52
カフェテリアの奥、窓際の席に案内された。子どもたちと博士から離れた4人がけのテーブル。私はそのうちのひとつに腰を下ろし、正面には安室さんとコナンくんが座っている。
「ええ〜っ、歩美たちも一緒がいいのに!」
「だめだよ。ちょっと話があるんだ」
そう言って頬をふくらませる歩美ちゃんに、コナンくんが小さく手を振ってたしなめる。
歩美ちゃんは不満そうにうつむいたが、光彦くんと元太くんがそれぞれ彼女の手を引いてカフェの奥へ連れていく。「じゃあまたなー!」という元太くんの声が遠ざかっていくのを聞きながら、私は拳を膝の上でぎゅっと握ったまま、目を伏せていた。
静寂が落ちたテーブルの上、冷めかけた水のグラスが、蛍光灯の反射を受けて鈍く光っている。私は、ふたりの視線を感じながら、ただ黙っていた。これじゃあまるで、取り調べをされるみたいだ。
「お姉さん、名前は?」
ふいにコナンくんが問いかけてきた。声はやさしいけれど、その言葉の奥に、探るような静けさがある。
「……宮間りか」
ぽつりと、できる限り自然に答えたつもりだった。だが、すぐさま追い討ちがかかる。
「本当の名前は?」
コナンくんの声が、今度はほんの少しだけ低くなっていた。本当も何も、これが本名なのに。けれど、彼の言葉の意図がわからないわけではない。嘘を見抜く眼。きっと、さっきから私の言葉のすべてを疑っているのだろう。
「…宮間…りか…」
もう一度、はっきりとそう口にする。目を合わせることはできなかった。ふてぶてしく聞こえたかもしれない。ただ、これ以上触れてほしくないという無言の意思表示。けれど、それすらもこのふたりには通じないのは分かっていた。
「どこに住んでるの?」
「……ここから、すごく遠いところ」
コナンくんが重ねるように訊いた。
けれど、そう答えるしかなかった。ここに私の家はないし、どうせ嘘をついてもすぐに見抜かれる。絞り出したその答えに、ふたりの間に流れる空気が変わる。
「さっき、“3日も食べてない”って聞いたけど、どうして?」
それは、避けたかった質問だった。
コナンくんの声は、無垢な子どもそのもの。だからこそ、逃げ場がない。
「……お金がなくて」
口にした瞬間、情けなさが込み上げてくる。
「でも、りかさん白衣を着てるから…きっと医者なんだよね?なのに、お金がないの?」
その言葉に、息を止めた。痛いところを突かれたというより、もう、なにも守るものが残っていないことに気づかされた。
……そうだ。嘘をついて、どうする?このふたりの前で、どれだけ取り繕ったところで、無意味だと分かってるはずなのに。私は、白衣の袖口を見た。くしゃくしゃになっている。今、これを着ている意味が分からなくなってしまった。
「……本当は、医者じゃないから」
"この世界"では。ぽつりと、机に向かって呟いた。その瞬間、ふたりの視線が強くなったのを感じた。
「ですが、この間救急外来で処置をしていましたよね?」
安室さんの低く、落ち着いた声が響く。
問いかけではなく、事実の確認だった。私は顔を上げることができず、ただ首を横に振る。
「あなたがあの時、勘違いしただけです…。私は、医者ではありません…」
その瞬間、ふたりの視線が静かに重なり合うのが分かった。空気がぴんと張りつめる。
安室さんは、黙ったまま少しだけ目を伏せた。
「──何をしたか、分かっていますか?」
今まで聞いたことがないほど、すごく低い声だった。
「経歴詐称。そして、それを前提とした医療行為。もし本当にそうなら、それだけで済む話ではありません」
安室さんの声が静かに、しかし確実に鋭さを帯びる。私は目を伏せたまま、机の上に落ちる自分の影を見つめるしかできない。
「警察を呼びます」
短く、切り取るような言い方だった。
その言葉に、私は小さくうなずいた。
「……はい……わかりました……」
声はかすれていたけれど、拒むような意志はどこにもなかった。
もう、どこにも逃げ場なんてないのだと分かっていた。嘘をついても、弁解しても、それはきっとすべて疑念でしか返ってこない。
「ちゃんと、分かっていますか?」
安室さんの声がさらに重なった。静かな圧が、空気を押しつぶすように私の肩をじわじわと重くする。コナンくんも隣で息を呑んだのがわかった。
「留置所に行くんですよ?」
私はしばらく黙ったまま、ただ拳をぎゅっと握っていたけれど──次の瞬間、ふと、自分の中のどこかが崩れた。
「……なんなら、その方がマシです」
目線を上げずに続ける。
「ご飯も出るし、寝床もある……その方がずっといいです」
喉の奥から、ぽろりと落ちた言葉。
