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side: Amasawa
「……え?」
横にいたはずのりかさんが、突然、かき消えるように姿を消した。あまりに自然で、あまりに唐突で、何が起きたのか分からなかった。
ほんの数秒前まで隣にいた。犯人に首を絞められたりかさんは静かに震えていて。だけど次の瞬間には──そこには、もう誰もいなかった。
「……りかさん……?」
控えめに、声をかけてみる。返事はない。念のため、もう一度、名前を呼ぶ。やはり、静寂だけが返ってくる。彼女の黒いバッグも、そのままだった。そこにいた証拠はすべてあるのに、彼女だけが、消えた。
「まさか……また、向こうの世界に……?」
唇の奥で、ひとりごちる。急激に心臓の鼓動が早くなる。冷たい汗が背筋をつたって落ちた。
それに、あのタブレット──電源を落としているはずなのに、さっき一瞬、画面が眩しく光ったように見えた。気のせいだと振り切りたかった。
でも、消えた彼女、無人の空間、そして机の上にぽつんと残されたタブレットが、それを否定してくれない。
「……いや、まさか……」
震える手で自分の腕を抱く。
視線が、自然とタブレットに吸い寄せられていく。何も表示されていないはずのその画面に、今にも何かが映るような──そんな気がしてならなかった。
「な……なんだよもう……」
ぼそりと呟く。指先がじっとりと汗ばんで、息が詰まる。こんな部屋に、一人きりでいられるか。
りかさんもいない、誰もいない、だけど何かが確かに“いる”ような、そんな錯覚が、空気を重たくしていく。
座り込んでいた床から立ち上がると、そのまま走って玄関へ向かった。早足で靴を履き、ドアを開ける。冷たい外気が、一気に身体を包む。
庭に出ると、膝から力が抜けるようにして、その場にしゃがみこんだ。
「りかさんっ…早く帰ってきてくださいよう…っ」
頭を抱える。恐怖と、焦燥と、取り残されたような孤独が一気に押し寄せてきた。
誰かに助けを求めたい。でも、誰に?このおかしな現象をどう説明すればいい?この部屋の中で、何が起こっているのか──自分にすら、理解できていないのに。
こんな時に、先生は一体どこへ行ったんだ。夜風が、遠くの木々を揺らしている。家に背を向けながら、しばらく、小さく肩を震わせていた。
*
しばらく庭の片隅にしゃがみ込んで、両手で頭を抱えていた。頬に触れる夜風が、じっとりと張りついた汗を冷やしてきた頃、ようやく息を吐き出した。
──何なんだよ、もう……。もうたくさんだ。もうこれ以上、何かに怯えたりなんかしたくない。
「りかさん……?」
もう何度目になるか分からない。呟くように名前を呼んでみるが、返ってくる声はない。耳の奥に残っていた、消える直前の気配すらもう感じられない。怖い。怖すぎる。
あの犯人のことを思い出す。真っ黒のフードを被って、銃を向けてきた人物。またあんな奴が、現れでもしたら……考えただけで恐怖で体が震える。その時──。
「……ッ!」
家の中から、何かが崩れるような大きな音がした。反射的に顔を上げる。
心臓が跳ね上がった。
「……な、なに……?」
誰もいないはずの家。そのはずだったのに。
まさか……りかさんが、戻ってきた?希望と恐怖が一気に押し寄せてくる。けれど、戻ってきたならなんで声をかけてこない?様子を見に来てもいいのに。
……いや、それどころか、もしかして。
「犯人……?」
声にした途端、ゾクリと背中を冷たいものが這う。
もしあの犯人が、この家に来ていたら?今、部屋の中にいるのがそいつだったら?
