51
米花総合病院の前。明るかった空はすっかり夜の帳に包まれ、ネオンの光だけが淡く地面を照らしていた。私はその下で、硬いベンチで足を抱えたままじっとしていた。通りすぎる人たちは、誰一人としてこちらを気に留めていない。
──肌寒い。今、何時なんだろう。もう時計を見るのも億劫だ。どれくらいここにいるのかもわからない。この場所から動く気力すら残っていなかった。
「……ねえ、お姉さん大丈夫?」
不意に、子どもらしい声が耳に届いた。思考の水面が、小石を落とされたように揺れる。ゆっくりと顔を上げると、そこには──3人の子どもが立っていた。
「ずっとここに座ってるよね?」
目の前にいたのは、小さな女の子。つやのあるボブカット、きゅっと上がった眉に、まるい目。リボンのついたピンク色のワンピースが、彼女の明るさをより引き立てている。
一歩近づいた彼女は、不思議そうにこちらを見つめながら、首をかしげた。
「……もしかして、迷子なの?」
──この子。吉田歩美ちゃんだ。何度も漫画で読んだ、あの元気で素直な可愛らしい女の子。そんな彼女が眉を下げて、少し心配そうに私を見ている。
迷子、か。ただの迷子ならどんなに良かっただろう。
「いや、大人が迷子になるわけねーよ!」
大きな足音が近づいてきたかと思えば、声の主は見覚えのある大柄な少年。
「元太くん、そんな言い方はよくありませんよ」
間を割くように現れたのは、そばかすのある端正な顔立ちの男の子。背筋をぴんと伸ばし、丁寧な口調でたしなめる。その姿は、まさにあの小嶋元太と円谷光彦そのものだった。
まさか、今、こんな形で彼らに出会うとは。
「でも確かに、お姉さんずっとここに座っていますよね」
光彦くんが眉を下げ、心配そうに私を見つめる。
「歩美たち、夕方に一回ここ通ったんだけど、お姉さんその時からずっといるよね!」
歩美ちゃんが小首を傾げながら、のぞき込むように顔を寄せる。
「なあ、もしかして具合悪いのか?病院、すぐそこだぜ?」
元太くんは、大きな声でまっすぐに聞いてくる。その元気さに、私は思わずまぶたを伏せた。
──見られてた。この世界の人たちと深入りしないようにしていたのに。だけど、それ以上に、情けなかった。小さな子どもたちに、心配されるような自分の姿が。
「……ううん、なんでもないの。心配してくれてありがとう」
精一杯の笑顔を浮かべる。でもきっと、引きつっていたと思う。本当は泣きそうだったのに、嘘をついて笑った。
すると、歩美ちゃんが少しだけ考えるような間を置いた後、明るい声で言った。
「お姉さん、お名前は?」
「………宮間りか」
少しだけ迷ってから、ぽつりと呟いた私に対して、歩美ちゃんはにこっと笑って小さく手を差し出してくる。
「わたし、吉田歩美っていうの。よろしくね」
その瞳があまりにもまっすぐで、眩しくて。
思わず目尻を緩めてしまう。
「おれ、小嶋元太!」
「ぼくは円谷光彦です。よろしくお願いします!」
「うん……歩美ちゃん、元太くんに光彦くん。よろしくね」
この子たちの明るさに少し絆され、そう言葉を返した瞬間だった。
ぐぅ……夜の静けさの中、私のお腹がはっきりと音を立てた。気のせいでは済まされないくらい、確かな音。どうか聞こえていませんように、と祈る間もなく。一瞬の沈黙。子どもたちの瞳が、私のお腹のあたりを見つめる。
「……りかお姉さん、お腹空いてるの?」
歩美ちゃんが、静かに問いかけてきた。その声がやけに優しくて、何も言えずに目を伏せる。もうごまかせないと、私はしぶしぶ頷いた。
「3日……まともに食べてなくて……」
言葉にすると、情けなさが際立った。この子たちにこんな弱さを見せるなんて、自分でも信じられない。でも、今さら虚勢を張る元気もない。
「えええ!どうしてですか?!」
光彦くんが思い切り声を上げる。
「腹減ってんなら、食い物買えばいいじゃん!」
元太くんも不思議そうに問いかけてくる。
──そう。正論だ。子どもたちの反応はまっとうだし、それは責められるものでもない。でも、頭の中で、なぜかあの有名な言葉がよぎった。
"パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない"
