58
そのまま、私は車を走らせた。すっかり陽は落ち、窓の外には夜の街の光がちらちらと流れていく。街の喧騒から離れ、ビルの隙間を抜けるたびに、現実感がどんどん薄れていくようだった。後部座席の気配を、ルームミラー越しに何度も確認する。意識があるのか。呼吸は……まだ続いているのか。胸の奥を何かがぎゅっと締めつける。
ようやく、小さな明かりが目に入った。看板の光に浮かぶ「HOTEL」の文字。ビジネスホテル──選択肢はなかった。人の目に触れず、最低限の設備がある場所。それだけを頼りに、私は車をその建物の地下駐車場へと滑り込ませた。
車を止め、エンジンを切る。後部座席からは、かすかに苦しげな吐息。私は、深く呼吸をし、決意を固めるようにドアを開けた。
エレベーターで一階へ。フロントの男性が目を上げた瞬間、私はできるだけ自然な表情を作るよう努めた。声が掠れていたが、それ以上追及されることはなかった。カードキーを受け取り、心からのお礼を述べると、すぐに駐車場へ駆け戻る。ドアを開け、安室さんの肩を揺すった。
「安室さん……!しっかりしてください。起きられますか?」
安室さんはうめき声を漏らしながらも、ゆっくりと目を開き、痛みに顔をしかめながら上体を起こした。動きは鈍く、右脇腹を押さえる手が震えている。血で染まったシャツの布地が、蛍光灯の光にさえ黒く見えた。
私は安室さんの左手を自分の肩にまわし、支えながらエレベーターへ向かう。誰にも会わないことを祈るしかなかった。体重がのしかかるたびに、安室さんの体温がこちらに伝わってくる──それがあまりにも弱々しくて、ひどく怖くなった。
エレベーターの前でカードキーをかざし、7階を押す。上を向いた瞬間、天井の角に黒く光る防犯カメラが目に入った。
「……前を向いていてください。後ろに、カメラがあります」
その言葉に、安室さんの動きがぴたりと止まった。エレベーターの狭い空間。上昇を告げる数字のカウントアップ音が、妙に遅く感じる。
「……僕たち……以前、どこかで会いましたか?僕のことを……よく知っているような気がして」
唐突に向けられた問いに、胸がひくりと揺れる。けれど、何も答えられない。今は、説明している余裕なんてない。
やがてエレベーターが7階に着き、ベルの音が鳴った。
「……着きました。降りてください」
できるだけ冷静に言ったつもりだったが、声は震えていた。安室さんの体を支えながら、私は廊下へ誘導する。
絨毯敷きの廊下が、靴音を柔らかく吸い込んでいく。照明は穏やかで、こんな状況でなければ落ち着く空間だったかもしれない。
──でも、今は違う。私たちが歩くその先には、もし遅れれば命が尽きてしまうかもしれない“現実”が横たわっている。
「もうすぐです。あと少し、頑張って……」
苦しそうに肩で息をしている安室さんに、何度もそう繰り返した。早く──早く部屋に。
703号室のドア前に着いた瞬間、カードキーを震える指でかざす。うまくいかずに一度失敗し、もう一度ゆっくり差し込みなおすと、ようやく鍵が開いた。
扉を押し開け、安室さんをベッドまで運んだ。崩れ落ちるようにベッドの上に横たわる彼。その姿を確認するや否や、私はすぐにバスルームへ駆け込む。用意されていた白いバスタオルを、両手いっぱいに抱えて戻る。
安室さんのシャツをめくり、傷口にタオルを押し当てる。そのまま、しばらくぐっと力を込めた。
「……どうしよう……っ」
血が、止まらない。新しいタオルを折りたたみ、安室さんの右脇腹に強く押し当てた。真っ白な布が、一瞬で紅に染まっていく。命が、指の隙間からこぼれ落ちていくようだ。こんなことで、彼を失いたくない。
嗚咽が込み上げてくる。そのときだった。
「……なぜ、泣くのですか?」
消え入りそうな声が、空気を震わせた。
「泣く理由は?僕が……死ぬから……?」
安室さんの声に、喉が詰まった。
そんなこと、言わないで。
私は叫ぶように言葉を返す。
「っ……死にません!!それに……泣いてません……!」
でも、両目からはもうどうしようもなく、涙が溢れ出す。滲む視界の奥で、安室さんが微かに目を細めた気がした。けれど、それもすぐに閉じられる。私は必死に、タオルで血を押さえ続ける手を止めなかった。