一瞬、本気で逃げようとした。でも──。
このまま暗い庭で、夜を明かすのか?この不気味な空気の中で、一人で?その想像に、身体がまた別の意味で震え始める。
唇を噛みしめて立ち上がった。近くにあったホウキの柄を握る。こんなもので戦えるわけがないと分かっている。でも、何も持っていないよりはマシだった。
「……頼むから、りかさんであってください……」
半分祈るように、そろりと玄関を開ける。
中は、真っ暗なまま。音はもうしない。
静かに、静かに足を踏み入れる。スリッパの擦れる音がやけに大きく感じられて、胸の鼓動がどんどん早くなっていく。廊下を進み、先生の作業部屋がある方向に近づいたとき、ふと──。
かすかに、男の声がした。
足が止まった。ホウキを握る手に汗が滲む。何か言っている。でも内容までは聞き取れない。数歩後退しそうになる足を、必死に踏みとどめる。
──りかさんが危ないかもしれない。その想像だけで、胸がぎゅうっと痛んだ。一歩踏み出す。そして、思いきってドアを──。
「っ、失礼しますっ!!」
勢いよく開けた瞬間、目の前に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
「りかさんっ!」
倒れている。
床に崩れた彼女の身体を、誰かが支えていた。
「な、なにしてるんだ……っ!」
反射的にホウキを振り上げる。頭の中が真っ白になった。とにかく、助けなきゃ。その瞬間──その男が、ゆっくりと振り返った。
金髪。
黒いシャツからのぞく褐色の肌。
アイスブルーの、深くて鋭い眼差し。
──そんな、まさか。
頭の中が真っ白になった。信じられない。目の前にいるはずがない。何度も漫画越しに見たはずのその横顔が、今、現実に自分の目の前にある。その名前が唇の裏側で何度も渦を巻いた。
「あ……あ、あむ……」
言葉が途切れる。口の中で名前が転がるたび、現実感が崩れていく。
「……安室……透……?」
やっとの思いで口にしたその名前は、自分でも他人の声のようだった。
その瞬間、全身から力が抜ける。握っていたホウキが手から滑り落ち、乾いた音を立てて床を転がる。その場に立っているのがやっとだった。
「彼女、意識を失って倒れてしまいました」
彼は、まるで当然のように落ち着いた口調で言った。こちらの混乱なんて微塵も気にしていないかのような、ただ状況を淡々と説明する声。
「病院の手配をしてくださいますか?」
だが、その“日常”の中に現れたのは、紛れもなく、ありえない存在──漫画の登場人物、そのものだった。
その声に、しばらく、呆然と頷くしかできなかった。世界の理が、音を立てて崩れていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
*
しばらくの間、ただ呆然と立ち尽くしていた。何が起きたのか、頭の中で整理がつかない。けれど、目の前で倒れているりかさんの姿を見て、ようやく我に返る。
──考えるより先に、急がなければ。
震える指でスマホを掴み、タクシーを手配する。彼女が勤めている東京大学病院へ直接連絡を入れ、状況を簡潔に説明した。過労の可能性があること、意識を失って倒れたこと。彼女の名を出すと、すぐに搬送の受け入れをしてもらえた。
僕も病院まで付き添うつもりだった。けれど──タクシーのドアを開けたとき、安室透がふいに僕の腕を掴んだ。
「……できれば、あなたはここに残っていてほしい。手伝っていただきたいことがあります」
低く落ち着いた声だった。断る余地のない、静かな圧。彼は、りかさんの中で特別な意味を持つ人間だ。その彼がそう言うのなら……僕が出る幕ではないのだろう。
りかさんは、さっき意識を少し取り戻していたし、おそらく、以前にもあった世界を超えた代償による過労だ。
なら──たぶん、大丈夫だ。そう言い聞かせながら、僕はタクシーのドアをそっと閉めた。
車が走り去ったあと、ひとり庭に取り残される。
……いや、ひとりじゃない。隣には、あの“本物”が立っていた。風になびく金髪。漫画の中で見たままの姿が、そこにいる。
──本物だ。まちがいない。あの安室透、本人だ。頭が混乱している。なぜここに?どうして、今このタイミングで?何がどうなって……。
「入ってもいいですか?」
背後からかけられた声に、ビクリと肩が跳ねた。
「は、はい……ど、どど、どうぞ……」
どもる声が我ながら情けなかった。
けれど、「入ってもいいですか」って何だよ。聞く以前にすでに玄関に入ってるし、いやそういう意味じゃないって分かってるけど!とパニックはおさまらない。
中に案内しようとした僕の背中に、再び彼の声が届く。
「お名前を伺っても?」
「あっ……天沢、天沢はじめ……です」
口が乾いている。滑舌も何もあったものじゃない。けれど、彼はそんな僕の動揺など気にも留めない様子で、やわらかく微笑んだ。
「天沢さん。……すみませんが、しばらくこの靴、お借りしてもよろしいですか?靴がなくて」
「は、はい。よ、よろしいです」
気づけば、玄関に置いていた僕のスニーカーがすでに履かれていた。まるで最初からそうするつもりだったように、自然な流れで。
状況が飲み込めない。ついさっきまで、彼は漫画の中にいたはず。そんな人間が、当たり前のように玄関に立ち、僕の靴を借りようとしている。そして、その口からさらに予想外の言葉が飛び出した。
「ありがとうございます。では、この家にドライバーはありますか?」
「ド、ドライバー?」
聞き返した声が裏返る。ドライバーって、いきなり何を?何をする気なんだ?修理か?分解か?それとも──まさか、何か壊しに?
