。胸の奥に押し込めていた不安が、じわりと形を持ち始める。想定されていなかった事件。何がどうなっているのか、まだ何も見えていない。ただ、確実に何かが崩れ始めている――それだけは分かった。
*
その日も、その次の日も、そしてそのまた次の日も──私は、家へ帰れなかった。
この世界に、取り残されたまま、時計の針だけが進んでいく。今の私は、この漫画のただの背景の一人にすぎなかった。重要な役割もないし、名前すら呼ばれることもない。ただのエキストラ。
あのとき、安室さんとコナンくんの会話を聞いてしまってから、私はどこか塞ぎ込むようになってしまった。
"犯人に近づくのは、よくない"そんな気がして。あの黒い銃口が、私に向けられた時の感覚は、今でも皮膚の下に刺さったままだ。もしまた顔を覚えられでもしたら、今度は──
そう考えた私は、必要以上に動かないようにした。この病院の片隅で、誰にも気づかれず、誰にも関わらず。そうやって、何も知らないふりをして過ごしていれば、きっと──この世界が私を、いずれ手放してくれると。そう信じたかった。
幸いだったのは、この「米花総合病院」の建物が、私が本来働いている「東京大学病院」とほとんど同じ構造だったということだ。休憩室のロッカーの位置も、仮眠室の枕の固さも、歯磨きセットが置かれている引き出しの場所まで、手が記憶していたとおり。
だからこそ、私は誰もいない時間を狙ってこっそり忍び込み、シャワーを浴び、引き出しから借りた歯ブラシで息を整え、髪を乾かし、まるで普通の一日を装うようにして過ごすことができた。
けれど、お金はない。財布など持っていなかったし、ここにATMがあるとしても、私のキャッシュカードは当然使えない。だから食堂に足を運んでも、何も買うことはできなかった。席についてお茶を飲むふりをして、食べている人たちの姿をぼんやりと眺める。
空腹を誤魔化す術を覚えたのは、それから間もなくだった。誰もいない時間を見計らって休憩室に行き、机の端に置かれた飴やチョコレートを、ほんのひとかけらずつ拝借する。きっと当直明けの誰かが置いていったもの。名前もないし、持ち主が戻ってくる気配もない。──盗んでるって、もちろん分かっていた。でも、あの甘さがなかったら、たぶん私はもっと早くに心が折れていただろう。
けれど、それも結局はその場しのぎにしかならない。次第に、空腹は誤魔化しきれなくなってきた。胃が小さくひりついて、何もしていなくても身体が鉛のように重くなる。何を見ても、何を聞いても、頭に入ってこなくなっていくのが自分でも分かった。
「お腹すいた……」
そう小さく呟いた声が、静かな休憩室の空気に落ちる。誰もいないその部屋で、私はそっとお腹をさすった。胃の中には、もう何時間も何も入っていないはずなのに、ぐう……と空気の漏れるような音が鳴る。
恥ずかしさも、もうとっくに消えていた。ただ、切実に──なにか、何でもいいから、口にできるものが欲しかった。棚を開ける。カップ麺の空き箱。引き出しを引いてみる。使いかけのコーヒーシュガーの袋が転がっているけど、さすがにそれは──と思って蓋を閉める。
「ない……」
ぽつりと漏れた言葉は、空虚で頼りない。仕方なく、手近にあった紙コップに給湯ポットからお湯を注ぎ、白湯をすすった。何かが胃に落ちる感覚だけでも欲しかった。でも、もちろんそれで空腹が満たされるはずもない。その時だった。
「……誰ですか?」
背後から、不意に声がかけられた。
「……っ!」
全身が一瞬で強張り、思わず紙コップを落としそうになる。慌てて振り返ると、そこには見覚えのある女医が立っていた。少し癖のある黒髪を結んだ、しっかりした雰囲気の女性。
──あのとき、仮眠室で目を覚ました時にいた人だ。
「あなた、この前も私たちの部屋に出入りしてましたよね?……どこの先生ですか?」
胸の奥が、一気に凍りついていくのが分かった。どうしよう。何か言わなきゃ。けれど、口がうまく動かない。何も言えずに、顔を伏せたまま静かに足を進める。
「す、すみません、人を探してて……」
苦しい言い訳を口にしながら、そのまま出口へ向かおうとしたその時。
「ちょっと待って」
後ろから、ぐいと腕を掴まれた。
力強くはないけれど、逃げようとする私には十分すぎる力だった。
「その白衣……」
彼女の目が、私の胸元に落ちる。
「名前が書いてないんだけど」
その言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。
もう、駄目だ。私は、彼女の腕を振りほどくと、何も言わずに駆け出していた。足音が響く。遠くから呼び止めるような声が聞こえた気がするけれど、振り返らなかった。
もう、ここにはいられない。この病院での生活は、終わった。いよいよ、隠れる場所も、寝る場所も、消えてしまった。正面の出入口から外へ出ると、夕方の光が街をゆっくり染め始めていた。
冷たい空気が肌に触れて、思わず腕を抱く。表通りのベンチに腰を下ろし、私はその場にへたり込んだ。
「……どうしよう……」
胸がきゅうっと痛んだ。空腹で、疲れ切っていて、逃げてきたという罪悪感と焦燥感とで、体の芯がじわじわと軋んでいる。
足元に落ちた夕日が伸びていた。人通りは多く、誰も私のことなんて気に留めていない。世界は、何事もなかったように進んでいるのに、自分だけが取り残されたような気がする。
「お腹すいた……」
また同じ言葉が漏れた。
でも、お金はない。隠れる場所も、家もない。これからどうすればいいの。
私は、自分の膝に顔を埋めて、小さく丸まった。
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