53


カフェテリアの空気は、ひどく重たかった。
さっきまで堰を切ったように泣き崩れた私と、それを黙って見つめていた安室さんとコナンくん。誰も、何も話さなかった。──もう、十分だ。ここで終わらせよう。みっともないだけの自分を、これ以上晒し続けたくない。
ちょうどその時だった。カフェテリアの奥の出入口から、足音が近づいてくる。緑色のスーツに、無表情な男――風見さんだった。きっと、安室さんの呼びかけに応じたのだろう。私はそっと椅子から腰を浮かせ、視線を伏せたまま立ち上がる。
今から、警察へ連れて行かれる。──でも、それでいい。ここに留まるより、その方がよっぽどいい。そう思った、その時だった。
安室さんが席を立ち、風見さんに何か一瞬目で合図する。そのやり取りを、コナンくんもじっと見つめていた。私も思わず、息を潜める。そして、次の瞬間。

「すみません、間違いでしたので引き取ってください」

低く、はっきりと、安室さんはそう言った。
風見さんは、一瞬だけ僅かに眉を動かした。だが、すぐに感情を殺した顔で、無言のまま深く頷き、踵を返す。背中が、無音で遠ざかっていく。

「……え?」

掠れた声が、喉の奥から漏れた。何が起きたのか、理解できなかった。 ──逮捕じゃ、ない?引き渡されない?
隣で、コナンくんも安室さんの行動に驚いたようで、静かに目を見開いる。

「……どうして……ですか?」

ようやく絞り出した私の問いに、安室さんはほんのわずか、瞳を伏せる。そして、静かに言った。

「警察署が怖くない人を行かせても、意味がないと思いまして」

答えに詰まる。
なぜ、そんなことを言うの?どうして、こんな私を“見逃す”ような真似を?胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。理解ができない。

「……私、ただの犯罪者なのに……」

喉の奥で、熱く硬い何かがせり上がる。震える声でそう言うと、隣のコナンくんが、座ったままちらりと私を見上げた。

「本当に……困ります。私に関心を持たないでください。ただその辺に、捨てておいてくれたらいいのに……」

苦しさが言葉ににじんで、声が震える。
こんなにも彼に関心を持たれることを恐れている自分に、吐き気がしそうだった。

「言葉が違います。関心ではなく──疑心です」

けれど、安室さんは静かに言った。
私はわずかに顔をしかめたまま、目を伏せていた。そんなの、私にとって"関心"と同義でしかない。見つめられるだけで、呼吸が浅くなる。
カフェの明かりが、まるで冷たい手のひらで頬をなぞるように照らしている。温かいものを食べた直後だというのに、手先は冷えきったままだった。

「あなたが何者なのか。何を隠しているのか。──それを先に知る必要があると感じただけです」

淡々とした声。怒りも哀れみもない。
ただ、確かに──見透かそうとする瞳の光だけが、真っ直ぐに私を射抜いてくる。
私は反射的に首を振った。

「……知られたくありません」

机の上に伏せた視線のまま、はっきりとそう告げた。

「あなたにも。誰にも……知られたくない」

その言葉は、懇願のようでもあり、呪文のようでもあった。絶対に越えてほしくない、一線。

「全部、知られたら、全部……また終わってしまうから」

震える声で吐き出すように言った。
真実を話してしまったあの日、この世界は崩れ始めた。彼は、川に身を投げる羽目になった。そして、私の目の前で──記憶を、私の存在を、すべてを失くすことになった。まるで夢のように、ふっと消えていってしまった。
あんな思い、もう二度としたくない。何度も夢の中で呼び続けて、名前を思い出してと願って、それでも何も届かなくて。また同じことが起きたら──今度こそ、私は……。

「…そんなつもりじゃなかったんだ」

そのとき、ふいに、コナンくんの声が落ち着いた調子で入ってきた。その言葉に、私はぴくりと反応する。視線を上げられずにいたが、その少年の声だけが、やけに静かに、真っすぐに耳に届いた。

