59
ゆっくりと瞼を開けると、見慣れた景色が広がっていた。簡易的な二段ベッドと、木目調の机。壁際のロッカー、畳まれた白衣。東京大学病院の仮眠室──私の、現実の職場だ。
濡れた目元を手の甲で乱暴にこすりながら、あたりを見渡す。時計は、夜10時を回ったばかり。部屋の外から聞こえる音はほとんどなく、病院全体が眠っているような静けさが漂っていた。あれから──せいぜい一時間も経っていない。
「……っ……」
私は反射的に唇に手をやった。その瞬間、全身を電流が走る焦り。パタパタと靴の音を響かせながら、レジデント室の扉を飛び出した。
無人の廊下を駆け、薬品保管室へ向かう。職員用カードを通し、慎重に中へ入る。夜間で人の気配がないのが、幸いだった。
「……消毒液、止血パッド、鎮痛剤……」
棚を開け、引き出しをひとつずつ探っていく。使い慣れた配置の中で、必要なものを迷わずピックアップしていく。その動作のひとつひとつに、安室さんの顔がよぎった。汗に濡れた額。痛みに揺れるまなざし。かすれるような声。
──死なせない。バッグに薬と備品を詰め込むと、私は廊下を駆け抜けて病院を出た。
外の空気は冷たく、冷え切っている。手の中に汗が滲むバッグを握りしめて、一台のタクシーを捕まえた。住所を告げて、ドアを閉める。行き先は──父の家。現実が、安室さんの命とは無関係に、何事もなかったかのように回っている。その事実が、やけに残酷だった。
*
父の家に着いたのは、それから15分後だった。
「お父さん!」
玄関の扉を開け、中に入る。しかし、真っ暗な室内。居間にも、作業部屋にも、寝室にも、人の気配はない。
キッチンに入った瞬間、鼻をつく焦げた匂いに顔をしかめた。コンロの上にかけられたままのポットが、音を立てて煮立っている。慌てて火を止め、辺りを見回した。何かあったの?どうしてこんな……?震える手でスマートフォンを取り出し、父の番号を押す。
しかし、すぐ近くから着信音が鳴り響いた。
「作業部屋……?」
机の上に、無造作に置かれた父のスマホが震えていた。胸の奥が冷たくなり、嫌な予感が背筋を這う。私はすぐに天沢くんの番号を呼び出した。
『…もしもし、りかさん?』
「あ、天沢くん…!お父さんどこにいるか知らない!?」
声が震える。天沢くんは一瞬、戸惑ったような間を置いた。
『……えっ?さあ、知らないですけど』
「家に来たんだけど、キッチンの火がついたままで、携帯も置きっぱなしなの。おかしいよね?何かあったんじゃないかって…」
キッチンに目を戻す。さっきまでゴウゴウと火に晒されていたポットから、まだ湯気が上がっている。テーブルの上にはマグカップと半分開いた新聞。
そして、作業部屋にはスマートフォンが、うつ伏せで置かれている。まるで、すべてを途中で放り出して、どこかへ消えたみたいだ。
『……ほ、本当ですか?』
天沢くん声がわずかに震えた。
「うん……だって、これって……前と同じだよ」
そうだ。あの時も、父が忽然といなくなった。
理由もわからず、どこにいるのかも分からず……その日を境に、コナンの物語は崩れ始めた。
『僕も……探してみます。すぐに』
電話が切れた後、私はその場に立ち尽くしたまま、液晶タブレットの置かれた机に目をやった。
──安室さんを救うため、父に絵を描いてもらうつもりだった。素人の私が描くよりも、圧倒的に速く描ける。けれど、もうそんなことを言ってる時間はないのかもしれない。
私は静かに机に座り、タブレットのペンを手に取った。震える指で、電源を入れる。目の前の液晶に、まっさらなキャンバスが広がる。
──もう、迷っている時間はない。
「……私が描くしか、ない」
