55
──まぶしい。
瞼の裏を、じわりと温かい光が染めていく。カーテンの隙間から差し込む朝日が、ゆっくりと私の頬を照らしていた。寝返りを打とうとして、違和感に気づく。柔らかい。包みこむような温もり。
あれ……?
重たくなったまぶたをこじあけ、私はゆっくりと目を開いた。視界に広がったのは、見覚えのある白い天井。そして、ふわりと香る洗いたてのシーツの匂い。柔らかな掛け布団の中、私はまるで何かに包み込まれるように深く沈みこんでいた。
昨日、確か……お風呂を出たあと、安室さんが入れ替わるように浴室に向かっていった。それを見届けたあと、私は畳の隅に腰を下ろし、しばらくじっとしていた。そのまま眠くなって…そうだ。その場に丸くなって眠ってしまったはずだ。3日間の野宿で、心も体も限界で、安室さんを待つ気力すらなかった。なのに、今、私は──
「……っ」
寝具の中で、はっとして体を起こす。シーツがかすかに擦れる音とともに、視界が揺れた。そのとき、目の端に映る人影。
畳の上。窓際の明かりに背を向けるようにして、安室さんがブランケットを肩にかけて眠っていた。端正な横顔は、寝息さえ聞こえないほど静かだった。ブランケットだけを身にまとい、まるで何の不自由もないかのように、その場所に収まっている。
「……うそ」
かすれた声が、喉から漏れた。
──ベッドを使ったのは、私。
──畳に寝ているのは、彼。
頭が真っ白になった。何が起きたのか、理解が追いつかない。けれど、ひとつだけ分かるのは、彼が私をベッドまで運んだという事実。
「……」
合わせる顔なんてない。申し訳なくて、何をどう言えばいいのかも分からない。
私はそっと体を沈め、もう一度布団の中に潜り込んだ。顔を、掛け布団の奥に埋める。何をしているのかと自分を責めた。これじゃあ、本当にただの迷惑な人だ。
心臓の鼓動がやけにうるさくて、そのまましばらく動けなかった。
しばらくして、リビングの方から小さな音が聞こえ始めた。
お湯の沸くかすかな音。カップ同士が擦れ合うような控えめな響き。朝の空気に溶け込むその音に、私は身を固くする。リビングに人の気配──いつの間にか、安室さんが起きている。横を通った気配なんてなかったのに。
どうしよう。顔を合わせる勇気が出ない。なぜ私をベッドに運んだのかも聞けないし、そもそもこんな展開になるなんて思ってもいなかった。
「……朝ですよ。そろそろ起きれますか?」
その時、やさしくも、どこか含みを持った声が、ドア越しに聞こえてきた。
私は観念するように目を開け、しぶしぶ上体を起こす。さっきより高くなった朝の光が、カーテンの隙間から差し込んで、空気を温かく染めていた。
そろり、と息を潜めて扉を開けダイニングスペースに出ると、安室さんがキッチンに立っていた。背中越しに見えるその姿は変わらず整然としていて、無駄のない動き。テーブルには、すでにトーストとゆで卵、湯気の立つカップが二つ。私の分まで、用意されている。
「……あの、そんなつもりじゃ……」
テーブルを見つめながら、小さく呟く。まさか用意してもらっているとは思わなかった。泊まるつもりですらなかったのに。
「気にしないでください。いつもの習慣です」
振り返りもせずにそう言う声には、温度が感じられない。ただ日常をなぞるような、機械的な調子。優しさがないわけじゃない。でも、きっと意図的に一定の距離を保っている。
私はそれ以上何も言えず、ただ静かに椅子を引いて腰を下ろした。
テーブルの上のカップの中には、野菜スープ。さっき台所から漂ってきた香りは、これだったのだ。安室さんも席に着いて、自分のマグカップにコーヒーを注ぎはじめた。
「……いただきます」
小さく声を出して、手を合わせる。聞こえていたのかどうか分からないけれど、彼も一拍遅れて「いただきます」と呟いた。
ふたりで向かい合って朝食をとる。だけど、何ひとつ会話がなかった。私は、そっと口角の傷に気を使いながらスープに口をつける。温かさが、昨日までの空腹を満たしてくれるようだった。
