67


まぶたの裏に微かな光が差し込んできたのを感じて、ゆっくりと目を開けた。
白い、どこか見覚えのある天井。一瞬、どこにいるのかが分からなかった。頭の奥がじんわりと重く、視界がまだぼやけている。右腕に引っかかるような違和感に気づき、そちらに視線を向けた。
……点滴?ベッドの柱に吊るされた点滴のパックから、細いチューブが私の腕へと繋がれている。冷たくも温かくもない液体が、静かに身体に流れ込んでいた。ゆっくりと上体を起こす。動かすたび、身体が鈍く軋んだ。

「……ここ……は……」

かすれた声が口をついて出る。カーテン、天井の色、ベッドのスプリングの感触。全部、自分の住んでいるアパートのもの。
記憶を遡ろうとするが、まるで水底に沈んだ夢を手探りで追うみたいに、輪郭がつかめない。昨日のこと、一昨日のこと。ふわふわとしていて、脳が霞に包まれている。
もしかして……全部、夢だった?ぼんやりとした不安が喉の奥を締めつけた。あの手の温度も、声も、感じた息づかいも、背中に触れたぬくもりも。全部、私が見ていた、願望の産物だったとしたら……?

「……あむろ、さん……?」

自分で吐いた声が、あまりに心許なくて、胸が締めつけられた。
点滴の針をそっと抜き取り、ベッドの縁に足を下ろすと、ゆっくりと立ち上がる。足元がふらつくけれど、そんなことに構っていられなかった。
リビングへと続くドアを開けると、窓のカーテンの隙間から、まぶしい昼の日差しが射し込んでいた。どこかの鳥の鳴き声と、遠くで響く車の音。いつもの、現実の風景。
それでも不安は消えない。──夢だったのかもしれない。そんなはずはないと思いたいのに、胸の奥でひりひりと、何かが囁き続ける。

「……やだ……」

また一人ぼっちの現実に、戻されるなんて。
そのときだった。ソファの上に置かれていた黒いバッグが、小さく震えた。中でスマホが鳴っている。
思わず駆け寄って、バッグの中を探る。スマホを取り出し画面を見るが、知らない番号。着信音が耳に刺さるほど大きく感じる。
──まさか。通話ボタンに触れるのが、こんなにも怖いとは思わなかった。けれど、震える指でようやく応答を押し、そっと耳にあてた。

「……も、もしもし……?」

一瞬の間に、鼓膜が脈打つ。なにも聞こえない。やっぱり、違ったかもしれない。その時だった。

『…あ、宮間さん。起きましたか?』

その声が、聞こえた。
少し低くて、優しくて、どこか穏やかで、懐かしくて──その響きが耳の奥に触れた瞬間、思わず息を止めてしまった。

『具合はどうですか?』

スマホの向こうから、再びやわらかな声が流れてくる。聞き間違いじゃない。
だからこそ、今この瞬間すら、また自分の都合のいい夢の続きなのではないかと、怖くてたまらない。何かを確かめるように、私はスマホを強く握りしめた。

『もしもし?宮間さん?……聞こえますか?』
「……きこえ……ます……」

二度目の呼びかけに、ようやく声を出した。あまりに弱々しかったが、それでも、彼にはきちんと届いたようだった。

『良かった。具合は良くなりましたか?あれから、2日も眠っていましたよ』

2日。私は、2日間も眠り続けていたのか。
けれど、その時間すら実感がない。眠っていたというより、夢の底でずっと彼の姿を探して彷徨っていたような……そんな気がした。

「だいじょうぶ、です……。あの……でも、安室さんは……今どこに?」

やっとそう言葉を発したけれど、胸の奥に渦巻く不安は、消えない。だから──聞かずにはいられなかった。
お願い、これが現実だって、言って。あなたが、ここにいるって、証明して……。

『あなたのお父さんの家の近くです』
「……この世界に……いるんですか?こちらで私に……電話を……?」
『もろちん。漫画の世界からどうやって電話をかけるっていうんです?』