唇を噛みしめながら、手を動かしはじめた。机の上に並べられた薬や器具を一つひとつ視線で確認し、それを“あの世界”へと送り届けるために、丁寧に描き写していく。
抗生剤、注射器、消毒液、ステイプラー、ピンセット。血のついたタオルの代わりに、新しい清潔なガーゼと包帯──それらを、安室さんが横たわるベッドの脇の小机の上に配置するように、慎重にペンを動かす。息を吐いて、そして手紙を書き始める。画面の中に、文字が浮かび上がっていった。
__
安室さんへ
意識をしっかり保ってください。
私は今すぐにそちらには行けません。
なので、あなた自身の手で、治療をする必要があります。
机の上にある抗生剤を、まず注射してください。
必ず静脈注射で。
それが終わったら、傷口を消毒してください。
さっき見たとき、銃弾は深く入り込んでいました。
ですが、どんなに痛くても、ピンセットで必ず取り出してください。
そのあと、ステイプラーでしっかりと傷口を閉じて。
そうすれば、応急処置としては十分なはずです。
あなたならできます。
必ず、生き延びてください。
__
描き終えた文字に、ふっと力が抜けそうになる。だが、終わりではない。いや、ここからが本番だ。
タブレットの画面を切り替え、ホテルの部屋の内部、廊下、エレベーター、駐車場までの一連の空間を表示させる。そこに描かれていた血の跡、防犯カメラ、ロビーの受付スタッフの視線──すべてを順に、消しゴムツールで丁寧に消していく。
まるで「はじめから存在しなかった」かのように、痕跡を拭い去っていく作業。虚構の上書き。それが今、彼を守るためにできる、唯一の方法だった。
最後にもう一度だけ、安室さんのベッドに描いたすべてを見返す。息を呑み、少しだけ唇が震えた。
──これで、伝わるといい。助かって。
その瞬間だった。
『……お前、誰だ?』
息が止まった。心臓が、一瞬で喉まで競り上がる。振り返る暇もなく、手元のペンがカランと床に落ちた。
「だ、だれ……?」
低く、くぐもった男の声。耳元で囁かれたような近さなのに、どこから響いているのかまったくわからない。なのに、確かに聞こえたそれは、“音”というより、“存在”そのものの気配。
恐る恐る振り返るが、部屋には誰もいない。窓も閉まっている。玄関の鍵もかかったまま。でも、確かに聞こえた。気のせいなんかじゃない。
その瞬間、今まで夢中で描いていたタブレットの画面が、奥に太陽でもあるかのように、異常なまでに眩しく白く輝き始めた。
「なに……これ……?」
視界が白に包まれ、瞳孔が痛い。
思わずまぶたを閉じ、手で目を庇う。
『お前、宮間りかか?…いつ戻った?』
心臓が、止まった気がした。
──その声。その口調。あのとき、銃口を向けられたときの口調とまったく同じ。寒気が全身を駆け抜け、恐怖が、喉を締めつける。
──やばい、逃げなきゃ。体が直感的にそう叫んでいた。けれど、次の瞬間にはもう、タブレットの画面から、黒い“腕”が伸びていた。
「っ……!」
信じられない光景だった。液晶の画面を破って、現実のこちら側に飛び出してくる、影のような両腕。それが、容赦なく私の首元に巻きついた。
「く……ぁ……!」
喉が潰され、空気が入らない。肺がきしむように痛む。私は両手でその腕を引き剥がそうとした。けれど、指は空を掴むように虚しく滑り、力がまるで通じない。
だめ──息が、できない──。目の前がぐにゃりと歪む。ただ、苦しくて、苦しくて──
必死で指先をタブレットの縁へと伸ばす。震える手が、やっとの思いで電源ボタンに触れた。力を込めて、思い切り押し込む。
「ッ……!」
──バチッ!