「……今日は少し、家を空けます」
トーストにバターを塗る手を止めずに、安室さんがぽつりと告げた。その言葉に、私はそっと顔を上げる。
「その間、宮間さんも一緒に外に出てもらえますか?」
一瞬、理解できずに瞬きをする。
けれど、すぐに彼の意図が見えた。
「申し訳ないとは思います。でも……僕にとって、あなたが何者なのかまだ分かっていないのも事実です。そんな状態で、家にひとり置いて出かけるわけにはいかない」
「それは、そう……ですよね」
納得するしかなかった。信頼なんて、築けていない。彼が言ったことは正しい。
むしろ、こんな状態で泊めてくれていること自体、異常なほど寛大だ。
「仕事が終わるまで、少しだけ時間を潰していてもらえますか。何かあればすぐに連絡できるように、番号はこのあと渡します」
そう言って、安室さんはまた静かに朝食に戻った。
私は頷いた。そうするしかない。今の私は、ここにいていい理由すら持っていないし、もし逆の立場でも同じことをするだろう。しかし──
「……あ、私……携帯、なくて……」
ぽつりと呟くと、安室さんのナイフの動きが止まった気がした。彼がゆっくりと顔を上げ、こちらを見る。目が合うのは、今朝はじめてだった。
意外そうな表情。けれどすぐに、その目元から驚きが消えていく。思い出したように、静かに目を伏せた。
「…ああ。そうでしたね」
まるで、合点がいったというように頷く。それは、私が“普通じゃない”ことをまたひとつ確認されたような気がした。
「あとで、僕の予備の端末をお貸しします。番号はこちらで設定しておきますね」
淡々とした口調だったが、彼なりの配慮を感じた。
私は小さく頭を下げた。ありがとうも、ごめんなさいも言えなかった。ただ静かに、手元のカップに視線を落としたまま、冷めてゆくスープの香りだけが、いつまでも消えずに漂っていた。
*
白いスポーツカーは、朝の光を浴びて静かに住宅街を走る。車内に満ちるのは、エンジンの音と柔らかな光だけ。私は助手席で、ぎゅっと指を握りしめていた。
数十分前、外に出る服すらないと困っていた私に、安室さんがそっと差し出したのは、昨日私が着ていた洋服だった。空色のブラウスに、黒のワイドパンツ。すっかり洗われて、乾燥まで済ませてあったのだ。
私が眠ってしまったあと、彼がそんなことまでしてくれていたのだと思うと、胸の奥がきゅっと締めつけられた。申し訳ない、なんて言葉だけじゃ足りないが、とても助かったのも事実だ。
「…昨日、コナンくんを送り届けた探偵事務所の下の喫茶店が、僕のアルバイト先です」
ハンドルを軽く切りながら、安室さんが口を開いた。朝食の時にも、軽く自己紹介を聞いたが、改めて説明してくれているみたいだ。
「探偵業との両立で始めたバイトですが、居心地がよくて素敵な場所ですよ」
「……探偵さん、なんですね」
知っている。何度も、何十回も読んだ。カウンター越しに微笑む彼の姿も、推理をする鋭い視線も、頭に焼きついている。
でも私は、何も知らないふりをしなければならない。
「ええ、一応。今日は夕方まで、そのポアロの方でシフトが入っています」
信号で車が止まり、彼の横顔に光が差し込む。落ち着いた声で話すその姿は、いつも通りの安室さんだった。
「…そうなんですね。喫茶店、楽しそうです」
なんとか口にしたのは、そんな薄っぺらい言葉。そういえば、ポアロで働く彼の姿は、実際には一度も見たことがないな、と思った。
「宮間さんは……どこか、行きたい場所はありますか?」
交差点を左に曲がったあと、ふいに問いかけられた。私は言葉に詰まる。
行きたい場所……。いや、そもそも行ける場所すらないから、考えてもいなかった。
「……正直に言うと、お金がないので……。どこかに入って何時間も過ごすのは、ちょっと……」
「そうですね……」
安室さんは短くそう言って、わずかに目を細める。