その言葉が、今の私には、あまりに近すぎて。お金がなければ、買えない。買えなければ、食べられない。そのシンプルな現実が、こんなにも重く、自分を縛りつけてくるとは思わなかった。
「……お金が、1円もなくて」
ぽつりと漏れた言葉は、風の音にすら負けそうなほど弱々しかった。
「えぇっ!お金がないの?」
歩美ちゃんのあまりにストレートな反応に、思わず肩をすくめたくなる。
「だから、ご飯も食べれないってことですか?」
光彦くんが眉をひそめて真剣な顔で聞いてくる。
「3日って、それってすごく大変なことじゃねえか!」
元太くんの目は、さっきまでよりもっと大きく見開かれていた。私は何も言えず、ただ視線を落としたまま、小さく頷くことしかできなかった。言葉を探しても、喉の奥に引っかかって、どうしても出てこない。
何をしているんだろう、私。こんなに小さな子どもたちの前で、情けない姿を晒して。どうしようもない惨めさに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「ご、ごめんね。君たちにこんな話──」
「あ!じゃあ──」
ふいに、光彦くんが口を開いた。
「僕たちと来ませんか?ご飯、一緒に食べましょう!」
「うん!歩美もそう思ってた!ご飯なら、博士がおごってくれるしね!」
「俺、カツカレー食うつもりだったけど、分けてやってもいいぞ!」
──えっ?
信じられないような言葉に、一瞬、頭が追いつかなかった。子どもたちは無邪気な笑顔で、当然のように「一緒に行く」前提で話を進めている。
「あ……いや……」
言葉を挟もうとする私の手を、歩美ちゃんが遠慮なくぎゅっと握った。その小さな手が、思いの外温かくて、少しだけ、泣きそうになる。
「いこっ!ね!」
「あ、ちょっと……」
慌てて声をあげたけれど、その時にはもう、元太くんが私の反対側の手をつかんでいた。
「博士の待ってるカフェ、すぐそこだし!」
「そうですよ!きっと、お腹もすぐ元気になります!」
彼らの勢いに、すでに抗えなかった。小さな手に引かれたまま、立ち上がる自分がいた。
誰かと関わって、自分の素性を知られたら?けれど、この手の温もりが、そんな私の防壁を溶かしていく。そのまま病院の自動ドアをくぐると、白く明るいロビーの光が目にしみた。
「こっちこっちー!」
歩美ちゃんが元気に指さした先、病院の一角にあるカフェスペース。その小さな店内には、木目調のテーブルと椅子が並び、まだ数組の客がコーヒーや軽食を楽しんでいた。香ばしいパンとスープの匂いが漂っていて、それだけで胃がきゅうっと鳴る。
「おーい、博士ー!」
元太くんが声を上げた。その声に応じて、店の奥の席から一人の男性が顔を上げる。白髪まじりの髪に丸いメガネ、優しげな顔立ちの中に、どこか困ったような皺が寄っている。
──阿笠博士だ、と私は思わず息を飲んだ。
「やれやれ、遅かったじゃないか。……って、ん?」
私の姿を見つけた博士の顔が、微妙に強張った。その目に、明らかな戸惑いが浮かんでいるのが分かる。
「博士!このお姉さん、具合が悪いんだって!ぜんぜんご飯食べてないんだよ!」
「そうなんです!だから博士、なにか食べさせてあげてください!」
「姉ちゃん、金がないって、3日も食ってないって言ってたぜ!」
子どもたちが私の事情を、必要以上に元気に言いふらしてしまう。私は思わず身をすくめた。
「そ、そうかね……」
博士は腕を組み、少し唸るような声を出した。視線を一度私に戻して、まじまじと観察するように見つめる。
それもそうだ。子どもたちに連れられてきた、名前も素性も不明な女。見ず知らずの相手に、善意だけで手を差し伸べられるほど、人は単純じゃない。私はあわてて首を横に振った。
「あ、いえ…!お気遣いなく…!ただ、一時的に困っていただけで本当に大丈夫なんです」
理性がきくうちに、その温度に触れる前に、私はこの場から立ち去った方がいい。ほんの少しでも気を許したら、弱さが音を立てて溢れてしまう。
「いや、まあ、事情はよく分からんが……ここまで聞いてしまった以上、見て見ぬふりもできんしなあ」
それなのに、博士は迷いながらも、子どもたちの言葉を信じようとしてくれている。
