54


夜の街を、静かに車が滑っていく。
白いスポーツカーは街灯の光を映しながら、等間隔で並ぶビルの谷間を縫うように走っていた。私は後部座席で黙ったまま、窓の外を眺めていた。流れていく光の粒が、どこか遠い世界のもののように見える。
──どうして、こんなことになってしまったのか。肩をすくめるようにして座り込み、腕を抱える。安室さんの車に乗せられたまま、行き先も、未来もわからない。それでも抵抗の余地はなかった。理詰めの彼に、私は一歩も退けなかったのだから。

「僕も安室さんの家、行ってみたいなぁ」

不意に、助手席からコナンくんの声。子どもらしく明るく言っているようで、その言葉の奥には、どこか本気の響きがある。

「君も連れていく、なんて言ったっけ」

安室さんは横目にちらりとコナンくんを見て、苦笑まじりに返した。

「ちぇっ。ケチ」

コナンくんが膨れたような声を出す。そんなやり取りを背に、私は黙ったまま窓の外に視線を向けた。流れる夜の街。ビルのネオンがサイドガラスを淡く照らし、無関係な人々の生活が、音もなくすれ違っていく。
不貞腐れているつもりはない。けれど、言葉を発する気にもなれない。やがて、車は一つの建物の前に停車した。見上げれば、街灯の光に照らされた下、「毛利探偵事務所」の文字。その下には喫茶ポアロ。はじめて見るはずなのに、随分見慣れた気がするのはやはり、漫画でたくさん読んでいたからだろう。

「…ひとりで行けるね?」

安室さんが運転席からコナンくんに声をかけると、返事をするより早く、助手席のドアが開いた。

「うん、安室さんありがとう。りかさんも…またね」

コナンくんがこちらを振り返り、柔らかく笑った。

「あいつらも、また会いたいって言ってたよ」

探偵団。あの、小さな手で私を引っ張ってくれた子どもたちのことを思い出す。不思議な温もりだった。あの時のやさしい目と声が、ふいに胸を締めつけた。

「うん……」

私は静かに、短く答えた。それだけで、今の自分の気持ちを伝えるには十分だった。
コナンくんは片手を軽く振ると、探偵事務所の階段を駆け上がっていく。その背中がドアの向こうに消えると、車内に再び静寂が戻った。

「…後ろ、狭いと思います。前へどうぞ」

安室さんがバックミラー越しにこちらを見た。視線が、静かに私を捉える。
その声に、私は瞬時に首を横に振った。

「嫌です」
「ここからまだ少し走ります。前の方が楽ですよ」
「大丈夫です」
「そのままじゃシートベルトも窮屈でしょう」
「結構です」

ふう、と安室さんが浅く息を吐く気配がした。仕方ない、というようにシートに背を預け、ギアを静かに戻す。車が再び静かに走り出し、エンジン音が夜の街の中に溶けていく。
私もそれ以上は何も言えず、ただ背もたれに沈み込んだ。ほんの数時間前まで、何も食べられず、行くあてもなく、ただ病院の前に座り込んでいた。それが、どうしてこんな展開になっているのか──まるで自分のことじゃないみたいだ。これからどうすればいいのか、まるで分からない。

「……銃乱射の犯人は……まだ捕まっていないんですか?」

窓の外を見ながら、ふと安室さんに問いかけた自分に、少し驚いた。

「……そうです」

前方から返ってくる、変わらない低い声。

「ニュースで見たんですけど……手がかりが、何もないって」
「……そうです」

重ねて返ってきた同じ言葉に、私は少しだけ肩を落とした。
……はあ。思わず、ため息が漏れる。やっぱり、天沢くんの話していた“あらすじ”とは違う。事件の進行も、流れも、ずいぶんと変わっている。
私が動いたことで、この世界の歯車がズレてしまったのだろうか。自分が想像していた以上に、深く、そして危ういところに立ってしまっているのかもしれない。しかし、それを確認しようにも、ここにいる限りできないし……。
そう考えていると、前方から、静かに声がした。

「……どうして、僕にそんなことを聞くのですか?」
「え……?」

意図の読めない問いに、戸惑って顔を上げる。
何を、聞かれているんだろう──そう思った次の瞬間。

「……あなたに、自己紹介をした覚えも、職業を明かした覚えもありません。なのに、どうして僕がその犯人について知っていると?」

ミラーの中のその瞳が、じっと私を見つめている。形だけの笑みを湛えたままなのに、その奥には探偵のような冷静な鋭さがあった。
──しまった。完全に、口を滑らせていた。私にとって「降谷零=公安警察」というのは、疑う余地もない既知の情報。けれど、それはこの世界の今の彼が、私に語ったことではない。

