65


「突然、消えてしまったというあなたの“夫”。それは──僕ですか?」

その言葉が空気を震わせた瞬間、すべての時間が止まった。
蛇口から流れ続けていた水は、途中で凍りついたように宙で弾け、エアコンの風で微かに揺れていた電球も、カーテンも、秒針の音すらも全て消えた。それはまるで、漫画の一コマのように、世界そのものが静止してしまった。

呆然としている私の目の前に、まばゆい光の扉が現れる。これは……きっと、かつて安室さんが私を「コナンの世界」へと引き込んだあの時と同じ扉。そして、安室さんが現実へ来る、きっかけとなった眩い閃光。それが、今ふたたび目の前に現れようとしていた。
──安室さんが“真実”に近づいてしまったから。きっと、それが理由だ。この世界は彼を受け止めきれなくなって、またしても──静止してしまった。

「……答えられないですか?」

驚いた様子もなく、安室さんは静かに私に問いかけた。あまりにも落ち着いていて、その姿が、余計に胸を締めつける。
私は息を呑んだまま、動けなかった。罪悪感が、胸の奥を焼く。私が、また世界の均衡を崩してしまった……。
何も言葉を発せない私に、安室さんが歩み寄ってくる。まるで何も怖くないと言わんばかりの足取りで、静かに、私の前に立った。

「では、一緒にここを出て──確かめに行きましょう」

そう言って、私の手をとる。
その手は、信じられないほどあたたかくて、世界が崩れかけているこの瞬間でさえも、その熱は、しっかりと現実に存在していた。

光の扉が、白く音もなく開いてゆく。
──もう逃げられない。安室さんの手に導かれるまま、私はその扉をくぐった。眩しさに目を細めると、まぶたの裏に光がちらちらと残った。





目を開けると──そこは、父の作業部屋。
私が引き込まれる前となんら変わらない光景。そのとき、タブレットの画面が最後の瞬きのように光り、ふっと消える。部屋には、かすかにインクと紙の匂いが漂っていた。
引かれていた手が離れると、安室さんが机の上にあの単行本をそっと置いた。そして、静かに私の方を振り返る。

「……ここは、あなたのお父さんの作業部屋ですね?」

目を伏せたまま、私は何も答えることができなかった。何をどう言えばいいのかも、わからない。
私のせいで、また安室さんが真実を知るハメになってしまった。なんのために、安室さんが記憶を差し出したのか。一度ならず二度も同じ失敗をしてしまうなんて、自分が憎たらしい。
視線を感じて顔を上げると、安室さんの瞳が私の胸元に向けられていた。チェーンに繋がれた、小さな指輪。何か思うことでもあるるのか、安室さんはそれに右手をそっと添える。
その温度に、私は思わず目を逸らした。合わせる顔がない。

「……私……知りませんでした。漫画を持ってきてたなんて……。真実を話す気なんてこれっぽっちもなかったから、頑張って黙ってたんです……」

声が震え、波が滲む。

「私はただ……ハッピーエンドを願ってただけなのに……すみません。どうしましょう……またこんな……」

言葉が崩れた。泣きたいのは安室さんの方だってわかっていても、涙が滲む。
でも、安室さんは何も言わなかった。ただ静かに、後ろを振り返り、壁一面に貼られたキャラクターデザイン画の数々を見つめていた。そこには、コナン、蘭、小五郎、灰原、そして……彼自身の顔も。
淡く、息を吐いた安室さんが私を見据える。

「大丈夫です」

その声は、驚くほど静かな重みを持っていた。

「あなたを待つ一ヶ月の間に、この真実と何度も向き合いました。だからもう、以前のように混乱したりはしません」

安室さんの瞳には、曇りがなかった。むしろ、あの世界で一緒に過ごしたどの瞬間よりも、今がいちばんまっすぐで、力強く感じられた。
それでも、私の罪悪感が消える訳じゃない。それほど彼の中に「覚悟」のようなものがあったからこそ、自分の犯してしまったミスが、あまりにも重く感じられる。

「あなたのお父さんは今、どちらにいらっしゃいますか?」

私は無意識に喉を鳴らし、視線を泳がせた。
パソコンのモニター、消えたタブレット、壁一面に貼られた原稿の残骸……誤魔化しなんてもう効かない。

「……どうして、ですか?」

絞り出すように問い返す。
声が震えているのが、自分でも分かった。

「一度僕を描いた人物に、会ってみたいと思いまして」
「……え?」

安室さんは、一拍おいてから、まっすぐに私の目を見た。

「誤解しないでください。怒っているわけでも、責めたいわけでもない。前回のような失敗は、繰り返さないと誓います。ただ、今の僕にはどうしても……あなたのお父さんに、直接尋ねてみたいことがあるんです」