「どこか静かなところで、少し休めば……大丈夫ですから」
あわててそう言った私の声は、どこか遠くから聞こえるように感じた。
「でも……お姉さん、顔色よくないよ?」
「3日もご飯食べてないのに、どこにも行かせるわけにはいきません!」
「そうだぜ!腹減ってんなら食ってけよ!」
子どもたちの単純でまっすぐな言葉が、ぐっと胸に刺さった。彼らの前では、どんな言い訳も、どんな取り繕いも、滑稽なほど意味を持たない。まるで、自分の本心だけが、じわじわと浮かび上がってくるみたいだ。「大丈夫」と笑えば笑うほど、その裏にある弱さが、余計に浮き彫りになっていく気がして。
ああ、子どもって、ずるいな。そう思わずにはいられなかった。
「心配してくれてありがとう。でも、本当に大丈夫だから…」
そう言いながらも、言葉の裏にある本心を見透かされているような気がして、胸が締め付けられる。
──その時だった。カフェの入口から、軽快な足音が近づいてくる。視線を上げると、そこには見慣れた少年の姿があった。
「おめーら、また誰か困らせてんのか?」
江戸川コナンくんが、少し呆れたような口調で言いながら、こちらに歩み寄ってきている。
その隣には、白のTシャツに黒いジャケットを羽織った男性──私はとっさに目を逸らし、顔を伏せた。
「あっ、コナンくん!」
「安室の兄ちゃんも!」
子どもたちが嬉しそうに声を上げる。
まさか、よりによって。最悪のタイミングだった。なぜこの場に彼が現れるの?しかも今度は、コナンくんまで一緒に。
「やあ、みんな。こんな時間にどうしたんだい
?」
安室さんが、少し屈んで笑みを浮かべながら尋ねる。
「小五郎のおっちゃんのお見舞いにきたらよ」
「このお姉さんが困ってたから、博士にご飯おごってもらうの!」
「お金がなくて、3日も何も食べてないみたいなんです」
子どもたちが元気よく答える。
その言葉に、安室さんの視線が私のほうへと自然に流れた。
「あなたは……」
少し目を開く安室さんから、視線を逸らすことも、言葉を返すこともできなかった。全身が固まってしまう。
よりによって、こんなみっともない話を安室さんに聞かれるなんて。この世界の誰よりも、彼には知られたくなかった。
「……安室さん、知り合いなの?」
「ああ。何度か顔を合わせたことがある程度だけど……」
間に入ったのは、コナンくんの低い声。安室さんは、私に目を向けたまま、淡々とした声でそう答えた。その目の奥が、何かを探るように揺れている気がして──私は、思わず顔を背けた。
「ねえ、安室さん……」
コナンくんが安室さんの服の裾を引っ張り、何か耳打ちしている。安室さんもまた、私に目を向けていた。その瞳は落ち着いていて、でもどこか冷静な色を孕んでいる。
ふたりの視線が、私の頬、喉元、手の甲、そして洋服の汚れ具合にまで、じっと注がれていくのがわかった。──どうしよう。不審に、思われている。
「……本当に、私は大丈夫です。すみません、失礼します」
なんとか声を絞り出すと、私はその場を離れようとした。これ以上、ここにはいられない。こんなことになるなら、病院からもっと離れたところまで行くべきだったのに。そう後悔しても、もう遅い。
「……っ」
確かな力で、右腕を掴まれた。
驚いて振り返ると、そこにはコナンくんの顔があった。少年の小さな手が、私の腕を優しく押さえている。
「僕、お姉さんのお話、聞きたいなぁ」
その目には、子どもらしい無邪気さと、年齢に見合わないほどの鋭さが宿っている。無理に引き止めるような力ではない。でも、その小さな手が、まるで鋼の枷みたいに思えて、私は動けなかった。
「ね、安室さんもそう思うでしょ?」
コナンくんの言葉に、ふっと安室さんが小さく息を吐く。
「……うん」
──もう、目をつけられてしまった。そんな確信が、背筋を伝って冷たく降りてくる。説明なんてできない。この世界の外側から来た人間だなんて、誰に言えるだろう。
それに、何よりもう、私は限界だった。空腹も、孤独も、誤魔化してきた。そんな、張り詰めていた糸が緩み、全身から力が抜けていくのが分かる。
このままじゃだめだと思うのに、もう何も考えられそうになかった。
前へ 次へ
目次へ戻る