くすりと笑う、やさしい声。安室さんの口元が綻んだ気配が、スマホ越しに伝わってきた。その瞬間──張りつめていた不安の糸が、ぷつりと切れた。

「……よかった……」

思わず、大きく息を吐き出す。
こわばっていた肩が、知らず知らずのうちに脱力していった。安室さんは、本当にここにいる。夢じゃない。今、こうして、私の声に応えてくれている。それだけで、たまらなく嬉しかった。どれだけ待ち望んでいたか分からない“現実”が、いま、目の前にある。

『いま、携帯を買ったところなんです。番号を登録してくださいね』
「……はい」

思わず、小さく返事をしていた。
安室さんの声の調子は変わらず落ち着いていて、言葉の選び方も、間の取り方も、あの頃と同じなのに。なのに、なぜか──実感が、ない。“ここにいる”と分かっているはずなのに、感覚だけがふわふわと宙に浮いているみたいだ。

『今日のご予定は?』
「特に、予定は……」
『もう少し、休んでいたいですか?それとも、もし、動けそうならですが――僕と、デートをしませんか?』
「……で、デート?」

思わぬ言葉に、声がひっくり返る。自分の耳が、何かを聞き間違えたんじゃないかと疑った。──いま、何て?

「……デート、って……」

震える声を押し殺しながら、私はもう一度その言葉の余韻を胸の中で確かめる。

『宮間さんが眠っている間に、漫画をすべて読みました。状況は把握しています。……結婚の問題以外は』
「……はい?」

あまりにも唐突に、その言葉は滑り込んできた。声が裏返ったのは、きっと驚きだけじゃない。

『漫画で読んだだけですが──僕はあなたの"夫"、なんですよね?』

一言一言を噛みしめるように、安室さんは穏やかにそう言った。その言葉に、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。
本当に漫画の中の出来事としてしか知らないはずなのに。それなのに、どうしてこんなふうに、心の奥を突いてくるのだろう。まるでそこに、まだわずかに、あの頃のかけらが残っているようで。ほんのひとかけらだけ、記憶じゃない何かが彼の中で芽吹きはじめているようで。

『実感が湧かず、あなたが目を覚ますのを待っていました。……ですので、デートをしましょう』

“デート”なんて、たわいない言葉のはずなのに。今の安室さんが、それを言った意味の重さに、胸がふるふると震え始める。

『僕は、あなたのことを何も知りません。なので…僕に知るチャンスを、与えてください』

優しくて、真っ直ぐで、どこまでも誠実な声。
安室さんの記憶も、感情も、きっとまだ追いついていない。けれど、知ろうとしてくれている。過去の記憶をなぞるのではなく、今ここにいる“私”という人間を、初めて出会う誰かとして、知ろうとしてくれている。

『……嫌ですか?』
「い、嫌なわけないです……!」

条件反射のように、即座に否定していた。胸がいっぱいで、うまく言葉が続かない。
むしろ、どれだけその言葉を待っていたか。会いたい、話したい、触れたい……そう願ってきたのは、私の方だ。頬がぽっと熱くなるのを感じながら、スマホを握る手に力がこもった。

「あ、でも私……お父さんのことを探さないと……」

不安の影がすぐに胸を掠める。
突然姿を消した父。彼の行方が、ずっと心に重くのしかかっている。

『そのことについても、話したいことがあるんです。だから会って、直接話をしましょう』

柔らかな声。押しつけがましさは一切ない。それなのに、不思議と拒否する隙を与えない、優しい強さがあった。

『……デート、しますよね?』
「えっ……」

返事をする間もなく、安室さんの声が続く。

『家の前まで、迎えに行きます』
「え、え、ちょっと待っ──」

プツン、と通話が切れた。ぽかんとスマホを見つめたまま、固まる。
“迎えに行きます”って、えっ…ええっ?顔が一気に火照る。手の中のスマホを落としそうになりながら、あたふたと呼吸を整える。こんな展開、心の準備がまだ──!
信じきれず、確認せずにはいられなかった。私はそのまま、再びスマホの着信履歴を開き、安室さんの番号をタップする。鳴り始めた呼び出し音に、胸が高鳴る。もう一度だけ、その声を確かめたかった。

