64
お風呂上がりの髪をタオルで軽く拭いたあと、安室さんが用意してくれたルームウェアに袖を通すと、不思議と身体がふわりと軽くなった気がした。クリーム色のやわらかな素材が肌を包み、外の夜風の冷たさをすっかり忘れさせてくれる。
リビングへ戻ると、安室さんお手製のクリームパスタに、カリッと焼かれたバゲット、彩りのいいサラダが用意されていた。どれもお店顔負けの味。けれど何より嬉しかったのは──彼と、こうして“当たり前”のように向かい合って、ごく普通の夜ごはんを食べられたことだった。
何気ない会話、差し出されるフォーク、時おり重なる視線。もう見られないと思っていた光景が、今は目の前に確かにある。そんな些細な幸せが、胸の奥をじんわりと温める。まるで、失ってしまったものを取り戻すような、そんな夜だった。
食事を終えた私たちは、自然な流れで二人並んでシンクへ向かった。私はお皿を洗い、安室さんはそれを受け取って丁寧に布巾で拭き取っていく。水音とお皿を重ねる音だけが台所に響く。その時、私は胸の奥でずっと
──聞かなきゃ。今しかない。
「……安室さん」
声に出すと同時に、胸が小さく詰まる。洗っていたお皿をゆっくりとすすぎ、手を止める。
「……あの、狙撃してきた犯人って……まだ、捕まっていないんですか?」
安室さんは少しだけ手を止めた。その横顔が、一瞬だけかすかに揺れたように見える。そして、お皿を一枚布巾で拭きながら、静かに答えた。
「……はい。まだ捕まっていません」
息を呑む。──やっぱり。胸の内で、その事実が静かに重く沈んでいく。あれから一ヶ月も経っていた。もしも犯人が拘束されているなら、安室さんがわざわざこんな場所まで身を潜める必要なんてない。そう思っていた予感が、確信へと変わった。
「……それって、テレビ局で起きた銃乱射事件の犯人と、同一人物なんですか?」
少しだけ声を落として訊ねる。お皿を洗う手が、自然と力を込めてしまう。安室さんはふと顔を上げ、短く息をついた。ほんの数秒の沈黙。そして、低く確信に満ちた声で告げられる。
「おそらく、同一人物です。僕の脇腹から摘出された弾丸……あの時、テレビ局で使われたものと、同じ型でした」
──やっぱり。目の前がじわりと滲むような感覚。あの男。父と瓜二つの顔をした、現実の世界に現れてはならない存在。
思考が堂々巡りをはじめる。この世界に何が起きているのか。私の存在が何を壊してしまったのか、何が起たのか──すべてが霧の中。
私は無言のまま、まな板を洗い始める。蛇口から流れる水の音が、頭の中の不安をごまかしてくれるようで、少しだけ救われる気がした。
「……安室さん、聞いてもいいですか?」
水の勢いを弱めながら、声をかける。背後でコップを棚に直していた安室さんが、静かにこちらを向いた。
「……何でしょう」
「ここに身を潜めている理由です。……あとで説明してくださるって言ってましたけど……どうしても気になって」
小さな声。だけど、そのひと言に、私のすべてを込めた。あなたは銃で撃たれ、命を落としかけて……でも、今。この穏やかな古民家で──、こんなふうに身を隠す必要がわからない。
「あなたは、犯人に命を狙われた。それは分かります。でも、あなたほどの力があれば、ここまでして逃げなくても……捕まえることもできたんじゃないかって、思ってしまって」
私の言葉を、安室さんは黙って最後まで聞いてくれた。その表情に責めるような色はなく、ただ、静かに──まるで自分自身の中にある何かを探るように、視線を手にしていたコップに落としていた。そして、小さく息を吐いたあと、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「……そうですね。僕も、あの時までは、姿を現してくれたことでむしろ好機だと考えていました」
その口調にはいつもの穏やかさがありながら、どこか硬質な響きが混じっている。
「犯人さえ見えれば、こちらにも動きようがある。足取りを掴むのは、そう時間のかからないことだと……そう思っていました。ですが……」
「……ですが?」
私は思わず問い返す。その一言の奥に、何か大きな“異常”が潜んでいる気がしてならなかった。
安室さんは少しだけ目を伏せ、指先でコップの淵をなぞった。そして、まるで事実を確認するように、ひと呼吸置いてから続けた。
「……痕跡が、何一つ残っていなかったんです」
「え……?」
その言葉に、私は思わず手の中のスポンジを落としそうになる。皿の上で水が跳ねた。さっきまで繰り返していた日常の手の動きが、突如として意味を失ったかのように硬直した。
「狙撃が行われたと推定されるビル──そこには、防犯カメラが複数設置されていました。ですが、事件当日の映像が、すべて……なぜか消えていたんです」
その声は、静かに、しかし確実に私の胸の奥を凍らせていく。
