57


図書館の扉を押して外に出ると、すでに陽は傾き始めていた。ゆるやかに沈んでいく太陽をぼんやりと見上げながら、私は歩道に出る。ふと視線を向けると、道路の向こう──図書館の出口からすぐの位置に、見覚えのある白い車が停まっていた。
運転席のドアが開いて、安室さんが姿を現す。朝と同じ、白いシャツに黒のパンツ姿。一度だけ視線をこちらに向け、助手席のドアに手をかけて開けくれた。

「……おかえりなさい」

どこか柔らかいその一言が、胸の奥をそっと揺らす。一瞬、躊躇ったが、覚悟を決めて、ドアの内側へ身を滑り込ませた。
ドアが閉まり、ふたりきりの空間に戻ると、車内が静かな緊張に包まれる。窓の外の夕暮れの街がゆっくりと後ろへ流れていった。

しばらく沈黙が続く。でも、私は決めていた。
彼に話さなければならないことがある。
──私がこの世界に来た意味。そして、戻るために必要なこと。動揺させれば帰れる。そんな子どもじみた理屈じゃなくて、この物語をきちんと終わらせなければならない。完結の先にこそ、帰還の可能性があるのかもしれない。そう思えてきた。

「今日は、何をしていましたか?」
「……ずっと図書館で……本を読んでました。あまり頭には入ってこなかったですけど」

ふいに、安室さんの穏やかな声が車内に落ちた。答えながら、私は両手を膝の上で握ったまま、ぎこちなく指を絡める。

「そうですか。……昼食は、ちゃんと食べましたか?」
「…はい。向かいのカフェで。……あの、ご馳走さまでした」
「いえ、それなら良かったです」

その返答に、ふっと息が詰まる。
──知ってるくせに。風見さんにしっかり見晴らせていたのだ。たぶん、彼が逐一、安室さんに報告しているはず。そんな初めて聞くみたいに、尋ねてこなくてもいいのに。そう思いながらも、胸の奥に緊張が走る。

「安室さん……」
「はい」

視線は前を向いたまま、言葉だけを差し出すように呟いた。信号が赤に変わり、車はゆっくりと止まる。夕焼けの光がフロントガラス越しに差し込み、安室さんの金髪に赤い光を差し込む。
私は、ほんの少し息を吸い込んだ。

「もし、私が──銃乱射事件の犯人の顔が分かるって言ったら……どうしますか?」

その言葉を口にした瞬間、車内の空気がひときわ重く沈んだ気がした。運転席の横顔がわずかに動き、安室さんの視線がこちらへ向けられる。その瞳の奥に、明らかな驚きと警戒が浮かんだのを、私は見逃さなかった。

「……それは、犯人を知っているという意味ですか?」

いつものような落ち着いた声。でも、ほんのわずかに、声色が硬い。
質問を投げ返されたことで、自分の中に渦巻いていた緊張が、今さらになって首筋を伝って汗に変わった。

「…はい」

短く答えると、安室さんは再び正面へ視線を戻す。だけどその表情は、明らかにさっきまでの穏やかさを失っていた。
車が再び発進し、交差点を右に曲がる動作も、ほんの少しだけぎこちなくなる。
私は拳を膝の上で強く握った。心臓が速くなる。浅い呼吸を、意識して整えながら続けた。