惨めだった。でも、それが本音。ここ数日、空腹と孤独に耐えながら、どれだけ温かい布団と白いご飯を思っただろう。もう、誰からも疑われなくていい場所に行けるなら、それだけで──少し、楽になれるような気がする。
「そこがどういうところか、本当に理解されていますか?」
安室さんの声が、呆れにも似た響きを帯びた。けれど、私はすぐに答える。
「知ってます。行ったこと…ありますから…」
それを言った瞬間、目の前の空気がどよめいた。何を言っても疑われる。否定しても、説明しても、真実は届かないのだったら──もう、どうでもいい。
「警察に……引き渡してください。……ご迷惑をおかけしました。……すみません」
少しでもここから遠ざかれるなら、それでいいと思った。早く、去りたかった。こんな惨めな状況から、一刻も早く。
木目調の模様が、やけにくっきりと視界に浮かぶ。その沈黙の中、ふたりの気配がわずかに変化したのを、どこかで感じていた。
「でも……」
ぽつりと、声が漏れる。喉の奥に詰まった言葉を、そっと押し出すように続けた。
「警察が来る前に……おにぎりひとつでいいので……食べさせてください」
ふたりの視線が一斉にこちらに向くのを感じた。私は顔を上げず、ただ、唇を結んだまま懇願する。
「お腹が、空いてるんです……。お願いです……、それだけでいいので」
ここまできて、なお食べ物を乞うなんて──自分でも、あまりに情けないと思う。でも、それくらい限界だった。体が震えるほどに。
何より、何も食べられないまま手錠をかけられるのが、あまりに惨めで、苦しくて。
私にはもう、何も守るものがない。プライドも、肩書きも、信頼も。だったら、せめて最後に、お腹だけでも満たされたいと思ってしまった。
「ふう……」
安室さんのため息が、ひとつ落ちる。
沈黙が、机の上を這う。呆れているのかもしれない。たかが空腹で、なにを言ってるんだと思われても仕方がないことを言ってる自覚はある。
「…ちょっと待っていてください」
しかし、想像とは違った返答に、顔を上げた。
視界の端で、椅子を引く音。安室さんが立ち上がっていた。ゆっくりとカフェテリアの奥へと歩いていく。その広い背中を、私は無意識のうちに目で追っていた。
初めて、その背中を正面から見たような気がする。今さら取り戻せるものなんて、何もないけど。
澄んだ水面に、揺れる自分の影を見ながら──そのコップをそっと手に取った。冷たい水が、喉を通る。だけど、何も潤わない。空っぽの胸の奥は、変わらず軋んだままだった。
残されたコナンくんと私の間に、重い沈黙が落ちていた。彼が何を考えているのか分からないが、言葉を発する気力もない。
「ねえ、りかさん。家族はいるの?」
しかしそんな中、真っ直ぐな声が空気を揺らした。
私は一瞬だけ口を開きかけ、けれどすぐに口を閉じる。そして、静かに首を振った。
「……いない」
たったひとことに、すべてを押し込める。
名前も、居場所も、職業も──そして、家族も。この世界で私の肩書きになるものは、なに一つない。
「ここに知り合いは?」
「…それも…いない…」
「……あれ?僕に似た"夫"がいるって、この前言ってませんでしたっけ?」
その時、頭上から思いがけない声が落ちてきた。ハッとして顔を上げると、安室さんがトレーを手に戻ってきていた。
トレーには、包みを剥いたばかりのおにぎりが二つと、紙カップに注がれたお味噌汁。
「……」
私は何も言えずに押し黙った。
ただ、拳を握りしめ、視線を落とすしかない。安室さんはそんな私に一度息を吐き出すと、トレーを目の前に置いてくれた。
「どうぞ」
湯気がふわりと立ち昇る中、低く静かな声が促す。おずおずと、おにぎりの一つに手を伸ばした。まだ温かさの残る海苔の感触。そっと頬張ると、お米の甘さが口いっぱいに広がる。
──おいしい。けれど、それ以上に泣きたくなった。鼻を啜りながら、次にお味噌汁に手を伸ばし、口をつける。
「……痛ッ」
しかしその時、口の端がピリリと痛む。ここ数日の疲れと乾燥で、知らぬ間に口角が裂けていたのかもしれない。
顔をしかめていると、ふいに安室さんの腕が机越しに伸びてきた。私の頬に触れる直前で、薬のチューブを指に取ったその動きに、言葉を失う。
「動かないでください」
そう言われ固まっていると、安室さんは指先に薬をつけ、そっと私の唇に触れた。優しい手つき。痛みよりも、指のあたたかさが先に伝わってくる。あまりにも自然なその仕草に、私は一瞬何をされているのか分からなかった。
「……っ、大丈夫です。やめてください」
反射的に安室さんの手をはねのける。
彼の瞳が静かに私を見つめ返してきた。その瞬間、心の奥に張り巡らせていた薄氷のような壁が、パキ、と音を立ててひび割れてしまった。
