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本のページをめくる音さえ、遠慮がちに聞こえるほど静か空間。米花図書館の奥まった一角。私は人目につかないような席を選び、ただ黙って座っていた。適当に選んできた小説で、読書をしているふりをしていても、文字はまるで頭に入ってこない。脳の奥では、別のことばかりが渦巻いている。
──さて、これからどうしたものか。
静けさに包まれながら、私は天井を仰いだ。この先、どうやって生きていけばいいのか。現実に戻る術すら分からない。また安室さんを“動揺”させれば、元の世界に戻れるのだろうか。いや、記憶を無くした彼に、それが通用するのかも分からない。
それに分からないのは、彼のことも同じだ。どうして、安室さんは私の面倒を見てくれているのだろう。記憶もなく、私が何者かも分からないはずなのに。彼はそんな、感情に流されるような人じゃない。合理的で、必要のないリスクは決して取らない人だ。以前、私と一緒に住もうとしたときも、そこには明確な真実を知りたいという“理由”があった。
でも、今は?何も知らないはずの彼が、どうして私を家に泊めて、スマホやICカードまで用意してくれるのだろう。理由も見えず、ただ与えられる優しさに私は戸惑うばかりだ。
ため息が、胸の奥で渦を巻く。でも、このままずっと安室さんの家で生活をしていく訳にもいかないし──。
「お金が、ないんだよね……」
ぽつりと呟いた声は、木製の机に吸い込まれて消えていった。
一瞬、単発のアルバイトでも探そうかと思った。コンビニでも、カフェでも、何だって。そうすれば、1日生きていくくらいのお金なら、集められる。けれどすぐに、その考えが甘すぎたことに気づく。
この世界での私は、身分証もなければ、履歴書だって書けない。面接を受けるどころか、労働の権利すら持っていない。どんな仕事に就こうとしても、最初の一歩で躓く。
でも、現実に帰る方法なんて、誰も教えてくれないし、兆しも見えない。こんな不確かな足場の上で、どうやって前に進めばいいっていうのか。
そんな時だった。机の上のスマートフォンが、小さく震えた。画面に表示された通知は、たった一文──
『昼食は食べましたか?』
それだけ。それだけ、なのに。小さく笑ってしまいそうになる。
本当に変わらない。あの頃も、安室さんはそうやって私を気遣ってくれた。彼を動揺させようと「愛してます」とメッセージを送った私に、「三食しっかり食べてくださいね」と、まるで当たり前のように送ってきたのだ。それを思い出しただけで、胸の奥が熱くなる。
机の上のICカードが目に入る。ふと、図書館の入口へ向かって歩く途中、向かいのビルにカフェがあったことを思い出した。名前はもう忘れたけれど、窓が大きくて、光の差し込む静かな店だった気がする。
これを使うつもりなんて、なかったのに。けれど、あの一文に背中を押されたような気がして、私は席を立った。
スマホとカードをポケットに入れ、読みかけの本は棚に戻す。少し、空気が違う場所へ。少し、視界の変わる場所へ。それだけで、ほんの少し、息がしやすくなるような気がした。
*
カフェの扉を押すと、かすかに鈴の音が鳴った。
外の強い日差しと違って、店内はやわらかな光に包まれていた。壁際のランプが淡く灯り、木製の家具と観葉植物が居心地のいい温もりを演出している。ほんのりとコーヒーの香りが漂い、静かに流れるBGMが耳に優しい。
「いらっしゃいませ」
明るい声で出迎えた店員に、おそるおそる近づく。手にしたICカードを差し出しながら、小さな声で尋ねた。
「……あの、これでお会計できますか?」
「はい、大丈夫ですよ」
にこやかな返答に、少しほっとして、窓際の席を選んだ。表に面したガラス越しには、さっきまで過ごしていた図書館の入口が見える。静かな午後。通りを行き交う人の影も少なく、時間が緩やかに流れていた。
カウンターから別の店員がやってきて、メニューを渡される。だが、人のお金で高価なものを頼むのは、どうしても気が引けた。
「えっと……飲み物はいらないので、これを……」
指さしたのは、小さく載ったオムライスの写真。シンプルな、ケチャップのかかった定番の一品。
「かしこまりました。少々お待ちください」