その声には、不思議な静けさがあった。怒りでも苛立ちでもない。ただ、誰にもぶつけようのない問いを、長い時間ひとりで抱えてきた人の声。
けれど、答えを急がず、丁寧に真実に向き合おうとしているのが見てとれた。

「どこに、いらっしゃいますか?」

再び問われて、私は息を詰める。

「……わかりません。父の居場所が……わからないんです」
「わからないとは?」

正直に言った瞬間、喉がひりついた。
安室さんの眉がわずかに寄る。

「私も、混乱していて……でも、数時間前までは家にいたはずです。なのに、今は……まるで、痕跡が何も残っていなくて……」

言葉を継ごうとした瞬間、視界の端がわずかに滲んだ。
──おかしい。喉の奥が妙に渇いて、心臓が大きく脈打っている。息がうまく吸えない。周囲の空間が、ゆっくりと遠ざかっていくようだ。

「あっ……すみません、なんだか……」

苦笑いのようなものを浮かべながら手を振ろうとしたが、指先に全然力が入らない。思考も身体も、どこか夢の中を漂っているみたいで。

「……頭が……、クラクラして……」

そう言い終わるか否かのうちに、足元がぐらりと傾いた。自分の体重が支えきれなくなる。膝が崩れ──世界が大きく傾いたその瞬間。

「っ…宮間さん」

安室さんの声が、はっきりと耳の奥に届いた。
次の瞬間、温かくて確かな腕に抱き留められる。柔らかい匂いと体温、そして自分ではない誰かの鼓動。
背中からしっかりと支えられ、抱きとめられたことで、かろうじて自分が崩れ落ちようとしているのを理解した。

「しっかりしてください…!大丈夫ですか?僕が支えてますから…」

視界はもう、まともに機能していなかった。光が滲み、音が遠くなる。
けれどその中で──安室さんの声だけが、痛いほど鮮明に、私の胸の奥に染み込んできた。
私は何も返せず、ただその腕の中に身を委ねた。指先の震えも、張りつめていた思考も、ひとつずつ剥がれ落ちていく。
──安室さん。そこにいるのが、あなたでよかった。そう思ったきり、私は静かに意識を手放した。












次に意識が戻ったとき、頬にひやりと夜風が触れた。
まぶたの裏に滲む光、かすかに耳に届く車のドアの開閉音。そして、誰かにそっと背を支えられ、慎重に座席へと体を預けられている感覚。
ここは……。ぼんやりと視界を開くと、目の前には車の内装。すぐに、自分がタクシーの後部座席に乗せられているところだと気づいた。
運転席には知らない年配の男性。まっすぐ前を見据え、静かにエンジンをかけている。窓の外では、天沢くんがスマホを耳に当て、何かを真剣に話していた。

「……東京大学病院ですか?ええ、はい……胸部外科の方にまわしていただけますか」

天沢くんの声が、どこか遠くから響いてくるように感じる。まだ身体の感覚がすべて戻りきっていない。頭が重く、まるで水の中にいるような鈍さが全身を包んでいた。
ゆっくりと左に顔を向けると、すぐそばに安室さんの姿があった。優しく、けれどしっかりと私の身体を支えながら、シートに座らせてくれていたところだった。安室さんは私の目が開いたことに気づくと、しゃがみ込むようにして視線を合わせてくれる。

「……どこか、痛みますか?吐き気や寒気は?」

声が近い。安室さんのまなざしはやわらかかった。意識がはっきりしないまま、私は首をふるようにして、かすれた声を出す。

「……だいじょうぶ、です……たぶん…ただの……過労、なので……」
「過労…?」

ぽつりとそう答えると、安室さんは一瞬、眉を寄せる。その言葉に、自分でも少し笑いそうになる。そう、たしかに普通の“過労”ではない。

「……ここでは……数時間しか経っていないけど……向こうで……一ヶ月も……過ごしてきたから…」

その言葉に、安室さんの瞳がほんの一瞬だけ揺れた。理解の光がすぐにその表情を満たしていく。

「…なるほど」
「はい、だから……少し休めば、元に戻るはずです……」
「よかった」

心から安堵したように、安室さんが小さく息を吐く。そっと私の胸元に手を伸ばし、カチャ、と音を立ててシートベルトを丁寧に留めてくれた。
その仕草が、たまらなく優しかった。立ち上がると、何かを確認するようにタクシーから離れようとする。その背中に、私は反射的に手を伸ばしていた。

