07
とりあえず目立たないように、白衣を脱いだ。下に着ていた薄手のニットだけになり、脱いだ白衣は近くのゴミ箱に押し込む。こんなものを着ていたら、すぐに指名手配中の女医だとバレてしまう。
そのまま病院前のバス停まで歩いて、空いたベンチに腰を下ろす。深く息を吐いて、夜の空を仰いだ。
…前にこの世界へ来たときは、どうだったか。確か、気づいたらすぐ現実に戻れていた。時間も、一時間も経たずに。今回もきっと大丈夫。すぐに戻れるはず。自分に言い聞かせるように腕時計を見つめて、時折周囲を確認していた。
けれど―― 一時間が経ち、二時間目に突入しても、何も起きない。どこにも異変の気配はなく、ただ時間だけが、淡々と進んでいく。
……なんで?時計の針はちゃんと動いてる。空の月の位置だって進んでる。なのに、なぜ私はまだここにいる?
「……まさか、戻れない……?」
そこまで考えて、私は青ざめた。まさか、そんなはずないと思うけど、頭の中にある記憶が靄に包まれる。
前はどうやって戻ったんだっけ?どんな風に?何かきっかけがあった?思い出そうとするほど、焦りだけが胸の奥に積もっていく。
そのときだった。
見つめていた腕時計の針が、突然、狂ったように回転を始めた。一気に加速して、くるくると長針と短針が何周も回り続ける。
「……え?」
一瞬、壊れてしまったのかと思ったが、そうでもないらしい。一向に、針の回転は止まらない。
そしてなぜか、それに合わさるように目の前の景色も変わりはじめた。車がビデオの早送りみたいな速さで道路をすり抜けていき、空が一瞬で朝から昼に、そしてまた夜に――何度も入れ替わる。
街路樹の葉は緑を増し、季節すらも飛び越えていく。風に運ばれてくる空気の匂いも、気づけば初夏のように湿っていて、遠くから、蝉の声まで聞こえてくる。
「な、なに……っ」
声が震えた。思わず両手で顔を覆い、呼吸を整えようとする。一度、ぎゅっと目を閉じて。……そして、そっと開いた。
「……っ」
その瞬間、すべてが――元に戻っていた。
時計の針は正常に動き、風景も落ち着きを取り戻している。しかし、さっきまで夜だったはずの空が、今は澄んだ朝の青色に染まっていた。
朝日がビルのガラスを照らし、人の流れも、日常の音も、すべてが“いつも通り”。
…なにが、起こった?おかしい。すべてがおかしい。こんなことが起こったというのに、どうして他の人たちはなんともないの?
「な、なんなの一体……ひゃっ!」
不意にスマートフォンがぶっと震えた。
肩が跳ね、つい反射的に画面に触れてしまい、そのまま通話がつながる。考える間もなく、私は咄嗟にそれを耳にあてていた。
「も、もしもし…?」
『宮間さん、お久しぶりです』
「………へ?」
『僕のこと、覚えてますか?やっと退院しましたよ』
——嘘、でしょう?
聞き間違いだと思って、慌ててスマホを耳から離す。しかし、画面を見て息をのむ。そこにはしっかりと“安室透”の名前が表示されていた。
——嘘、でしょう?
二度目の驚き。そんなはずはないと混乱する。さっきまで、ベッドの上で色んなチューブと繋がっていた人が退院って?なんの冗談かと、私は震える指でスマホを耳へ戻した。
『会う約束、覚えてますか?今日お時間は?』
まくし立てるような質問に、私は言葉を失う。頭の中で“現実”の定義が軋みをあげた。
私は今…誰と話してる?
『宮間さん…?聞こえますか?今どちらに?』
「えっ……びょう、病院の……そばのバス停……」
反射で、わけもわからず現在地を告げてしまう。自分でも何をしてるんだと思いながらも、頭のキャパシティがすでに限界を突破していた。まともな思考さえ働かない。
『ちょうどいいですね。動かないでください。すぐに迎えに行きます』
「……へ?」
何がちょうどで、何がいいのか。わからない。
返事をする間もなく通話は切れる。私は呆然とスマホを見つめながら、胸の奥に戦慄が走った。
……今のは、なに?なにが起こった?急に空が明るくなったと思ったら、安室さんから電話がかかってきて……。“退院した”? “迎えに行く”? いや、冗談じゃない。さっきまで入院していた人が、そんな急に――
そのとき。遠くから、低く響く車のエンジン音が近づいてきた。重々しいこの回転音。他の車とは明らかに違う。
…まさか。なんだか嫌な予感がして、恐る恐る振り返ろうとしたその瞬間。
「宮間さん!」
名前を呼ぶ声が風を切って届いた。
目の前に停まったのは、白のスポーツカー。助手席の窓がすっと下がり、金髪が朝の光を背に輝く。運転席から身を傾けるようにして、顔を覗かせたその人物は――通行人全員の視線を集めている、安室透だった。
突然のイケメンの登場に、周囲からは声にならない悲鳴が漏れる。私は口を半開きにしたまま、瞬きすら忘れて彼を見つめた。
「ど、どうして……?」
頭が、ついていかない。どうやって退院を?なぜ?もう運転できるほど回復してるの?疑問が雪崩のように浮かんでは消えていく。
私の反応がないのを見かねて、安室さんは運転席のドアに手をかけた。長い脚がアスファルトに降り、そのまままっすぐ私へと向かってくる。ざわつく空気の中、彼の影が私をすっぽりと包み込んだ。
「……行きましょうか」
そう言って差し出された手。
その瞬間までは覚えていたのに――気がついたときには、なぜかあのRX-7の助手席に私は座っていた。
それが、いつ車に乗ったか、どうやってシートベルトを締めたのか、足が地面を踏んだ瞬間すら思い出せない。次に意識を取り戻したときには、すでに車は発進していた。
「今日、退院したばかりなんです」
ハンドルを握ったまま、安室さんが何気なく言う。
「えっ…あ、あむ、安室さん。もう退院したんですか!?」
「もう、って事はないですよ。あれから2ヶ月も入院していたんですから」
「………はい?」
——今日?2ヶ月?