パニックで頭がショートしそうになりながらも、反射的に訊き返していた。
「え……プラスですか?マイナス……?両方?」
我ながらなに言ってんだと思った。なのに、安室透はごく自然に、ほんの少し目を細めて笑う。
「両方です」
その笑顔のまま、家の奥へ、先生の作業部屋の方へ迷いなく歩いていく。
あわてて靴を脱ぎ、僕もその後を追いかけた。なにが起きてるんだ、この家で。この世界で。
──でも、知ってしまった以上、逃げられない。あの人は、本当にあの“安室透”なんだ。
安室透は、黙ったままタブレットの前に立つと、ゆっくりと手を伸ばした。指先で画面の縁を押さえ、くるりと裏返す。その動作に、無駄な動きは一切ない。
次の瞬間、僕が手渡したドライバーが、小さく光を反射した。
カチ、カチ──静寂の中、ネジを外す音だけが響く。ひとつ、またひとつ。安室透は迷いなく、まるでその構造を最初から理解していたかのような手つきで、タブレットを分解していった。
「な、何を……されてるんですか?」
思わず、声をかけた。
安室透は手を止めず、こちらにだけわずかに視線をよこす。
「出入りを止めようとしています。また同じことが起こると、危険ですので」
「……ああ、なるほど」
その言葉に、はっと息を呑む。
この人は、次に誰かがまた"引き込まれたり、こちらに来たり"することを防ごうとしているのだ。
「でも……分解してしまったら……また、必要なときに困るかも……」
そう口にすると、彼はほんの一瞬だけ手を止め、ふっと微笑んだ。
「その時はまた、組み立てればいいだけです」
返す言葉が見つからなかった。
何かもう、違う次元の人間と話しているような気さえする。僕はただ、また「ああ、なるほど」と小さく息を呑むことしかできなかった。
「ところで、漫画家の宮間ノリヤ先生はどちらに?」
安室透がさらりと訊ねる。
が、僕はうまく答えられず、口ごもった。
「それが……僕にもわからなくて……」
どうしても信じられない。先生は、財布もスマホも置いたまま、またどこかに消えてしまった。一体どこにいるのか。りかさんによると、ヤカンの火までつけっぱなしだったらしい。あの几帳面な人が──そんなはずはない。だからこそ、背筋に冷たいものが這う。
「突然、姿を消されたんです。先生がいなくなったと思ったら、りかさんまで……。もう、うんざりですよ。ここ数ヶ月で、向こう十年分の恐怖を味わいました。……さっきだって、ひとり庭で震えてて。そしたらあなたが、こうして現れて……。一体、なにが起きてるんですか?」
声が震えた。問いかけながら、自分でもそれがどれほど無謀な質問かは分かっていた。でも、聞かずにはいられなかった。
安室透は、静かに手を止めて、一瞬だけ僕の方を見た。そして──何も言わずにまた、ドライバーを手にタブレットの分解作業に戻る。
その横顔は、まるで何かと戦う兵士のように、凛としていて。なぜか、その姿に、戸惑い以上のものを感じ始めていた。ああ、なんて格好いい人なんだろうと。
「……あの……安室さん……いえ、降谷零さん」
自分でも何を言い出すのかと思いながら、ふいに言葉がこぼれた。
「一度……その、握手を……していただけませんか?ずっとファンで」
口に出した瞬間、顔が熱くなる。ああもう、なんてことを言っているんだ。内心、自分でもツッコむが止められなかった。