このままじゃだめだ。
私は、胸の奥で静かにそう呟いた。止血に使ったタオルはもう真っ赤に染まり、次々と新しいものに取り替えても、出血はなかなか収まらない。部屋には医療器具も、薬も、何もない。こんな状態で救急車を呼ぶわけにもいかず、外に出て買いに行く時間もない。
──なら、方法は一つ。現実へ戻って、持ってくるしかない。息を呑み、私は決意を固めた。
「……ここは、どこですか……?」
「ビジネスホテルです。人目につきにくい場所だけど……ここも、いつまでも安全じゃないと思います」
私はタオルを交換しながら答えた。にじむ血を見ていると、焦りが喉元までせり上がってくる。震える手で安室さんのズボンのポケットに手を伸ばし、スマートフォンを取り出すと、それを差し出した。
「……早く。現在地を、風見さんに連絡してください」
安室さんは驚いたように、息を呑む。その視線には、明らかな戸惑いと警戒が浮かんでいた。
「何をどう解決すればいいか……私が調べます。何か大変なことが起きているみたいですが、今は私にも分かりません。このままずっとここにいるのは危険だし、あなたを治療するには薬も必要です」
一気に言葉を吐き出す。声は震えていたけれど、気持ちははっきりしていた。
「……だから、私が、ここから出て助けます。あなたは、少しだけ……一人で耐えてください」
「宮間さん」
「少しの間だけです。待っててください」
遮るように言葉を重ねる。覚悟だけは、もう固まっていた。
安室さんは、苦しげな息のまま、私をじっと見ていた。体を動かすこともままならないはずなのに、眼差しだけは鋭く、そして深く、私を刺してくる。
「……僕はずっと、あなたの話していることが理解できません。なぜ風見の名前を……?何の話をしているんですか。……僕をどう助けると?」
胸の奥が、静かに痛んだ。
安室さんの声は、私の迷いを鋭く切り裂く。“助ける”なんて簡単に言ったけれど、本当は私だって分からない。何が正解なのか、どこに向かえばいいのか、自信なんてどこにもなかった。
それでも──答えなければならない。私にできる言葉を、今、差し出さなければ。
「……私は……」
声が震えた。苦しかった。想いが大きすぎて、どこから出せばいいか分からなかった。
「……私は、安室さんのハッピーエンドを願っているんです」
気づけば、それだけが口からこぼれていた。
しんと、空気が凍ったような沈黙が落ちる。それは真実だった。何度も繰り返し唱えてきた言葉。でも今、それを聞いた安室さんの目に浮かんだのは、深い戸惑いと困惑──それでも、どこかに揺れる“感情”のようなもの。
「だから……別れたんです」
安室さんの目が、私の首元へゆっくりと落ちる。それに気づいて、私もつられて視線を下ろす。
──細いチェーンの先に揺れる、指輪。安室さんの視線がそれに止まり、わずかに見開かれた。
「……宮間さん。あなたは、一体……誰ですか……?」
低く、けれど確かに響いた声が、胸の奥で静かに反響する。私は、唇をきゅっと引き結んだ。答えなければならないとわかっていても、声にならなかった。
違う──今は、その答えじゃない。今この瞬間、彼に必要なのは“事実”ではなく、“生き延びること”だ。だから、私は目をそらさずに安室さんを見つめ返した。
「……私、ここから、絶対に出なきゃいけないんです」
言葉が少し震えた。でも、どんなに怖くても、ここで引くわけにはいかない。私は息を吸い、わずかにかがんだ。そして。
「だから……これが、効くといいんですけど」
──そっと、唇を安室さんに重ねた。
あたたかい感触。優しさと、痛みと、願いを乗せた一瞬の接触。涙が頬を滑り落ちる。どうか、伝わって。安室さんの目が、驚きに見開かれたまま、動かない。
私はそっと離れ、息を詰めた。この感情が、彼の心を少しでも揺らしてくれたなら──心の奥で、祈るように呟きながら、バスルームへ駆け込んだ。
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