彼は一体、なんの話をしているのか。私の感覚では、ほんの1時間くらいしか経っていないはずだ。けれどそこに冗談めいた響きはなく、落ち着いた調子で事実を告げている。
「入院中、あなたとの約束を片時も忘れたことはありません」
「……約束?」
「ええ。僕が退院したら、真実を話してくださると。そう言いましたよね?」
そう言って、ハンドルを握る安室さんがふと横目で笑った。
「この日を、ずっと待っていました。だから――こうしてまたお会いできて嬉しいです」
私は絶句した。
まるで彼は、私がいなかった2ヶ月間をひとつずつ数えて過ごしてきたような口ぶりだ。そこに嘘はひとつもない。
「宮間さんは、この2ヶ月どう過ごされてましたか?」
私としては1時間しか経ってないのに、どうもこうもない。言葉を探す間にも、彼の横顔から視線が外せない。
「行きつけの店があるんです。もしよければ、ご一緒にどうですか?」
「……お、お店?」
「ええ、少し早めのランチはどうでしょうか。…それに、あなたとゆっくり話がしたいんです」
そこには、単なる食事の提案以上のものが潜んでいる気がした。穏やかだけれど、譲る気のない強さ。訳もわからず、私はとりあえず頷いておく。
そのまま沈黙が車内に落ちた。もう一度、安室さんの横顔を盗み見る。
完璧に整った鼻筋。微かに笑みの残る口元。数時間前まで絶対安静だった人間とは、とても思えない。どこをどう見ても――ピンピンしている。嘘みたいな健康体だ。
「どんな回復力…?」
自分でも意図せず呟いたその言葉に、安室さんは静かに微笑しただけだった。
そして私は考える。……ここは漫画の世界。そして彼は、漫画の登場人物だ。物語上“必要のない時間”は、端折られることもあるのかもしれない。
ほら、『──それから2ヶ月後』そういった文言が、物語などにはよく出てくる。ストーリーの進行上必要ない時間を、そうやってカットするために。
そう考えば、彼の入院期間がすっ飛ばされるのも不思議じゃない。入院生活なんて地味な展開は、物語の中には必要がないから。だから時間が、漫画の流れに沿って飛ばされてしまったのだとしたら?
でも――そうなると、私は?私の存在は?私の時間は?私は2ヶ月間、どこにいたことになってる?
「……っ」
そこまで考えて、胸の内に冷たいものが走り、思わず両手で頬を覆った。
まさか私、2ヶ月間、失踪している状態なんじゃ……。
「暑くないですか?」
「ひゃ……っ」
頬に手を当てたまま、思わず振り向く。まずい、安室さんの話を全く聞いていなかった。
「な、なにがですか…?」
「その服装ですよ。今日は30度を超えるらしいですよ。2ヶ月前と同じ服ですよね。まさか、路上で生活していた訳じゃないんですし…」
「はは………」
安室さんの言葉は穏やかだが、鋭い。観察力に満ちた視線が、何気ない言葉の裏に隠れている気がして、私は浅く笑ってごまかした。そのまさか。路上で生活しておりましたが……とは口が裂けても言えない。
何気なく外に目を向ける。街を歩く人々は、皆Tシャツやノースリーブ。陽射しは春の優しさをとうに超えて、真夏の勢い。季節は、たしかに進んでいた。私は、まだ春のままなのに……。
しばらくの沈黙ののち、安室さんはゆっくりとハンドルを切り、百貨店の裏口へと車を寄せた。
「…降りてください。まずは、夏服を買いましょう」
「えっ、そんな…!大丈夫です!」
「随分暑そうに見えますが……」
「いいえ?全然…!」
「本当ですか?」
安室さんはそう言って、ふいに身を乗り出し、私の額に軽く触れた。人差し指の、わずかな重み。
「ほら。額に汗がでてますよ」
「……っ!」
ぴくりと肩が跳ね、私は思わず身を引いた。仰け反るようにして距離を取ったはずなのに、顔の火照りは収まるどころか、逆に加速していく。
何気ない仕草なのに。でも、あまりにも自然で、あまりにも近くて、私は自分の鼓動を持て余していた。
「言ったでしょう?今日は30度を超えるんですよ」
安室さんはそのままシートに背を預けながら、私の反応に気づいているのかいないのか、声だけは柔らかく続けた。
「ね?行きましょう。あなたに似合う服を選びに」
安室さんの言葉は、どこまでも丁寧で、どこまでも真っ直ぐで。そこに下心めいたものは一切ない。それが逆に、逃げ場をなくしていく。
私は、今の自分の格好を思い返した。薄手のニット。春先にはちょうどよかったけれど、今は完全に季節外れだ。
口の中に残る言葉を飲み込み、私はようやく小さく頷いた。安室さんが何も言わずドアを開けてくれたのをきっかけに、少しぎこちない動作で助手席から降り立つ。
車のドアが閉まる音。それすらも、現実味がなくて――まだ夢の中を歩いている気がしていた。
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