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長い道を走るバスの窓から、柔らかな昼の光が差し込んでいた。揺れる車内。都会の喧騒から離れ、どこか懐かしい田園風景へと変わっていく。外の景色をぼんやり眺めながら、私は膝の上で一枚の紙をそっと握りしめていた。
"
そう書かれた、風見さんから手渡されたメモ。警視庁から電車とバスを乗り継いで、およそ二時間。彼がいるなら、どこへでも行けた。
バスに揺られるうちに、目の奥がずきずきと痛み出す。さっき、風見さんの前で泣き崩れてしまったせいだ。ここ最近、泣いてばかりな気がする。気づけば、頬を伝う風すら沁みるように思えた。
《次は、本宿役場前〜、本宿役場前です》
車内のアナウンスが流れた瞬間、私は慌てて席を立ち、近くの降車ボタンを押す。揺れる車体に足元を取られながら、扉の前へ向かい、ICカードを読み取り機にタッチした。電子音とともに“残高10円”の表示が出る。
これで最後だ。安室さんに渡されたカード。ホテルに行くのにタクシーを乗り継いだり、ポアロに行ったり。──もう戻れない。帰りの分など、最初から考えてもいなかった。
バスが静かに停まり、ドアが開く。そこは、山間の町だった。空は高く澄んで、空気には土と緑の匂いが混じっている。見渡せば、平屋の民家と郵便局らしき建物がぽつぽつと並んでいて、遠くで犬が鳴いていた。車通りもほとんどなく、時間だけがゆるやかに流れているような、そんな場所だった。
バス停のベンチには、品のよいおばあさんが一人、荷物を膝に抱えて腰掛けていた。
「……すみません。ここって、本宿役場前で合ってますか?」
緊張した声が、喉の奥でかすれる。おばあさんは顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべてうなずいた。
「ええ、間違いありませんよ。ようこそ、いらっしゃい」
その言葉に、肩の力が抜けるように、ほっと息をついた。お礼を告げて、私は隣の空いたスペースに腰を下ろす。少し高台になったバス停からは、町の向こうに連なる山並みが見えた。風が、肌を撫でて通り過ぎていく。──気持ちいい。
安室さんは、来てくれる。きっと。そう信じていた。けれど──いくら待っても、待っても、現れない。
日が傾きはじめる。おばあさんもとっくにいなくなって、私はずっと、ベンチの上で膝を抱えていた。スマホも持っていないし、何もできない。ただ、じっと待つしかない。
──どうして、来ないの?
不安が、胸の奥に小さな黒い渦を作り始めた。もしかして、風見さんが嘘をついたんじゃないか。彼は生きているって言ってたけど、それは私を安心させるためだけだったんじゃないか。あのホテルでもう──いなくなってしまってたのに。最悪の想像が、頭の中で止まらなかった。
「……ちがう……」
そう呟いて、頭を抱える。喉の奥がまた、泣きそうになる。ベンチの端にうずくまるようにして、私は小さく身体を丸めた。ぐらぐらと、何かが揺らぐ。そのとき──
「宮間さん」
優しく、そして確かに耳に届いた声に、心臓が跳ねた。がばりと顔を上げる。視線の先、バス停のすぐ目の前に、一台の車が静かに停まっていた。窓がゆっくりと開く。
「……乗ってください」
黒いキャップを目深に被った彼が、助手席越しにこちらを見て微笑んでいた。
──安室さん。まぼろしなんじゃないかと、思った。けれど、その目は、間違いなく私を捉えていて。夢でも幻でもない、確かな“彼”の姿。声も、目も、笑い方も、すべてが知っているそのまま。
私は震える足で立ち上がり、おそるおそる車の助手席へと乗り込む。ドアが静かに閉まり、エンジンが再び唸りを上げると、車はゆっくりと動き出した。
車内には、静けさだけが満ちていた。窓の外では、山あいの町の風景がゆっくりと後ろへ流れていく。草の匂い。夕日に染まる空。けれど、心はどこか、そこに追いついていかない。
「嬉しいですね。……久しぶりにお会いできて」
しばらく無言のまま走り続けていたが、不意に、運転席から柔らかな声が落ちた。
「……今まで、どうされてましたか?」
安室さんは、前を向いたまま淡く笑っている。私は何も返せなかった。あまりにも現実味がなさすぎて、何をどう答えればいいのか分からない。そんな私の沈黙に、安室さんは少しだけ横目で視線を向けた。
「……何でもいいので、話してください。黙っていられると、かえって不安になります」
優しく微笑みながら、どこか私の沈黙を抱きとめてくれるような声。それに絆されて、ほんの少し、口を開く。
「……死んだと……思いました」
ぽつりと、胸の奥にたまっていた不安のかたまり。ようやく絞り出した言葉に、安室さんがふっと息を漏らした。
「まさか。あなたがあんなに詳細に治療法を教えてくださったのに」
そう言って、安室さんは少し笑った。