音がして、瞬間、世界が反転した。タブレットの光がふっと消えたのと同時に、首を締めていた圧力がふわりと消えた。崩れるように床に倒れ込み、大きく息を吸う。
「げほっ…げほっ、はっ……!」
咳が止まらない。
苦しさに、頬に涙が伝う。
「はぁっ、はぁっ……」
しばらくその場から動けなかった。声も、息も、意識さえまともに保てない。
ただ一つ、分かったことがある。
──あの“男”は、あの犯人は、私のことを覚えている。私の名を口にして、確実に、追ってきているということ。
「……りかさん……!いますか……?りかさん……!」
その時、遠く、呼ばれる声がした。誰かが、自分の名を繰り返し呼んでいる。──天沢くんだ。
どこか現実から遠ざかっていた意識が、微かな声の震えに引き戻されていく。瞼をゆっくりと持ち上げたとき、ガチャリ、と重たく軋む音とともに作業部屋のドアが開いた。
「……りかさんっ!」
扉の隙間から差し込んできた光の中に、天沢くんの姿が現れる。彼の視線が、床に座り込んだままの私を見つけ、途端に瞳を見開いた。
「大丈夫ですか!?一体なにが……!」
天沢くんは慌てて駆け寄ってくると、床にへたり込む私の肩に手を添える。心配そうに何度も瞬きを繰り返しながら、私の様子を確かめようとしていた。
「……あれから、電話が繋がらなくて……心配して来てみたら……一体、何があったんですか……!」
その瞬間、天沢くんの視線が、私の首元に降りてきて、表情が一変した。
「……首……怪我してますよ!?血が……!一体、なにが……!?」
言葉の端が震えていた。
私の首筋には、先ほど締めつけられた赤い痕がくっきりと残っていたのだろう。小さく咳き込み、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……私も、よく分からない……。さっき……画面の中から、犯人が……私の首を……」
なんとか、そこまで口にしたときだった。
「……っ、は……!」
天沢くんが、大きく息を呑んだ。真っ青になった顔で、彼はその場に崩れ落ち、私の隣に尻餅をつく。
「……まさか……また、犯人が……暴走を……?」
か細く絞り出すように尋ねる天沢くんに、私はゆっくりと頷いた。
「そう、みたい……。お父さんがいなくなったのも……きっと、それと関係してる……気がする……」
言いながら、胸の奥に冷たいものが這い寄る。あのときと同じだ。何かがまた、確実に動き出してしまった。
「だから……私……また全部、夢に描き変えようとしたの」
ぽつりと呟いた言葉に、天沢くんが食い気味に返した。
「そ、それがいいです…!それが一番いい…!いっそ、もっと前に戻しちゃえばいいんですよ…!犯人が、生まれる前に…!」
「……うん。でも……」
そこまで言いかけて、私はタブレットを見上げた。画面の中にはもう何も映っていない。ただの電子機器。それでも、恐怖は消えてくれなかった。
「……もしまた……犯人が……この電源が入るのを待ってたら……?また……首を絞められるかもしれない……」
手が震える。喉の奥がひくつく。
気づけば、目元に熱いものが滲んでいた。
「……怖くて……もう何も描けない……。どうしよう、天沢くん……っ……」
堪えきれず、声が震え、涙があふれた。あと一歩だった。あと少しで、安室さんの命を救えるはずだったのに。なのにまた、私は追いつけなかった。この手で、もう一度彼を救わなければならないのに。
「で、でも、じゃあ、どうします!?」
静かな声が降ってきた。顔を上げる。
天沢くんがそう言ったのは分かったのに──その姿が、ふいに、滲んだ。
涙で霞んだわけじゃない。そこにいたはずの天沢くんの輪郭が、ゆらりと揺れ、透けていくようだった。
「天沢……くん……?」
声にならないほどの困惑。身体がふわりと宙に浮くような感覚に囚われる。何かが、確実に崩れている。世界の境界が、溶けていく。
もう一度、天沢くんの名前を呼ぼうとしたが、唇は動かない。
意識が遠のく直前、タブレットの画面が一瞬だけ、ふたたび淡く光を放った。
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