63


車を降りると、目の前にはこぢんまりとした商店街が広がっていた。夜の帳がすっかり下り、空には無数の星が浮かんでいる。都心のようにまぶしいネオンはないけれど、そのぶん空気が澄んでいて、心地良い。
静かな通りを、二人で肩を並べて歩く。ときおり、軒先の明かりが歩道を柔らかく照らしていた。遠くで虫の音が聞こえる。人通りは少なく、まるで時間の流れだけがふわりとそこに在るような、穏やかな空間。

「そういえば……宮間さん、着替えもないのでしたね」

歩きながら、不意に安室さんが口を開いた。

「一ヶ月前と、同じブラウスですよね。先に服を買いに行きましょう」
「……だ、大丈夫です」
「いえ。どうしても買ってあげたいんです」

その言葉に、思わずぴたりと足が止まる。安室さんは少しだけ目を細めた。どこか困ったような、でも優しい表情。私は返す言葉が見つからなかった。口を開きかけて閉じ、そのまま黙って歩を進める。
商店街の中ほどまで来たとき、小さな洋服店の前で安室さんが立ち止まった。レトロな木の看板と、小さなショーウィンドウ。飾られている服たちはどれもどこか懐かしく、手作りの温もりを感じさせるものばかりだった。

「……ここ、入ってみましょうか」
「あ……」

そう言うと、安室さんはごく自然な動作で、私の手をそっと引いた。驚いて息を呑む。
そのまま引かれて店内に入ると、中は薄明るく、木の棚や籐のカゴ、ハンガーに飾られたジャケットやブラウスが並んでいた。足元の床には、きしむような音がほんの少しだけ響く。どこを見ても可愛らしくて、どこか懐かしくて、胸がふわっと温かくなる空間だった。
安室さんは無言のまま、ハンガーを指でかき分けていたが、やがて一着のワンピースを手に取って、私の前に差し出す。

「これなんて、どうですか?」

差し出されたそれは、アイボリーのレース生地のワンピースだった。ウエストにポイントがあり、裾に向かってやわらかく広がっている。体のラインを拾いすぎず、着る人をやさしく包み込んでくれそうな、そんな一着。
──かわいい。自然とその布地の袖をそっと握っていた。

「……決まりですね」
「あ、いや……」
「僕は顔を見られるとまずいので」

安室さんはそう言って、私の手に5000円札をそっと握らせた。

「これで、お会計、お願いしていいですか?」
「……わ、悪いです……っあ、」

買ってもらおうだなんて、最初はまったく考えていなかったのに。安室さんに背中を押されてレジの前に立つ。店員に優しく迎えられ、逃げ場を失った私は、商品に値札がついていないことに気づいて、控えめに声をかけた。

「すみません、これ……いくらですか?」

レジにいた女性が顔を上げ、にっこりと笑う。

「これねえ、4800円だけど……お嬢ちゃん、きれいだから4000円にまけといてあげるよ」
「えっ……あ、ありがとうございます……」

言葉を返しながら、思わず後ろを振り返った。けれど、安室さんの姿はどこにもない。お店を出て、少し離れた場所で待っているのかもしれない。
…以前買ってもらった、8万円のワンピースと比べれば安上がりだけど、たとえ値段は違っても、申し訳なさが消えるわけじゃない。たった数千円でも、自分で払えないものは重い。こうして、また安室さんに頼ってしまう自分が情けなくて、少しだけ視線を落とした。

「はい、どうぞ。お釣りと袋」

そう言って、ワンピースの入った紙袋と、1000円札を手渡される。受け取ったその瞬間、レジのその女性が何気ない声で尋ねてきた。

「さっきの兄ちゃん……旦那さんかい?」
「え……?」

思わず首を傾げると、彼女は私の首元をちらりと見て、にっこり笑った。

「ほら、首に結婚指輪がかかってるから。顔は帽子で見えなかったけど、背が高くてスラッとしてて……かっこいいねえ。お似合いだよ、二人」
「あっ……ありがとうございます……」

否定する言葉が出てこなかった。この場に安室さんがいなくて良かった。
紙袋を胸に抱えながら、私は小さく頭を下げ、その店を後にする。夜の風が、肌をやさしく撫でる。星がまた、さっきよりも増えて見えた。
安室さんはどこに行ったのかと、私は紙袋を抱えたまま辺りを見渡した。街灯の灯りがぽつぽつと続く、小さな商店街の通り。歩いている人もまばらなのに、安室さんの姿が見当たらない。

「……安室さん……?」

そっと名前を呼びながら、首を左右に動かして探していたそのとき──背後から、不意に腕を取られた。肩がびくりと跳ねる。反射的に振り返ると、そこに。

「一緒に食べましょう」

片手に、自販機で買ったらしき棒アイスを二つ手にした安室さんが立っていた。柔らかな笑みと、どこか悪戯っぽい眼差し。私の手に紙袋があるのを見て、自然な仕草で受け取ってくれる。
驚く間もなく、安室さんは器用にアイスを持ち直しながら、もうひとつのアイスを私に差し出してきた。