「りかさんが“3日食べてない”って言ってたって聞いて……ちょうど3日前に起こった銃乱射事件と、何か関係があると思っただけなんだ」

──そう、だったのか。だから、あんな冷たい目を向けられたんだ。じっと、鋭く、どこか計るように、ただただ警戒だけを湛えた眼差し。
あの地獄のような救急外来に、たしかに私はその場にいた。けれど、それは“犯人側”ではなく、“巻き込まれた側”として。

「勝手に疑ってごめんなさい」

コナンくんは静かにそう続けた。

「でも……違うね。りかさん、自分から警察に行こうとしてたし、逃げる機会はあったはずなのに、この病院から離れなかった。……それって、罪から逃げてる人の行動とは少し、違う気がするんだ」

そう言って、ほんの少し笑ってみせる。それは、どこか空気を和らげようとするような表情だった。

「安室さんも…そう思ってるんだよね?」

わざと軽い口調で、コナンくんが安室さんの方を見上げる。緊張に張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ気がした。

「……ええ」

短く答えた安室さんの声には、肯定とも否定ともとれる曖昧さがあった。けれど──少しだけ、呼吸がしやすくなった。
コナンくんはきっと、察してくれたのだ。私と安室さんの間に、ただ事ならない何かがあると。だからこそ、彼はあえて、緊張の糸にそっとハサミを入れるように、言葉を差し込んできたのだろう。中身が高校生とはいえ、年下の男の子にそんな気遣いをさせるなんて、情けない。

「犯人じゃない。でも、何か……それとは別の、重大なことを隠してる」

何も、言えなかった。痛いほど核心を突かれているのに、反論も、肯定もできない。
──そう、私が隠しているのは“罪”じゃない。“秘密”だ。でもその“秘密”は、彼らの世界を壊すかもしれないものだ。何も言えず、俯いたまま、拳を膝の上でぎゅっと握る。
ふたりは、私の沈黙が全てを物語っているとでも思ったのか、ふっと小さく息をついた。

「……で、安室さん。これからどうするつもり?」

コナンくんが、わざと軽い調子で尋ねた。
どうするつもりなのか──私にも、分からなかった。自分のことなのに。

「判断が難しいですね。何者なのか分からないまま放っておくには、あまりにも危なっかしい」

安室さんは視線を落としたまま、低く静かに答えた。まるで独り言のような口調だったが、それでもその言葉は真っ直ぐに私の胸へ突き刺さった。

「……本当に、“家”はないのですか?」

まるで心の奥を覗くような声だ。
わずかに顔を背けるようにして、声を絞り出す。

「ありません……」

本当に、嘘ではない。さっきも話したが、この世界に私の“家”なんてない。居場所なんて、どこにも。

「……困りましたね」

安室さんは額に手を当てて、深くため息を吐いた。考え込むように目を閉じた彼の姿は、いつもの理性的な姿そのものだったけれど、どこか焦燥感のようなものも感じられる。
だから言ったのに。さっき、警察に差し出してくれたらよかったのに。心の中で、ぽつりと呟いた。どこにも行く場所がないなら、いっそ拘束されていたほうがまだ楽だ。

「……じゃあ、新一兄ちゃんの家は?」
「……え?」

ふいに、コナンくんの声が響いた。
何の脈絡もない言葉に、私は戸惑いながら顔を上げる。新一兄ちゃん?どういうこと?と疑問が浮かんだそのとき、隣の安室さんが僅かに眉を動かした。

「…コナンくん。もしかしてそれは…工藤邸のことを言ってるのかい?」
「うん、そう。小五郎のおじさんや博士の家に泊めてあげるのは、ちょっと難しいけど……あそこなら、部屋が余ってるし──」

そう続けかけたコナンくんが、突然「ヒッ」と小さく息を呑んで黙り込んだ。

「……え?」

思わず、彼の視線の先を追う。
そして私も──その意味がすぐに分かった。斜め向かいに立つ安室さんの放つ気配が、まるで空気の色を変えるかのように、暗く、重く、冷たく変わっていたのだ。