だが、彼は意外にも静かに、そして自然に手を差し出してくれた。僕は両手で包み込むようにその手を握る。けれど、彼がすぐに引こうとするのが分かって、思わずぎゅっと強く握り返してしまった。
一瞬、降谷零の瞳がぎょっと見開かれる。けれど、すぐにその表情がやわらぎ、彼はもう一度微笑むと、そっと僕の手から離れていった。
「す、すみません……つい……」
恥ずかしさで耳まで熱くなる。
それでも、自分でも止められなかった。
「降谷零の車や、ポアロのカウンター……僕が描いてるんです!七年間、背景をずっと担当してて!」
もはや何の告白なのか分からない。
でも、口が勝手に動いていた。
「……そうですか」
彼は、そう言うだけだった。目はドライバーに向けられたまま。でも、その声にはちゃんと、受け止めてくれた気配があった。
「あ、あっ……ウィスキー、飲みますか?うちに、スコッチが……!」
緊張のあまり、何を言っているのか分からなくなってくる。すると彼は、穏やかに首を振った。
「……水でいいです」
「み、水ですね!お持ちします!」
慌てて台所へと駆けていく。コップを手に、水道の蛇口をひねる。──いや、落ち着け、天沢。落ち着け。これは現実だ。夢じゃない。あの“降谷零”が、目の前にいるんだ。
何度もそう自分に言い聞かせながら水を注ぎ、そっと作業部屋へ戻ってみると──降谷零はすでに、タブレットの解体を終えたところだった。
両手を腰に当てて一息つくその姿は、やはりどこまでも整っていて、眩しくて。漫画の中で見てきたままの、みんなの憧れのその人だった。
「どうぞ、水です」
掌が汗ばむのを感じながら、静かにグラスを差し出す。氷も入っていないただの水だったけれど、今の僕には、これ以上丁寧に扱えるものはなかった。
「ありがとうございます」
降谷零はグラスを受け取り、ひと口含んだあと、ほんのわずかに喉を鳴らしてから、ふいに顔を上げた。
「ところで……この家に、“コナン”の漫画は置いてありますか?」
「えっ……?」
思わず間の抜けた声が出てしまう。
自分のグラスを手から落としそうになって、慌てて握り直す。
「それを読んで、今まで何があったのか確認をしたいのですが」
穏やかな声だった。けれど、僕の心臓は大きく跳ねた。それは──大丈夫なんだろうか。本当に見せてしまっていいのか。
だって、あの中にはすべてが描かれている。彼の生い立ちや、友人の死の原因。そして、あなたが苦しみ、そして記憶をなくしてしまったこと──いや、それどころじゃない。あなたの“自決”すら描かれたシーンだって、あるんだ。
「……あ、あの、それは……ちょっと……」
どうすればいいか決めかねて、右往左往する僕に、彼は静かに口を開いた。
「大丈夫です。何が描かれていたとしても、もう……覚悟はできています」
そう言って、降谷零はまっすぐ僕を見た。怖くなかったのか?と問いたくなるほど、穏やかで、澄んだ目。
嘘じゃない。きっと本当に、彼はすべてを受け止める覚悟をしてここにいるんだ。りかさんのこと、そして……この世界の成り立ちまでも。
僕は小さく息を呑んで、うなずいた。
「……わかりました。ご案内します。漫画は──先生の書庫の中にあります」
心がざわつく。けれど、もう止められなかった。
僕は背筋を伸ばし、廊下の突き当たりにある古い木製の扉の前まで案内した。
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