「……そうだと言ったら、犯人を捕まえてくださいますか?」

安室さんは答えない。代わりに、一度だけ唇を引き結び、ほんのわずかに息を呑む。

「あなたの言葉が真実だという証拠は?」

──やっぱり、そう来ると思った。
理屈ではそうだ。信じてもらうには、裏付けが必要だ。でも、私にはそれを証明する手段がない。

「証拠は……ありません。でも、今の私に、嘘をついて得られるものなんてないです」

その言葉を口にしながら、視線は自然とハンドルを握る安室さんの手元に落ちた。力強く握られたその手。感情を押し殺しているのが、指先からも伝わってくる気がした。

「……なぜ、そんな話を……今?」

低く落とされた声。問いかけというより、自問に近い。私は唇を噛み、わずかに俯く。

「……本当は、もっと早く話すべきだったんです。でも……言えませんでした」

心の奥がひりついた。
記憶をなくした彼に、近づくのが怖かったからだ。けれど──もう、逃げていられない。この崩れかけている物語を、元に修正する必要がある。

「でも、このままじゃ、取り返しのつかないことになる気がして……」

安室さんの視線が、わずかに鋭さを帯びてこちらに注がれる。目が合う。何もかも見透かされそうな、その瞳に。私は、それでも逸らさなかった。

「……私が知っていること、すべてお伝えします。だから、お願いです……。あなたなら、きっと犯人を捕まえられる。だってあなたは、とても優秀な人だから」

そして私は、ひとつ、深く息を吐いた。
思いのすべてを預けるように。

「だから、信じてください」

そう、もう一度、言った。安室さんの目元がわずかに揺れる。張りつめていた空気に、ひびが入ったようだった。

「あなたは一体……」

その瞬間。──パキンッ。
何かが小さく割れる音が、静寂を裂いた。
思わず私は身を強張らせ、周囲を見渡す。けれど、何も割れたものは見当たらない。ガラスでも、器でもない、けれど確かに何かがひび割れたような、異質な音。

「……宮間さん」

その直後、安室さんが私の名前を呼んだ。
今までとは明らかに違った声。低く、張り詰めていて、何かを押し隠しているような響き。

「このまま左折した先に……地下鉄の入り口があります。そこに車を停めます。停めたら、すぐに……っ」

言いかけた言葉が、不意に途切れた。

「……え?」

私が首を傾げたその瞬間だった。
ふっと、運転席から安室さんの身体が傾いてくる。まるで力が抜けたように、重力に引かれるように、私の肩に預けられる体重。

「……あむろ、さん……?」

慌てて顔を覗き込むと、安室さんの額には冷たい汗が滲んでいて、表情は苦痛に歪んでいた。
そしてその右手は──脇腹を強く押さえている。そこから、深い紅がじわじわと滲み出て、白いシャツの裾を濡らしていた。

「な……に…………」

言葉が出なかった。頭の中が真っ白になる感覚。顔を上げて見渡すと、安室さん側の窓にヒビ入った銃痕。

「ま、まさか、撃たれて………?」

どこで?いつ?どうして?誰に?
思考が追いつかない。震える指先で、安室さんの肩を抱え込む。呼吸は荒く、体温が異常に高い。
これは熱じゃない──出血によるものだ。

「だ、だめ……しっかりしてください……っ!」

こんな時に、どうしてこんなことになるの?ようやく向き合おうと決意したのに。話をしようと思った矢先に、こんなかたちで彼の命がこぼれ落ちていくなんて、冗談じゃない。

「安室さん……っ!!」

動揺と焦りに満ちた声が、自分でも信じられないくらい震えていた。

「運転変わります。降りてください…っ、早く……!!」

必死で声を張る。
焦りと恐怖が胸を締めつける。

「このままだと、2人とも死にます!」

私の叫びに応えるように、安室さんは左折すると車を路肩へ寄せた。動作の一つ一つが鈍く、身体が思うように動いていないのが見て取れる。

「後ろへ……!後部座席に……っ」
「あなたはここで降りてください」

その言葉に、耳を疑った。

「え……?」
「…僕を狙って、撃ってきたんです。偶然ではありません。ただの怪我とは、わけが違う。……これ以上、関わらないでください」

まるで、ナイフのようだった。その言葉は、私の胸の奥をざくりと切り裂いていく。

「……っ、そんな……」

──なにを言ってるの、この人は。
目の前で顔色を失い、痛みに耐えながら話す安室さんが、まるで他人のように見えた。

「私がどこに行くっていうんですか……!言いましたよね……!行くところも、知り合いもいないって!」

声が上擦った。悔しさと哀しさと、どうしようもない怒りが、胸の奥から噴き上がってくる。言葉の形をなすだけで涙がこぼれそうになる。
意識が朦朧としてるせい?それとも本気で、私を巻き込みたくないと思ってる?
だとしても──それでも。何が「関わるな」だ。目の前で血を流して、苦しそうにしているのに。大切な人を前にして、どうして見捨てるなんて選択肢が持てるというのか。