「……どこに……行くんですか?」

咄嗟に掴んだシャツの背中。思わずそのまま、力を込める。
安室さんの足が止まり、振り返る。そしてもう一度、私の目線の高さにしゃがみ込んでくれた。その目が、まっすぐにこちらを見ている。

「行かないで……ください……」

自分の声が、こんなに弱々しくなるなんて。けれど、どうしても言いたかった。お願いだった。懇願だった。
以前の私も、同じように“行かないで”と安室さんに言った。なのにその直後、安室さんは消えてしまった。また──同じことが起きる気がして、どうしても、黙ってはいられなかった。
安室さんは、ほんの少しだけ表情を緩める。そして、私の左手にそっと自分の手を重ねてくれた。

「……少し、整理したいことがあるんです。すぐに追いかけます。だから、安心してください」

低くて、静かな声。その中に確かな決意があって、私は何も言えずに小さく頷くしかなかった。安室さんの手が、私の手をやさしく包む。その温もりに、涙が出そうになった。
──昔、私の目の前で微笑んでいた“安室さん”と重なった気がして、胸の奥が強く、きゅうっと締めつけられる。

「……私のことを……覚えて、ますか……?思い……出しましたか……?」

わかってる。きっと答えは“NO”だ。だけど、それでも聞きたかった。奇跡のように、何か残っていないかと思ったから。
返ってきたのは、間を置かない、まっすぐな返答。

「いいえ」

──やっぱり。
視界がにじむ。唇が震えそうになるのを堪えて、私はそっと歯を食いしばる。
それでも、今も私の手を握ってくれている、安室さん。

「……ですが」

わずかに間を置いて、慎重に私に向けて言葉を継ぐ。

「想像してみています。……漫画の中の“安室透”の気持ちを」

思わず、手のひらに力が入る。身体の奥から、静かに何かが揺れるのを感じた。
逃すまいと、彼の言葉に静かに集中する。

「宮間さんは、あれから変わっていないのですから。……僕もすぐに分かるはずですよ。あなたの魅力が、何なのか」

その言葉は、まるで胸の奥にそっと置かれた花のようで。派手な装飾も、強い言葉もないのに、心の真ん中にまっすぐ届く。
──変わっていない。そう、私は変わらないままでいた。あなたをずっと想い続けていた。あなたがそれを“分かる”と言ってくれるなら。それだけで、何もかもが報われた気がした。
視線を上げると、安室さんの瞳がまっすぐに私を捉えている。……優しい。そして、どこか切ない。
安室さんは、もう一度ゆっくりと微笑んだ。その笑みは、まるで記憶の片隅から引き出された宝物のように、懐かしくて、美しくて……胸がきゅうっと締めつけられる。その時だった。

「東京大学病院に病室、ひとつ確保してもらいました!すぐに向かってください!」

タクシーの外から天沢くんの声が飛び込んでくる。そのまま運転手に指示をしているのが見えた。安室さんの視線がふっと逸れ、そちらに向く。

「……それでは、お願いします。僕も、あとですぐに向かいます」

落ち着いた声でそう言って、安室さんはゆっくりと立ち上がった。左手が離れる。触れていた体温が名残のように残り、私の胸に、微かな空白が生まれた。
安室さんは、車のドアに手をかけて、そして私の方を一度だけ振り返って、小さく、優しく──安心させるように微笑んだ。
その笑顔を、私は何度も心に焼きつけた。過去に見たどの瞬間よりも、確かなぬくもりを持っていた気がした。

カシャン、と音を立ててドアが閉まる。車が住宅街をゆっくりと発進した。シートにもたれながら、私はずっと窓の外を見つめ続けていた。
安室さんの姿が、少しずつ小さくなる。歩道に立って、両手をポケットに入れたまま、動かずに見送ってくれていた。
──目が離せなかった。どうか、消えないで。今度こそ、このままでいて。祈るような想いで、私は遠ざかっていく彼の姿を、見えなくなるまで、ずっと、ずっと、追いかけていた。



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