『…もしもし?』

その声が、柔らかく耳に届き、胸の奥が一気にほどける。間違いない。現実だ。今、私と繋がっているのは──安室さんなんだ。

「あ……」

声が喉の奥で詰まる。何も話すことを考えていなかったことに、今さら気づいた。

「えっと……番号が……合ってるのか、確認しようと思って……」

どうしよう。何か言わなきゃ、と焦った末に、とっさに出てきた言葉は、とても間抜けだった。
言い終えた瞬間、顔が熱くなる。わけのわからないことを口走ってしまったと、思わず目を閉じかけたその時──。

『合ってますよ』

くすっと笑う声が、電話越しに柔らかく響く。その笑い声が、思っていた以上に優しくて、胸がじんわりとあたたかくなる。

「そ、それより……携帯を買うお金は?身分証はどうしたんですか?」

咄嗟に、次の質問を重ねる。疑問というより、焦りと現実味を繋ぎ止めるための確認だった。
安室さんが、現実のこの世界で携帯を持っていて、私に電話をかけているという、その事実がまだどこか信じられない。

『ああ、それは……天沢さんの名義で購入してもらいました。お金は、僕の手持ちの分から。日本円はこことも共通しているようで、無事に使えましたよ』

あっさりとした口調で、安室さんは続ける。
──なるほど。天沢くん……ありがとう。何も知らずに巻き込まれてるけど、本当にありがとう。胸の奥でそんな感謝を呟きながら、小さく「そうなんですね」とだけ返す。

『では、準備をしてください。すぐ迎えに行きますから』
「わ、わかりました……!」

慌てて返事をした直後、ぷつんと通話が切れた。
電話が切れたのに、しばらくスマホを耳に当てたまま動けなかった。画面に表示された"通話終了"の文字が、現実だと告げてくれているのに、実感が追いついてこない。
──本当に、会いに来るの?本当に…?信じたくて、でも信じきれなくて、私はもう一度、発信履歴から安室さんの番号をタップした。数回の呼び出し音のあと、すぐに応答がある。

『なんですか?』

スピーカーの向こうから、くすくすと笑う声が聞こえる。その声音が、あまりにもあたたかくて、思わず胸の奥がきゅっとなる。

「……な、何時頃、着きますか……?」
『30分後、くらいでしょうか』

その瞬間、慌てて声を上げた。

「だ、だめです!……1時間後でお願いします!」

笑われるのは分かっていた。
でも──それでも、無理だ。髪はぼさぼさで、顔もすっぴんで、寝起きそのままの姿。しかも体調を崩して二日間も眠っていたのだ。鏡を見る勇気もない状態で、安室さんに会うなんてとても耐えられない。

『……分かりました』

再び、あの笑い声が重なって、通話が切れた。
スマホの画面を見つめながら、つい唇がほころぶ。頬がふわりと熱くなる。
──やっぱり、夢じゃなかったんだ。安室さんが、この世界にいる。私に電話をかけてくれて、迎えに来ようとしている。その事実が、ようやく、心にゆっくりと染み込んでくる。

「……っ、準備……しなきゃ!」

我に返った瞬間、声に出していた。
スマホをテーブルに置くと同時に、私はリビングを飛び出し、洗面所へと駆け込んでいった。
シャワーを浴び、鏡の中の自分を確認する。髪も整えなきゃ、服も、メイクも──考えることが一気に雪崩のように押し寄せてくる。
会える。現実のこの世界で、もう一度彼に、安室さんに会える。心がふわりと浮き上がるような、そんな幸福感に包まれながら、私は鏡に映る自分と向き合った。



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