「だから……早く……!後ろへ!」

押し殺した嗚咽混じりに声を上げた。
安室さんは一瞬だけ息を飲み、そして力を振り絞るようにドアを開けて外へ出る。私もドアを開け、震える脚で地面を踏みしめ、安室さんの身体を支えた。思っていたよりずっと重く感じたのは、安室さんの力がもうほとんど入っていなかったからだ。

「……っ、すみません……」
「喋らないで…っ、お願いだから……!」

安室さんを後部座席へ押し込むようにして乗せ、ドアを乱暴に閉めた私は、そのまま運転席へ駆け込む。
マニュアル車を運転するのは、免許を取ったとき以来だ。ハンドルを握る手が冷たく、汗で滑る。サイドブレーキを動かすことすら時間がかかる。

「あ……きゅ……救急車……!」

半泣きになりながら思い出し、すぐにスマホを取り出した。震える指がスマホを取り落としそうになりながらも、「1」「1」まで入力したとき──

「待ってください」

鋭く、しかし弱った声が飛んできた。

「……っどうして……!今すぐ呼ばなきゃ…!」
「表立った行動は、できません。……知人を…呼びます。それまで…人目につかないところまで、車を動かしてください…」
「でもっ……!」

かすれたその声は、あまりにも冷静だった。
そんな状態で、まだ自分の立場を気にしなければならないなんて。言葉が見つからない。でも、それが“彼”だってことも、私はよく知ってる。

「……反対車線側のビルから、狙撃されました。建物の前には車が待機していて、仲間が中にいる可能性が高い。……間違いなく、こちらに向かってきます。時間がありません。すぐに移動を」

息も絶え絶えにそう言われ、私は唇を噛んだ。信じたくなかった。こんな状況、受け入れたくない。けれど──
ギアを入れ、アクセルを踏む。ハンドルを握る手が、血が滲むほど力んでいるのがわかった。後部座席から聞こえる浅く苦しい呼吸音が、耳に焼き付く。

「…どこに行けばいいですか?」

信号待ちの一瞬、私は後部座席の安室さんにそう問いかけた。震える声をなんとか押し殺しながら。知人を呼ぶと言っていたのなら、せめて目指すべき場所があるはずだ。そこへ急ごう。無駄な時間は一秒たりとも使いたくない。そんな焦りで頭がいっぱいだった。だが──返事はない。

「……安室さん?」

静かな車内に、その名を呼ぶ自分の声だけが落ちる。私は恐る恐るバックミラーを覗き込む。
その瞬間、視界の奥で、安室さんの身体がゆっくりと崩れ落ちるのが見えた。背もたれに預けていたはずの上半身が、まるで力を失ったように、パタリと倒れる。

「……っ」

胸が凍りつく。

「…あ、あむろさん……!安室さん……!!」

叫びながら、私は急ブレーキをかけた。キィッというタイヤの音が響き、車がわずかに跳ねる。その揺れにも安室さんこ身体はぴくりとも動かない。まるで糸が切れた人形のように、項垂れて、息の気配すら感じられない。

「やだ……っ、やめて……やだ……!」

声にならない嗚咽が喉をふさぐ。目の前がにじんで、視界がぼやける。ただ一つ、脳内で繰り返される言葉。
──死んじゃう。
──このままじゃ、彼が死んじゃう。

「安室さんっ、お願い……っ、返事をしてください……!」

シートベルトを外して後ろを振り返ろうとするが、震える手がうまく動かない。涙が一気にこぼれ落ち、顔が火照る。息も詰まりそうだった。

「どこに行けばいいんですか……!どこに……お願い、教えてください……っ」

頭の中が真っ白だった。思考の糸がすべて切れて、焦りと恐怖が代わりに体中を駆け巡る。心臓が早鐘のように打ち、喉の奥で嗚咽がせり上がってくる。

「お願いだから……まだ、死なないで……っ」

ハンドルに縋るようにしがみつきながら、私は震える足で再びアクセルを深く踏み込んだ。



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