「公園……は熱中症が心配ですね。図書館……は、もう開いているはずですが」
「……」
「あるいは、ポアロに来ますか?平日ですし、カウンターの隅に座ってもらって、読書でもしていれば、しばらくは時間は潰せますよ」
「……図書館にします」
私はそう口にした。あまり深く考えたわけじゃないけれど、静かに過ごせる場所として真っ先に浮かんだのがそこだった。
誰にも話しかけられずに済むし、何より、誰の記憶にも残らない。
「静かに過ごせるから……」
呟くように言ったその言葉に、安室さんは軽く頷いた。
やがて、車は図書館の前で静かに停まった。少し古びたコンクリートの建物。正面玄関には「米花図書館」と記されたプレートが掲げられている。
私はシートベルトに手をかけ、ドアを開けようとした。
「待ってください」
安室さんの声に、思わず手を止めた。
振り返ると、彼はセンターコンソールから何かを取り出し、私の方へ差し出していた。
白いスマートフォン。そして、その上に添えられた小さな黒いカードケース。
「これを」
「……?」
戸惑いながら受け取ったカードケースを開けると、中には一枚のICカードが収められていた。
「これは……?」
「交通系ICカードです。…お金がないと、何もできませんから」
その言葉に、胸の奥がずくんと疼いた。
「一定額、チャージしてあります。この辺りだと、ほとんどのレストランでも使えますし、電車やバスも問題なく利用できます」
「だ……だめです、受け取れません……!」
思わず、声が跳ねた。
慌てて首を横に振り、手を引く。彼にこんなにも良くしてもらう理由なんて、私にはひとつもない。
だって──私は、家主のベッドまで奪って。安室さんが床で眠る羽目になったその隣で、何も知らずに眠り続けて。朝には、用意された朝食を前に、ろくな言葉も返せずに座っていただけ。昨日着ていた服は洗濯され、乾かされ、畳まれていた。
なのに、まだ何かを受け取ろうなんて──これ以上、迷惑をかけるわけにはいかなかった。
「私が悪用したら、どうするんですか?そもそも、あなたにとって私は……」
「この程度のお金を悪用されたところで、僕に支障はありません」
言葉は淡々としていたが、その目は真剣だった。言いかけた言葉の続きを飲み込んだ私に、安室さんはスマホを指先で軽く示す。
「これも、あなたと連絡が取れると信じて渡しています。だから、受け取ってください」
その瞬間だった。
──あなたと連絡が取れると信じて渡すんです。受け取ってください。
同じ言葉が、記憶の奥から突然よみがえる。病院の個室。点滴をすり替えようとしていた看護師を制止し、彼を助け出そうとしたあの夜。引き出しからスマホを取り出して、まっすぐな目で言った、あの時とまったく同じ言葉だった。
「……っ」
息が詰まった。返す言葉が見つからない。
ただ、喉の奥に熱いものがせり上がってくる。
「……また、その目ですね」
ふと、安室さんがそう言った。少しだけ眉を下げて、困ったように笑う。はっとして目をそらす。私はまた、無意識に彼を真っ直ぐ見つめていたらしい。
ふぅ、と安室さんは小さく息を吐くと、私の手をそっと取って、スマホとカードケースを握らせた。
「きちんと昼食は食べてくださいね。僕が連絡したら、ちゃんと応じるように」
安室さんはそのまま助手席側に身を乗り出し、私のシートベルトを外し、ドアのロックを外した。いつの間にか、言葉の主導権は完全に彼にあった。私は抵抗もできず、それらを両手に抱えたまま車を降りる。
「ありがとう、ございます……」
掠れるような声でそう言って、小さく頭を下げる。白いスポーツカーがゆっくりと発進し、私の前を静かに離れていった。
外の風が、ほのかに頬をなでた。私はしばらくその背を見送ったまま、立ち尽くしていた。
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