「さっきの話で……コナンくんと一緒に、調査をしてるみたいだったから、知ってると思って……」

咄嗟に出た言葉。
しかし、彼にどんな言い訳をしたところで、おそらく見破られる。

「まあ、今はそういうことにしておきましょう」

しかし、安室さんは視線を前に戻し、アクセルを軽く踏んだ。
問い詰められると思っていたその矢先、淡々とした声が、運転席から届いた。信じられているのか、それとも見放されたのか──判断がつかない。
やがて、車は街の外れに差し掛かる。住宅街の通りへと入り、細い道をひとつ、またひとつと抜けていく。

「もうすぐ着きます」

そう言われて、私は車窓に目を戻した。見覚えのある通り。その奥に見えたのは、小綺麗な白いアパートだった。
──そう。ここが、彼の“家”。見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。私が、彼の妻として、数日暮らしていたあの場所。けれど、今そこにあるのは、まったく別の日常。
車がゆっくりとアパートの駐車スペースに滑り込み、エンジンが止まる。辺りは静かで、夜風が街路樹をかすかに揺らしていた。

「着きました」

安室さんがシートベルトを外し、静かに言った。
私は動けなかった。車のドアを開けるその一歩が、どうしてこんなにも重いのだろう。
運転席にいた安室さんが車を降り、さりげなく後部座席に目をやる。その横顔を見て、私はやっとドアに手をかけた。
──これが、正しい選択かどうかは分からない。
でも、今はそれ以外に、進める道がなかった。




 





「この先の部屋です」

階段を登りながら、安室さんが振り返る。私は小さく首を振った。
部屋の前で足が止まると、安室さんはポケットから鍵を取り出し、慣れた手つきでドアを開けた。その瞬間、ふわりと香る懐かしい香りに、胸の奥がひゅっと縮まる。柔軟剤と、畳の香り。そして、彼の生活の匂い。

「どうぞ」

安室さんは一歩、先に中に入り、玄関の明かりを灯した。私は一瞬ためらってから、ゆっくりと足を踏み入れる。
懐かしくて、悲しくて、あたたかい。その全てが混ざった空気が、私を包み込んだ。

「靴はそこに」

促されて、靴を脱ぐ。その動作ひとつすらも、どこかぎこちなくなっている自分に気づく。安室さんはスリッパを一足差し出し、それを私は無言で受け取った。
リビングへと進むと、変わらないインテリアが目に飛び込んできた。濃い木目のテーブルに、最低限の家具だけが整然と並んでいる。

「まずは、お風呂をどうぞ」

部屋に入って間もなく、安室さんがそう言った。私が戸惑っていると、彼はクローゼットの前で一度立ち止まり、何かを探すように扉を開ける。

「サイズが合うか分かりませんが……これしかなくて」

そう言って、手渡されたのはグレーのスウェット。柔らかそうな生地に、少しだけ香りが残っていた。私は目線を落としたまま、そっとそれを受け取る。
彼が開いたクローゼットの中を、ちらりと見た。以前は並んでいたはずの私の服は、もうどこにもなかった。当たり前だ。けれど、想像していたよりも、その現実は胸にじくりと痛みを残す。

「お風呂はこの奥です。タオルとドライヤーは棚の中に。冷蔵庫も自由に使ってもらって構いません」

彼の説明は、ひとつひとつが静かで丁寧だった。事務的というほど冷たくはなく、かといって、優しすぎるわけでもない。ただ、“きちんと整えられた距離”の中でのやりとりだった。
私は「ありがとうございます」と、ほんのかすかに声を出した。彼はそれ以上何も言わず、私をお風呂場へと促す。
スウェットを胸元に抱いたまま、私は脱衣所へ向かう。そして、背後で扉をそっと閉めた瞬間だった。

張り詰めていたものが、ふっと音もなくほどけた。肩から力が抜け、立っていることすらままならなくなる。
気づけば私は、スウェットを抱えたまま、その場にしゃがみ込んでいた。膝を抱えるようにして、小さくうずくまる。
泣きたいわけじゃない。だけど、どうしても胸がきつくて、苦しくて──深呼吸を繰り返しても、張り詰めた心がなかなか元に戻らない。
硬い床の冷たさが、ようやく現実を思い出させてくれる。今はまだ、ここにいるしかない。行く宛なんて、どこにもない。それでもしばらく、私はそのまま、何も考えずにうずくまっていた。




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