08


「遠慮せず、好きなものを選んでください」

そう言って案内されたのは、静かで高級感の漂うブティックだった。天井から吊るされた間接照明が柔らかく光を落とし、一着ずつ丁寧にディスプレイされた服を優しく照らしている。けれど――今の私に、それをじっくり見ている余裕なんてない。なんとなく服を選ぶフリを繰り返しながら、ハンガーを揺らす。
――それよりも今、私は、頭の中を整理したい。あのバス停で安室さんに再会するまで、1時間しか経っていない。それなのに、安室さんによると2ヶ月が過ぎたという。たしかにその言葉通り、街の風景も、人の服装も、季節さえ――すっかり変わっていた。
それは“ここ”が漫画の世界だからで、地味な入院生活なんて漫画のページには描かれない。物語の都合で時間がすっ飛ばされて、2ヶ月もの月日が流れてしまった。

しかし、そう考えながらも、視線は何度も勝手に安室さんの方へと引き寄せられる。彼は少し離れたソファに腰掛け、足を組み、ゆったりとした姿勢で私を見ていた。優雅で無駄がなく、なんだか楽しそうにさえ見えるのは気のせいだろうか。……案の定、周囲の目は安室さんに集まっているし、買い物客も店員も、ちらちらと彼を盗み見ては小声で囁いてる。
当の本人は全く動じる様子はなく、おかげで視線の先にいる私まで注目を浴びてしまっている事態だ。胸の奥がそわそわと落ち着かない。
ついさっき安室さんの命を救ったと思ったら、時間が飛んで、今はこうして洋服を選ばされて――。冷静に考えれば考えるほど、意味がわからない。
そんな私の混乱を知ってか知らずか、安室さんは変わらず穏やかな目で私を見つめ続けていた。視線が絡むたびに、こちらの鼓動だけが落ち着かない。

さて、どうしよう。1時間後に会うなら約束なんてしなかったし、電話にだって出なかったのに。本当にどうしよう。











「…うん、よく似合ってます」

不意に落ちた声に、胸の奥がひゅっと縮まった。耳に届いたその言葉が、頭の中で何度も反響する。あまりにも自然に言われたものだから、恥ずかしくて何もものが言えない。視線をどうしていいかわからず、鏡に逃がす。
そこには、安室さんが選んだワンピースを着た私。服を決められずにいるのを見かねて、安室さんが選んでくれたのだ。淡い白地の、ミディ丈のワンピース。水色の花と蝶が繊細に散りばめられ、ウエストの細い黒ベルトがその輪郭をやわらかく際立たせている。
――こんな服、自分で選んだことなんてない。けれど鏡の中の私は、少し背筋が伸びていて、知らない人みたいに見えた。

「派手じゃないのに、ちゃんと華がありますね。あなたらしい」

ふんわりと広がるスカートが風をはらみ、歩くたび、まるで本物の蝶が舞うように揺れていた。彼の視線が、その一瞬の揺らぎを追っている。
安室さんは自分の見立てに満足したようで、ふわりと微笑んだ。思わず目が合って、私はますます声が出せなくなる。

「これにしましょうか」

そう言って安室さんは自然な仕草で立ち上がり、手にしていた財布をそっと持ち替えた。そして、すれ違いざまにワンピースの裾をそっと整えてくれる。一瞬だけ近づいた距離に、心臓が大きく跳ねた。

「お会計してきます。…しばらく、そのままでいてください」

服のことなのか、それとも――。意味を考える前に、胸の鼓動だけがどんどん早くなっていく。しかし、その余韻が消える前に、現実がすっと背後から近づいてきた。
――違う。こんなふうに時間を過ごしている場合じゃない。気がつけば、ここに来てもう“2ヶ月”が過ぎていたんだ。向こうの世界では、誰かが必死に私の行方を探しているかもしれない。天沢くん、父、病院のみんな──。説明もなく消えた私を、どれだけ不安に思っているだろう。
帰らなきゃ。今すぐに。…でも、どうやって?頭の中で色々シミュレーションしてみても、帰る方法なんてひとつもわからない。
焦って、思わずその場を行ったり来たりしながら考える。前にこの世界に来たときはどうだった?…たしか、安室さんを救った“直後”に、気づけば現実に戻っていた気がする。その瞬間、物語はひとつの終止符を迎えていた。

そうだ──この世界は「コナン」の世界だ。
「コナン」は連続型の物語。ひとつの事件が解決しなければ、次の物語には進まない。その「終わり」が必要なのかもしれない。
事件が解決し、登場人物の感情が動き、物語に決着がつく。それがあって初めて、次の話へ進む。今はまだ物語の途中だから、完結ができなでいて私は戻れないのかもしれない。つまり、物語を動かす“終わり”を起こせばいいんだ。