「……ありがとうございます」

戸惑いながらも、私はそっとそれを受け取った。ひんやりとした冷たさが、火照った手のひらに心地いい。車を降りた瞬間からずっと、なんだか夢の続きみたいで、頭が少しぼんやりしている。
安室さんが歩き出す。私は慌ててその横に並ぶようにして、歩を進めた。夜の商店街を、二人並んで歩きながら、棒アイスを少しずつ食べていく。通りの店のシャッターはほとんどが下りていて、時おり中からテレビの音や笑い声が漏れてくる。どれも穏やかで、何気なくて、温かかった。

「…美味しいですね。それは何味ですか?」

隣からふいにそう聞かれて、私はアイスの棒を見下ろす。

「……オレオ、ですけど……」

そう言いながら、小さく眉を寄せた。
……いや、これ、買ってきたのあなたでしょう?というツッコミが喉まで出かかった。この人はきっと、分かってて聞いてる。そういう人だ、って。

「いいですね。一口ください」
「えっ?」

返事をする間もなく、安室さんの顔がぐっと近づいてきて、私の手にあるアイスにそっと口を寄せ──そのまま、一口かじられた。

「っ……!」

その一瞬で、心臓が跳ねた。
あまりにも自然で、さりげない。近すぎる距離に、思わず手を引こうとしたけれど、もう遅かった。安室さんは満足そうに口元をぬぐうと、今度は自分の持っているアイスを私の前に差し出した。

「僕のも、一口食べてみますか?」
「……えっ、いや、でも……」
「遠慮せずにどうぞ」

クリームソーダ味。包み紙のイラストが、懐かしい雰囲気を醸している。私は言われるままに、それを両手で包むように持ち、ほんの少しだけ…アイスの端をかじった。
──冷たい。けど、思ったよりずっと甘い。

「どうですか…?」
「……おいしい、です」

顔が熱い。気のせいじゃない。確実に頬が赤くなってる。アイスの冷たさが、まったく追いつかないほどに。

「……それはよかった」

安室さんが微笑む。柔らかいけれど、どこか嬉しそうな表情。その顔を見ていると、なぜだか胸がいっぱいになって、うまく呼吸ができない気がした。
私は慌てて顔をそらし、足元のアスファルトを見つめる。……だめだ。あんなふうに見つめられたら、平然としてなんかいられない。
もう会えないかもしれないと思ってた。なのに今は、こうして隣にいて、同じアイスを分け合って、それがあまりにも現実離れしている。

「さ、服も買ったし、アイスも一緒に食べたことですし──次はスーパーに行きましょう」

明るく、やさしい声。アイスを最後のひとかじりで食べ終えた安室さんは、手に持っていた紙袋をくるりと反対の手に持ち替えたかと思うと、もう片方の手を自然に差し出してきた。

「さ、行きますよ」

そう言って、私の手をそっと引く。温かく、包み込むような感触。私は何も言えないまま、そのまま安室さんに引かれるようにして歩き出した。夕暮れの残り香が街の空気に溶けていて、道ばたの草花が風に揺れている。今だけは──この何気ない静かな時間が、永遠に続けばいいのにと、そう思った。











「少し……買いすぎましたね」

くすりと笑いながら、安室さんは玄関の鍵回し、明かりを灯した。柔らかな光が、室内の木目を優しく照らす。靴を脱いで上がると、すぐ右手にはこぢんまりとしたキッチン、左手にはダイニングスペース、奥には小さなソファとテレビが見えた。全体的にシンプルだけど、ぬくもりがある。木の香りがほのかに漂い、どこか気持ちが落ち着く空間。

"今は訳あって、ここで暮らしています。詳しいことは、またあとでゆっくりお話しますね"

さっき安室さんが、車の中でそう説明してくれた言葉を思い出す。外観は古民家風だが、手入れが行き届いていて、窓ガラスも壁も清潔に保たれていた。どこか懐かしさと温かさの漂う、別荘風の家。

「どうぞ、ゆっくりしてください」

帽子をとりながら安室さんはそう言って、キッチンカウンターに買ってきた野菜やパスタの袋を並べていく。その後ろ姿を見つめながら、私は自分が抱えていた紙袋を少し見下ろした。
中には、女性用のルームウェアと下着、歯ブラシや化粧水などの日用品。どれも、安室さんが何も言わずにカゴに入れてくれたものだった。
──本当は、断るつもりだったのに。気づいた時には、会計が終わっていた。下着を買うときも、私が気まずくならないように、配慮をしてくれて……。お金をそっと渡して、そのまま自然に離れていったのだ。そういうところまで完璧で、やっぱり、この人は……出来すぎてる。そう思わずにはいられなかった。

「……今から、クリームパスタを作ります」

そう言いながら、安室さんが私の方を振り返った。すでに鍋に水を張り、パスタの袋を脇に置いてある。ふと、こちらの視線に気づいたのか、穏やかに笑みを浮かべた。

「その間にお風呂をどうぞ。脱衣所は、そちらです」

そう言って、キッチンの背後にある引き戸を指差す。私は少し驚きつつも、そっとお辞儀をして応えた。

「……ありがとうございます」

脱衣所へと続く廊下を歩きながら、ゆっくりと深呼吸をする。玄関で感じた木の香りが、ここにもふんわりと漂っていた。



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