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──目を開けた瞬間、視界を包んだのは、薄暗い天井だった。空調の低い唸りだけが響く静寂な空間。何が起きたのか、すぐにはわからなかった。身体を起こすと、自分が長方形の無機質な部屋に立っていることに気づいた。無駄のない机と、壁に掛けられたホワイトボード。蛍光灯の明かりは半分ほどしか灯っておらず、まるで深夜の会議室のような雰囲気だった。

「宮間りか?……それは誰だ?一体何者なんだ」

低い男の声がどこかから聞こえた。反射的にしゃがみ込む。机の影に身体を押し込めながら、ゆっくりと顔だけを覗かせた。
スーツ姿の男たちが数人、資料をテーブルに広げて、真剣な表情で言葉を交わしている。

「降谷さんと一緒にいた?本当か?」
「その女を探し出せ。きっと、それが降谷さんの手がかりになるはずだ」

心臓が跳ねる。──私のことだ。安室さんと一緒にいた女として、彼らの捜査対象になっている。額から冷や汗が垂れた。とにかく、ここにいてはいけない。気づかれたら終わりだ。
しゃがんだまま、そろり、そろりと足を引きずるようにして、ドアへと近づいていく。息を殺し、足音を立てないように細心の注意を払って。ようやくドアノブに手が届いた。だが──。

ガチャリ。
静寂を切り裂く音が、無情にも鳴り響いた。

「……誰だ!?」

怒声と共に椅子が引かれる音。反射的に立ち上がった私は、声の主など振り返る余裕もなく、勢いよくドアを開けて飛び出した。廊下に出た瞬間、目に飛び込んできたのは制服姿の警察官たち。あちらこちらに立っていて、こちらを見て一斉に振り返る。
──やばい。直感が警鐘を鳴らす。私は身を翻し、すぐ脇にあった非常階段へ飛び込んだ。鉄の階段を駆け下りるたび、全身に響く振動。息を切らしながら、手すりを掴み、足をもつれさせそうになりながらも一階へたどり着くと、そのまま外へ飛び出した。

夜風が肌を打った。都市のビル群に囲まれたその場所──見上げた建物のガラスに、薄く反射する「警視庁本部庁舎」の文字。
──私……今、警視庁の中にいた……?喉の奥から冷たいものがこみあげてくる。なんで?なんで私が?走りながら、思考がめちゃくちゃに回転する。
彼らが私を“捜していた”から、私はそこへ引き込まれた?じゃあ、もしかして──前回、あの救急外来に突然引き込まれたのも、誰かが私を探していたから?

「……そんな……」

寒気が背筋を這い上がる。今までの法則が崩れている。以前は、安室さんが私を想ったときだけ、この世界へ引き込まれていた。けれど、今回は違う。安室さん以外の“誰かの意識”で、私はこの世界に引き込まれてしまった。
とりあえず、走り続ける。自分自身の存在に対する根源的な疑問が押し寄せてくる。
ふと、目の端にコンビニだが目に入った。とにかく、隠れよう。私はそのままガラスのドアに体をぶつけるようにして店内へ飛び込んだ。冷たい空気がぶわりと顔にかかる。

明るすぎる店内の光に目がくらみながらも、棚の影に身を沈めた。気づかれた?ここまで追ってくるだろうか。肩で息をしながら、私はしばらくコンビニの棚の陰にしゃがみ込んでいた。
ようやく呼吸が落ち着いてきたころ、何もないと悟り、立ち上がってレジの男性店員に近づいた。

「……すみません。今日は……何月何日ですか?」

店員は、袋詰めの手を止め、不思議そうにこちらを見た。安室さんから借りていたスマホを、あのホテルに置いてきてしまったせいで、時間を確認することも、彼に連絡を取ることもできない。

「え?……8月22日、ですけど……」
「……ありがとうございます。あの、今は何時ですか?」
「ええと……21時ちょうど、です」

答える彼の目が、やや戸惑いを含んでいたのに気づいたが、私はそれに気づかないふりをして、会釈だけして店を出た。湿った夜風が頬を撫でる。
──21時。ということは、あれから2時間も経っていない。まだ間に合う。まだ、あのホテルに安室さんがいるかもしれない。