「……映像だけでなく、現場に残されるはずの
あり得ない。──けれど、私には理解できる。
“この世界”の中では、そういうことが起きるのだ。私が安室さんの痕跡を消しゴムツールで消したように、もし誰かが「犯人の存在を消した」のであれば……この世界に、痕跡として残らないのは、当然…。
「あれだけの痕跡を完全に処理するには、相当な手際と……時間が必要です。でも、実際には──犯人はものの数分でそれをやってのけた。まるで……現場そのものが最初から“存在していなかった”ように」
私の背中を、冷たいものが這う。
──やっぱり。あの犯人は、ただの人間なんかじゃない。記憶を失ったはずの安室さんとは違い、彼はすべてを覚えていた。私の名前も、居場所も、描かれた世界の“外”のことさえも……。
「……だから、身を隠したんですね」
ぽつりと口に出すと、安室さんは黙ってうなずいた。
「見えない相手ほど、やっかいなものはないですから」
ふと見せたその笑みは、どこか張り詰めていた。それでも私には、それがとても──真っ直ぐで、優しく思えた。
しかし、安室さんがここまで詳しく話してくれるとは、正直、思っていなかった。私の正体も分からないはずなのに。どうしてここまで――そんな疑問を胸の奥に抱きながら、私は包丁を手に取って洗い始めた。
命の恩人だから? それとも、ただの義務感? あるいは……。答えの出ない問いを頭の中で繰り返していると、不意に、手元が滑った。
「……あっ」
包丁が手から落ち、シンクの中で鈍く響く音を立てて転がる。驚きと同時に、ぞっとするような感覚が背筋を這った。
……あ、危なかった。慌てて包丁を拾い上げる。
「気をつけてください。また怪我をされたら、大変ですから」
「は、はい。すみません」
私の後ろから、安室さんの低く、優しい声。小さく返事をする。包丁をそっと握り直し、もう一度、水の流れの中に滑らせる。刃先に指が触れないように、慎重に──気持ちをひとつひとつ手の動きに乗せるようにして洗い終えると、静かに水切りラックへと立てかけた。
確かに、洗い物をしながら考え事ばかりしていたら、危ない。あとで考えようと、自分に言い聞かせるように小さく息を吐く。そのまま、シンクの中に残っていたサラダ皿を手に取り、再び洗剤を乗せて洗い始めた。
「……安室さん、さっきの話の続きなんですけど──」
言いかけて、ふと、言葉が途切れる。
“また”。その言葉が、ふいに脳裏を強く打った。
──また、怪我をされたら?今、安室さんは、なんて言ったの……?背中をぞわりとした冷気が駆け抜ける。
手の動きが止まる。スポンジを握る指先が、わずかに震えていた。
包丁で怪我をしたことなんて……彼に話したことがあっただろうか?いや、ない。だってあれは、彼が記憶を失う前の話なのに。ゆっくりと、息を呑む。
「……"また"って、どういうことですか?」
私はゆっくりと顔を上げ、そっと安室さんの方を振り返った。声が掠れて、喉の奥がきゅっと締めつけられる。それでも、確かめなければならない。
安室さんは、静かに視線をこちらに向けた。その表情に、戸惑いも驚きもない。ただ、静かに、こちらを見ているだけ。
「なぜ、知っているんですか……?私が以前、包丁で指を切ったことを……。私は、あなたにその話をした覚えが……ありません」
その場に、沈黙が落ちた。蛇口から流れ続ける水音だけが、無遠慮に時間を刻んでいく。
見つめ合ったまま、どちらも言葉を発せずに固まる。けれど私の心の中では、言葉にならない期待が、あさましいほどにわき上がっていた。そして、安室さんが静かに口を開く。
「なぜかって……?見たからです」
「……見た……?」
問い返した私の声は、震えていた。
「どこでそれを……見たっていうんですか?」
私の問いに、安室さんはすぐには答えなかった。けれど、私の視線を正面から静かに受け止めたまま、無言でゆっくりと動き出す。足音ひとつ立てず、柔らかな歩調でキッチンを離れ、リビング奥のローテーブルへと向かっていくその背中を、追いかけるように視線を送る。そして安室さんが何かを手に取り、再びこちらへ向き直った瞬間――私は、見てしまった。
「これです」
その言葉とともに差し出されたもの。その瞬間、手に持っていたスポンジとお皿を取り落とす。
──ガシャッ。シンクの中で、陶器がぶつかりあって大きな音を立てた。乾いた破裂音。砕けた陶器の一部が、私の手元をかすめて転がる。
「……っ」
思わず両手で口元を覆った。視線は、その“本”に釘付けのまま。理解したくない。でも、確かにそれは、あの表紙だった。あの色合い、あのロゴ、そして──この世界の物語。どうして。なぜ彼の手に、それがあるの。
足が震え、声も出ない。全身から一気に血の気が引いていく。安室さんは、その本を軽く持ち上げ、落ち着いた口調で言った。
「あなたが言っていた、“ご主人”のことが──この中に書かれていました」