注文を終えると、私は再び窓の外へと視線を戻した。
通りをぼんやりと眺めていると、ほんの少しだけ、世界が穏やかに感じられる。やっと少しだけ呼吸が整う気がした。
やがて、小さなオムライスが運ばれてきた。ふわふわの卵にきれいな赤いケチャップがかかり、脇にはほんのり炒めたキノコが添えられている。
スプーンですくってゆっくり口に運ぶと、思いのほか美味しい。ちゃんとした食事の温かさが、染み渡る。次、またいつ路頭に迷うか分からないから、今のうちにしっかり食べておこう。もう一度、そっと口へ運んだ。
──そのとき。ふと、視界の隅に違和感がよぎった。店内の奥、壁際の席。そこに、ひとり静かに座っている男性がいる。横顔しか見えないが、短く整えられた髪、黒縁の眼鏡、モスグリーンのスーツ。
「……風見さん?」
思わず声に出しそうになったのを、ぎりぎりで飲み込んだ。
なぜ、こんなところに?ここは警視庁からそう近い場所ではないはず。まして昼休みの時間でもない。偶然──そう思いたかったが、どうしても引っかかる。
そっと、視線を窓へ戻した。風見さんの席の位置からは、図書館の出入口がよく見える。
まさか。私を、見張って……?そう考えた瞬間、胃の奥がきゅっと冷えた。まるで背中に影が落ちたような感覚。さっきまでのぬくもりが、音もなく引いていく。
──なんだ。思わず口の中で呟いた。
信じてるって、あんなふうに言ってくれたのに。やっぱり、私は監視対象なんだ。いや、当然だ。所在不明の、身分も証明できない女。誰だって警戒する。理屈では分かってる。でも。
だったら、あんなふうに言う必要なかったのに。スプーンを動かしながら、ケチャップの味が徐々に薄れていく。
美味しかったはずなのに、何だか味がしないまま、何とか完食する。そして、私はすぐに席を立った。カードをかざして会計を済ませたあとも、風見さんの席には目を向けなかった。
「ありがとうございました」
店員の柔らかな声に見送られながら、カフェのドアを開ける。目指すのは、元いた場所──静けさの中に身を置ける、米花図書館。
照りつける日差しを避けるように扉をくぐり、本の香りに包まれた瞬間、肩の力がすっと抜けた。けれどそれは、安らぎというより、居場所のない者がようやく一時の避難所にたどり着いたような感覚だった。
朝と同じ席に腰を下ろし、また別の本を手に取る。けれど、やはり文字は頭に入ってこない。ただ目だけが行をなぞっていく。心は、別のところに置き去りのままだった。
しばらくして、窓の外の光が、少しずつ傾きはじめた。本を閉じ、目を閉じる。静けさが痛い。
そんなとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。反射的に取り出すと、画面には「安室透」の文字。メッセージは短く、
『そろそろ迎えに行きます。何か必要なものはありますか?』
とだけきていた。ただそれだけの文章なのに、胸の奥がきゅっと痛む。
“必要なもの”。そう聞かれて、すぐに浮かぶものなんてなかった。
必要なもの──物じゃない。ただひとつ、心の中に浮かんだのは、「記憶を取り戻してほしい」という願い。でもそれは、絶対に口にできない。私はスマホを伏せ、短く返事を打った。
『何もいりません。待ってます』
たったそれだけ。それ以上、何を言えるだろう。
スマホの画面が暗転し、手の中でその重みだけが残る。何も言わないと決めたのは私だ。けれど、何もしないでいることは違う。
──このままじゃ、だめだ。ただ待っているだけじゃ、何も変わらない。優しくされるたびに傷ついて、彼の記憶の隙間に怯えて、それでも何も言えずに。そんなふうに立ち止まってばかりいたら、きっと私は、本当に現実に戻れなくなる。
「…何か、できることを探さなきゃ」
声にならない呟きが、胸の奥に火を灯す。
たとえ小さくてもいい。この世界の中で、私にできること。この状況を打破する方法。何かがあるはずだ。動かなきゃ。見つけ出さなきゃ。待っているだけの自分を、もう終わらせたい。
私は静かに立ち上がった。胸の奥で、眠っていた決意が、確かな輪郭をもって目を覚まそうとしていた。
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