「急がなきゃ……」

小さく呟いて、私は駆け出した。夜の街を駆け抜け、横断歩道の前で信号に引っかかったときだった。視線を前方に向けたその瞬間──目を疑った。
前を走る車、行き交う人の姿が──早送りの映像のように、ものすごい速度で過ぎ去っていく。朝になったかと思えば、またすぐに夜になり、何度も何度も陽が昇り沈む。世界が、狂ったみたいに回っていた。

「………え?」

混乱のまま、公園にある屋外時計を見た。
針が、ぐるぐると狂ったように回っている。まるで世界の時間が、一人私を取り残して暴走しているかのようだった。
──以前も、こんなことがあった。安室さんが入院していた時、私の目の前で二ヶ月もの時間がすっ飛んでしまった。私がこの世界で、漫画の主要人物に関わらずにいたからだ。必要のない時間が、勝手に進んでしまった、あの現象。

「……まさか……」

はっとして空を見上げた瞬間、まるでスイッチが切り替わったように──世界が止まった。明け方の光が、空の端を染めている。
胸の奥がざわついたまま、私は再びさっきのコンビニへと戻った。ドアを開けると、明るい店内には先ほどと違う、女性の店員が立っていた。

「いらっしゃいませー」

機械的に発せられたその声に、私はレジまで歩み寄り、再び訊ねた。

「すみません……今日は、何月何日ですか?」

店員の女性は怪訝そうに首を傾げた。

「……今日?9月22日ですけど?」
「え……」

足元が崩れたような衝撃が、身体中を駆け抜けた。お礼もそこそこに、私はドアを押し開けてフラフラと外へ出る。
もう1ヶ月も経ってしまったなんて。どうしよう。

「安室さん……!」

ハッとして声が漏れた瞬間、全身の血が凍った。彼は、あのホテルで……あの状態で……。時間が経てば、どうなってしまうかなんて、わかりきっている。
すぐに視界に入ったタクシーを止めた。

「4丁目を左折した先にあるビジネスホテルまでお願いします!」

私の焦った様子に、運転手が慌ててうなずく。
車内で揺られながら、私は手の甲を握りしめた。心臓が早鐘を打ち、呼吸がうまくできない。安室さんの顔が、あのときの血の色が、脳裏から離れなかった。

ホテルに着くと、急いでフロントを通り抜け、エレベーターに飛び乗って7階を押した。
そして扉が開いた瞬間、私は走り出した。703号室の前にたどり着くと、何度も扉を叩いた。

「安室さん…!安室さんいますか?いるなら返事をしてください…!無事ですか……っ?」

声が震える。返事はない。ただ、扉の向こうに広がる無音が、答えだった。力が抜けて、その場にしゃがみ込む。
──遅かった。胸が、音を立てて崩れていきそうだった。
しばらく、私はただ、ドアの前に座り込んでいた。膝を抱え、肩を小さく震わせる。時間が、あまりにも残酷に流れていたことに、まだ現実味が持てなかった。

「……っ……」

しかし、思い直すと、私はゆっくりと立ち上がった。まだ、諦めるのは早い。
まだ、確認することがある。












喫茶ポアロの扉を押したのは、その少しあとだった。ドアベルが軽やかな音を響かせる。ここに足を踏み入れるのは初めてだったのに、どこか懐かしささえ感じた。
焙煎した豆の香りと、どこか穏やかな空気の流れ。目の前のカウンターの奥で、セミロングの髪をふわりと分けた女性が、こちらに気づいて微笑んだ。

「いらっしゃいませ」

優しい声。一瞬、肩の力が抜けそうになった。でも、今日ここに来たのは、ただ癒されるためじゃない。私は深く息を吸い、静かに口を開いた。

「……あの、今日……安室さんは、出勤されてますか?」

私の問いに、女性──榎本梓さんは、一拍置いてから少しだけ表情を曇らせた。その小さな変化に、胸が嫌な音を立てて鳴る。

「安室さん……それが、この1ヶ月ずっとお休みでして」
「……えっ」

瞬間、世界がぐらりと傾いたように感じた。冷たい何かが背筋を走り、血の気がすっと引いていくのが分かる。指先が震え、言葉を継ごうとしても、うまく出てこない。

「……ありがとう、ございます」

ようやく絞り出した声。お礼もそこそこに頭を下げる動作さえぎこちなく、私は半ば逃げ出すようにして、喫茶ポアロをあとにした。梓さんはまだなにかを言いたげにしていたけれど、扉のベルが背中で鳴る。そのまま思い立ったように、私は最後の希望へと再び走り出した。



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