「そこだけは駄目ですね」

低く、鋭く、はっきりと。
安室さんの言葉は、拒絶というより、警告に近かった。

「でも、あそこなら昴さんもいるし、しばらくは──」
「駄目です」

言い終わるより先に、安室さんは静かに言い切った。声を荒げたわけではないのに、その抑えられた圧に、空気が再び張り詰めていく。

「……じゃあ、どこに?」
「どこであろうと、工藤邸よりはマシじゃないかい?」
「理由は……?」
「理由もなにも、"あそこ"に彼女を預けるくらいなら──」

言いかけたその言葉の続きを、彼は飲み込んだ。そして、深く息を吐いてから、ゆっくりと私を見つめる。

「……僕が、面倒を見ます」

言い放ったそのひとことが、私の理解の遥か上を飛び越えてきた。声も出せずに、固まる。さっきまで警察に引き渡されかけていたこの私を、面倒見る?どういうつもり?
視線を向けると、コナンくんも驚いたように目を丸くして安室さんを見ていた。

「ま、マジで……?」
「ええ。僕が責任を持って──」

言いかけた安室さんの言葉を、私は聞き終えることができなかった。心臓がばくばくとうるさく鳴る。まるでそれが当然のように、静かに、けれど確固たる意思を込めて言った安室さんに、私は一瞬で反射的に首を振っていた。

「…そこだけは、絶対に嫌です!」

声が裏返ってしまった。思わず両手をついて机に乗り出す。けれど、気まずさのあまりすぐに座り直して、視線を逸らした。

「あなたの家なんて…とんでもないです…」

震える声でそう言いながら、胸の奥がぎゅっと縮こまった。ひとつだけ確かなのは、彼と同じ屋根の下で生活するなんて、絶対に無理だということだ。
彼の前では、私は知らない女に。私にとっては、何もかもが忘れられてしまった日々に。そんな彼と、同じ屋根の下で呼吸をして、まるで何事もなかったように過ごすなんて。そんなの、ただの拷問じゃないか。そんな場所で、どうやって眠れというの?
安室さんはと言えば、私の全力の拒否にも眉ひとつ動かさず、淡々と返す。

「他に行くあてがないのなら、選択肢は限られます。まさか、また無断でここに寝泊まりするつもりですか?」
「っ……それは……」
「この病院も、そろそろ面会時間が終わります。今後も罪を重ねるつもりで?」
「違いますけど……!」
「では、どこに?」

追い詰めるような口調ではなかった。むしろ冷静すぎて、それが逆に効いた。言葉の端々から「だったら僕の家しかないでしょう」という論理がひしひしと滲んでいる。

「お金もないのですよね?」

その言葉に、返す言葉を失った。彼の言葉は、無防備に塞いでいたものを的確に突き崩していく。容赦も情けもない。現実を突きつけることで、逃げ場をなくしてくるような。私は、ただ唇を噛みしめるしかなかった。

「……僕は賛成だよ」

コナンくんが、ストローのついた空のコップをくるくると回しながら言う。

「安室さんなら安心して大丈夫だと思う。とりあえず、今日だけでも行ってみたら?」

軽く肩をすくめるようにして、気負いのない口調で続けた。まるで自分には関係ない、みたいに笑っているけれど、“だって、安室さんも警察官なんだから”──きっと、そんな無言の補足もそこにはあったはずだ。

「でも……迷惑ですよね……」

絞り出すように言ったその一言には、自分でも呆れるほど情けなさが滲んでいた。なのに安室さんは、すっと視線を落として、息をひとつ吐く。

「最初から“迷惑だ”なんて言ってませんよ。それは僕があとで判断します」

ああ言えばこう言う。
容赦ない理詰めに、口を噤む。

「逃げても、また路上に戻るだけです。だったらせめて、鍵のかかるドアの内側で眠った方がマシだと思いませんか?」

安室さんが静かに言い切った。すべてを見透かしたような目で、こちらをじっと見てくる。その瞳の奥に揺れているのは、あの頃と同じ──どこまでも真っ直ぐな目。
ぐうの音も出なかった。言い返したくても、どの言葉にも核心を突かれていて、もはや何を反論していいのか分からない。

「じゃあ、決まりだね」

コナンくんがストローをくるりと回したまま、少し得意げにそう言った。あっけらかんとした声だった。
私はただ黙って、空になった味噌汁のカップを見つめながら、指先でその縁をなぞった。




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