「終わり……」

と言っても、物語の"終わり"って、なに?今のところ事件らしいものは起きていないし、起こりそうにもない。いや、起こったら困る。こうなったら、それ以外の何かの方法で物語を終わらせるしかない。
キャラクターの「心情の変化」を起こすのはどうだろうか。コナンにはあまりないけれど、少女漫画だと主人公の感情に変化があったところでひとつの物語が終わり、また次回につづくという流れが多い。それで無理矢理にでも終わりできないだろうか。
…確証はないけど、やってみる価値はある。あの"安室透"という男の、揺るぎない精神にひびを入れるほどの変化──。でも、彼の感情を動かすには、きっと相当の刺激が要る。冷静で、理性的で、簡単には心を乱さない人だ。
ちょっとやそっとの言葉では、ぜったいに表情を崩さない。だから、もし本気で彼を揺らすなら──こちらが、非常識で、衝撃的な行動に出るしかない。
たとえば……。考えるより先に、心臓が跳ねた。なんてことを考えるんだ、と自分でも思うのに、覚悟はすでに決まりかけていた。
愚かだとわかっていても、手段を選んでいられない。帰るためには自分を犠牲にすることだって、やむを得ない。それがこの物語の構造なら、私が終わらせてみせる。

意を決して、私は試着室の扉を押し開けた。鼓動が大きく跳ねる。それでもレジの前に立つ安室さんの背中を見つけた瞬間、私は一歩を踏み出した。

「……ごめんなさい」

小さくそう呟いてから、呼吸を止める。そして、右手を振り上げ――迷いなく振り下ろした。

――バチン。

乾いた音が店内に響き、小さな悲鳴とざわめきが広がる。安室さんの頬に、私の手の跡がはっきりと残った。
た、叩いてしまった…。安室さんを…。罪悪感に心が痛んだけれど、背に腹はかえられない。きっとこれで安室さんも驚いたはずだ。これで終わりにできる。

………
………

けれど――何も起きなかった。
まるで、この世界が私の行動を“イベント”と認識していないかのように。空気も景色も、微動だにしない。現実に戻れる兆候もなにもない。
みるみる自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。あれほど勇気を振り絞って、手まで上げたのに……!これじゃあ、骨折り損だ……!と恐る恐る安室さんを見上げた。

「……っ」

――わ、笑ってる。その顔には、にっこりと笑顔が貼り付けられていた。けれど、それは優しさや余裕からくる笑みではないことは明白。形だけ口角が上がっているだけで、瞳は一切の温度を持っていない。

「……突然どうされたんですか?」

低く、けれど刺すように静かな声。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。

「あなたの怒りを買うようなことを、僕はなにかしましたか?」

喉が震え、今にも涙がこぼれそうになる。ごまかすように口元を両手で押さえた。
――ま、まずい。怒ってる。安室さんは、今、とても怒っている。表情は一ミリも動いていないのに、背後からじわじわ黒いオーラが立ち上ってる気がする。

「ご、ごめんなさい……っ!」

この場を収拾する力なんて、私にはない。
逃げよう、と半歩後ずさった瞬間――安室さんに手首をすっと掴まれた。強くはないのに、逃げられないことだけはわかる。

「あなたの考えていることが、まるで理解できませんね」

低く落ち着いた声。
声の奥に、明確な怒りが滲んでいる。

「じ、自分でも……よくわからないんです!ただ……これで終われると思って……!」

言葉がしどろもどろになる。
理由なんて後付け。焦りすぎて、理性より先に身体が動いてしまっただけだ。でも、安室さんは一切瞬きをせず、こちらの動機をまるごと透かし見るように静かに見つめてくる。
……届いてない。安室さんの理性のその厚い壁に、一切の揺らぎがない。さっきの一撃がまるで意味を成していないと、痛いほどに感じた。

「……そ、そんな……」

もうだめだ。逃げ道も絶たれた。この余裕を崩さなければいけないのに。そんなことできる気がしない。
そのときふと、思い出す。あの夜、ビルの屋上で──安室さんが息を吹き返した瞬間。荒い呼吸の中、私の顔を見て、何か言いかけたような気がした。かすかに揺れたまつげと、熱を帯びた視線。あのとき、たしかに安室さんの心が動いたのを、私は見ていた。
あんな顔を、もう一度させられたらいい。その瞬間、自分でも驚くような考えが静かに浮かび上がった。非常識で、無謀で、でも――これなら彼を揺らせるかもしれない。
そっと息を吸い、掴まれた手首に自分の手を重ねる。心臓が、耳の奥でうるさいほど鳴っていた。
――これをやったら、もう後戻りはできない。一瞬だけそんな声が頭をよぎったけれど、すぐに振り払う。

「ごめんなさい…」

かすれる声でそう告げ、私は静かに背伸びをする。そして――彼の唇に、自分の唇をそっと重ねた。
ほんの一瞬、触れただけ。息を止めて、押し当てたのは数秒にも満たない時間。それでも、世界が一度きりの音を立てて崩れた気がした。
安室さんの呼吸が、わずかに乱れる。唇を離したとき、彼の瞳が驚きに大きく見開かれていた。

「っ……」

声にならない声が口をついて出る。視線を合わせることもできず、私はレジ奥の試着室へと駆け込んだ。
鼓動は荒く、胸に手を当てても収まらない。動揺で目に涙がにじむ。
――今の表情。あれが正解……?
そう考えた瞬間、耳に届く店内のざわめきがふっと遠のいた。光の色が、空気の匂いが、少しずつ変わっていく。足元の床がかすかに揺れ、視界の端で色と輪郭が滲み、別の景色がそこに重なる。次第に意識は遠のいていった――。



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