静かに、まるで何気ない雑談の続きのような口調で、安室さんはそう言った。けれど、その一言は鋭く私の胸を刺し、背筋にじわりと冷たいものが這い上がってくる。
どうして……?なぜ……?安室さんの手に――“名探偵コナン”の最新刊が、しっかりと握られている。
本を持つ安室さんの指が、そっとページを開いた。薄い紙が擦れる音が、耳の奥でやけに響く。私の喉は、乾ききって何も言えない。言葉が、もうどこにも見つからなかった。
「結婚して、たった数日でいなくなるなんて──ひどい旦那さんですね」
冗談めいた口調。でも、その目は笑っていなかった。私は両手をぎゅっと胸元に寄せる。何も返せない。
だって──その「旦那」は、彼、安室透。目の前にいる、この人。けれど、彼はそれを知らないはずだった。私の中にしかない、その記憶と感情を……彼は淡々と口にしている。
「……ど、どこで……それを……?」
「風見が見つけました。病院であなたについて調査をしていたとき、偶然拾った医師から受け取ったそうです」
彼の言葉のひとつひとつが、まるで重力を持つように私の胸を押し潰していく。
「レジデントの仮眠室にあったそうですよ。中に“宮間りか”と同じ名前の女性が出てくるので、もしかしたら……と」
仮眠室──その言葉に、身体が反応した。
あの夜、コードブラックのアナウンスが鳴ったとき、私は手にしていた“それ”を、机の上に置いて、救急の現場に駆け出した。まさか、"コナン"の世界に引き込まれていたとも知らずに。
──そのときの私が、うっかりこの漫画をこの世界へ持ってきてしまった?理解が追いつかない。でも今、確かにここに存在している“名探偵コナン”の単行本。それは、この世界の人間にとって、本来存在しないはずの“証拠品”。
「この一ヶ月、あなたを探しながら、何度もこれを読みました。繰り返し、繰り返し……台詞も覚えるほどに」
その静かな告白に、私はただ震える手で口元を覆うことしかできない。視界がじわりと滲んでいく。目の前の現実が、音もなく、崩れていく。
──だめだ。見られてはいけなかった。そこには、知られてはいけない“私たちの全て”が書かれているのに。
「最初は、ただの偶然だと思いました。僕と同じ名前のキャラクター、あなたと同じ名前の女性。よくある偶然の一致だと、最初は……」
安室さんの声が、どこか遠くから聞こえるように感じる。頭が真っ白になって、言葉が出てこない。指先から熱が逃げていく。
「けれど──途中から、どうにも他人事とは思えなくなってきました。セリフも、思考も、表情のひとつひとつまでも……“僕”と似ている」
喉の奥がひくつく。言葉を出そうとするたびに、舌が上手く動かない。ただ、この場から逃げ出したくて、でも身体が言うことをきいてくれない。
「……なぜ、この中に僕やあなたの“同姓同名の人物”が、こんなにも自然に登場しているんでしょうね?」
視線がぶつかる。逃げたいのに、逸らすことができない。答えられない。何も、言えない。
彼は知らない、私がこの世界に何をしてしまったのか、その事実が、どれほど取り返しのつかないものだったのか。
「それで──この一ヶ月、あなたを待っていました。このことを、直接聞こうと思って」
淡々とした声。
その奥に、揺れ動く何かが確かにある。
「……あなたは、この続きを知っているんですよね?」
まるで、最も核心に触れてはいけない場所に、刃を静かに突き立てられるような感覚。心臓がじわりと締め付けられていく。
「この漫画は、“安室透が記憶を失う”ところで話が終わっています」
彼の声は、まるでナイフのように、ゆっくりと刺さってくる。
「この先は、どうなるのですか?」
──どうなるのか。私だって、それが知りたくてたまらなかった。記憶を失くした彼の行き着く先は、どこなんだろうと。
「安室透と、宮間りかは──どうなるのですか?」
口が開きかけて、すぐに閉じた。声にならない。息をするのが精一杯で、喉の奥からは、かすれた空気しか出てこない。
「安室透は、本当にこのまま、“宮間りか”を永遠に忘れてしまうのですか?」
その言葉に、胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。私の存在が、私たちの記憶が、どんどん形を失っていく。
「……宮間さん。答えてください」
もう、笑ってはいなかった。安室さんの声は低く、苦しそうで──でも真剣だった。答えを待つ瞳が、逃げ場を与えてくれない。
「突然、消えてしまったというあなたの“夫”。それは──」
一瞬の間。時間が止まったように感じる。心臓の鼓動だけが耳の奥で強く響く。崩れそうな声で、私は言葉を探す。でも──それすら、もう追いつけない。
目の前の“彼”が、確かに真実へと手を伸ばしている。彼は静かに、けれど確実に言った。
「……僕ですか?」
前へ 次へ
目次へ戻る