私は、肩の力がふっと抜けるのを感じた。あの薬と手紙……ちゃんと届いていた。意味があった。私の描いたものが、彼の命を救った。その事実が、じわじわと胸の奥に沁みてきて、知らず知らずのうちに胸が安堵に包まれていく。
「ホテルの部屋を出たとき、血痕や防犯カメラの映像もすべて消えていました。あれも……あなたの仕業ですか?」
穏やかに問いかけられたその声に、私は何も返せなかった。安室さんにとっては説明のつかない現象。──ここが、漫画の世界だから。そう言えるわけもなく、ただ静かに目を伏せることしかできない。
返事の代わりに続いた沈黙に、安室さんは少し息を吐いてハンドルを持ち替える。さらりと話題を変えた。
「…ここまで来るの、大変でしたよね。人目につく場所は避けたかったので、こちらまでお願いしました。……待たせてしまいましたか?」
「いえ……大丈夫です」
自然にそう答えていた。大変どころか、ここまでの道のりがどれだけ苦しくても、迷わず来ていたと思う。どんなに遠くても、夜明け前でも、雨が降っていても――安室さんがそこにいると知っていたら、私はきっと走ってでも向かっていた。生きている彼に会えるなら、それだけで十分だった。
「ちょうど一ヶ月ぶりですね。解決策を考えると言っていたので、てっきりすぐに現れるのかと思っていました」
「……すみません、事情が……あって…」
その言葉に、胸がズキリと痛む。本当は、すぐに戻るつもりだった。でも、時間は無情にも流れ、私の目の前でひと月という現実を置いていってしまった。
「その言葉に、実は少し期待していたんですけどね」
安室さんは冗談めかして言っていたけれど、その笑みの奥には、微かに失望が滲んでいる。本当に、期待してくれていのかもしれない。私がまた現れて、何とかしてくれると──。
「この一ヶ月、ずっと考えていました。……彼女は、一体何者なんだろうと」
安室さんの声は、まるで独り言のように低く静かだった。運転中の視線は前を向いたまま、けれど言葉だけがぽつりぽつりと、落ちてくる。
「なぜ、僕の生死を、そこまで気にする?」
「内調の人間か?」
「犯人と……知り合い?」
一瞬、間が空いた。
そして、少しだけ息を飲むような静けさのあと。
「……まさか、犯人の──娘?」
その言葉に、私はぎゅっと肩を強張らせた。なぜ、それを口にしたのか。偶然にしては鋭すぎる問いに、思わず顔を上げた。安室さんの横顔が、静かにこちらを向いている。私は言葉を探しながら、喉の奥で何度も詰まった息を押し出した。
「なぜ今、僕に会いに来てくださったのですか?」
静かな問い。
でも、逃げ道のないまっすぐさで胸に届く。
「……ずっと……心配で……。置き去りにしたことが、気がかりだったんです……」
本当のことを答えた。言葉にするだけで、涙がこみ上げそうになる。──あの時の、自分の判断が間違えていたら。そんな“もしも”が、未だに頭を離れない。
ハンドルを握る安室さんの指が、わずかに力を込めるのが視界に映った。すぐに何も言わなかったけれど、その沈黙が、なぜだか少しだけ居心地悪くなる。
「そういえば、あなたの“ご主人”は、まだ戻っていないのですか?……あの時のキスは、彼への不満から?それとも……、僕がその人に似ていたからですか?」
突然、思い出したかのように投げかけられた言葉。前を向いたまま、表情ひとつ変えずに紡がれたその問いかけは、あまりに平静で、あまりに残酷だった。まるで、乾きかけた傷口を、再び鋭利な刃でなぞられた気分だ。
──けれど、たぶん、わざとだろう。安室さんは私の反応を見て、どこまでを冗談で流せるのか探っている。だからこそ、痛い。
「……そんな……ひどいです……」
それ以外に返せる言葉が浮かばなかった。安室さんは、しばし沈黙のあと、ふっと息を吐くように苦笑いした。
「……すみません。少し、意地が悪かったですね」
そう言ってハンドルをゆるやかに切る。カーブに差しかかる夕陽が、斜めにフロントガラスを染めた。暖かく、それでいてどこか哀しげなその色に包まれながら、安室さんの横顔が静かに浮かび上がる。
「夕飯、まだですよね?どこかで食材を買ってから、戻りましょう」
空気を変えるかのような、落ち着いた声。ちらりと横目でこちらを見て、穏やかに笑うその表情が、胸に刺さった。
「宮間さん、行く当てがないんですよね?お金もなければ、知り合いもいない……でしたよね?」
「……そうです」
「命の恩人なので、僕が責任を持ちます。安心してください」
空気がゆるやかに和らいでいくのが分かる。
ありがとう、なんて言えなかった。私はただ、黙って、助手席の窓から夕暮れの景色を見つめる。白いスポーツカーは、あたたかいオレンジ色の光の中を、静かに走っていた。
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