「…どうして、私に触れるんですか」
ぽつりと、呟くように口を開いた。
「ずっと頑張って避けてきたのに…」
今まで必死に堪えてきたものが溢れ出す。
「3日、野宿しても…あなたに、助けを求めに行かなかった。…会いに、行かなかった」
この3日だけじゃない。
ずっと耐えてきた。これまでの3ヶ月だって、あれが最善だったと信じて。
「……だって、あなたの人生だから。私なんかが、踏み込むべきじゃないから」
あなたは、忘れてしまった。あなたの記憶から私は消えて、ただの見知らぬ女になった。
だから避けてきたのに。なのに、どうして――あなたが、そんな簡単に私に触れるの。
「なのに、あなたは……こうして、私の前に現れて……薬を塗って、私に優しくして──腹が立ちます」
その最後の言葉は、喉の奥から掠れるように漏れた。場の空気が凍りつく。誰も、何も言わない。息すら潜めるように、私の言葉を受け止めている。
「…そんなふうに言われる覚えはないんですが」
静かな声だった。責めるでも、問い詰めるでもない。けれど、その一言が、鋭い針のように胸の奥を刺す。
私は反射的に胸元へ手をやる。ぶら下がるネックレスに通された、小さな銀色の指輪。
「確かに……私は、結婚しました」
声が震える。
それでも絞り出すように言葉を続ける。
「確かにこれは、結婚指輪です。でも──夫はいません。迎えに来てくれる人も……いません」
それは、彼の質問の答えにはなっていなかった。けれど、それ以上の言葉が出てこなかった。視線は伏せたまま、指輪をぎゅっと握りしめる。
「なんで、夫がいないの?」
コナンくんにそう訊かれたとき、胸の内側に溜まっていた感情が、とうとう爆発した。
「……いなくなったから!!」
気がつけば、顔をあげて叫んでいた。声が震え、指輪を握る指先がじんと痛む。
「死んだわけでも、離婚したわけでもない……でも、いなくなったの!」
もうどうしていいかわからなかった。
心の中はぐちゃぐちゃで、言葉にならない叫びが溢れて止まらない。
「ほんの数日しか、一緒にいられなかった…!名前を呼ばれて、笑いあって、料理を作って……でも、それだけなんです……!」
喉が奥が痛む。張り詰めていたものが一気に壊れて、心の堤防が決壊していく。
「好きだ、愛してる、なんて一度も言ってくれたこともない…!私ばかり…私ばかり、想いを伝えて……必死で、しがみついて……」
頬に伝う涙が、顎を伝って膝の上に落ちる。
「なのにその人は……消えたんです……!」
怒りとも哀しみともつかない感情が、言葉と一緒に吐き出された。もう、自分でも何を言っているのかわからなかった。けれど、止められなかった。
「……悔しくてたまりません。……ハッピーエンドのために、って……受け入れたのに……これのどこが、ハッピーエンドなんですか?」
空腹と疲労、眠れない夜。
ずっと押し殺してきた感情が限界を超え、言うつもりのなかった本音が勝手にこぼれていく。
「私には……、自分がなぜここにいるのかも……っ、家に帰りたいのに、帰る方法もわからないんです……!」
涙が止まらなかった。
言葉の合間に息を吸うたび、喉がひくりと鳴る。
「知り合いもいない、お金もない。……なのに、どうしろって言うんですかあっ……!」
張りつめていた感情の糸がぷつんと切れ、喉の奥から堰を切ったように嗚咽がこぼれ出す。胸を押さえる手が震え、肩が波のように上下する。吸っても吸っても足りなくて、苦しくて、それでも涙だけは止まらない。
「っ……ぅ……っ……ひっ……」
ぐしゃぐしゃになった顔を隠すように、両手に顔を埋める。それでも嗚咽は抑えきれず、声が漏れるたびに全身が震えた。
「これは僕の理解不足か…?」
「…いや。僕も、わからない」
低く、戸惑いを含んだ安室さんとコナンくんの声。彼らが何を話しているのか、それを理解する余裕なんてなかった。
頭は真っ白で、胸は痛くて、目の奥が焼けるほど熱い。
「何の話をされてるのか、さっぱりなんですが」
淡々とした声が、斜め前から聞こえてくる。
私は、小さく、かすれた声で答えた。
「……わからなくていいです。……ほっといてください……」
たったそれだけの言葉を吐くのに、喉の奥がびりびりと痛んだ。目を閉じると、涙がまたひとつ、頬を伝って落ちていく。安室さんはふうと、目立たぬ呼気で息を吐く。その隣で、コナンくんと視線を交わす気配がした。
ただ、ただ、私は泣いていた。子どもたちの賑やかな声が遠くに去って、温かかったはずの味噌汁も、すでに冷めてしまったあとだった。
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