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『はい、僕の名義で購入しました。一緒に買いに行って』
ドレッサーの鏡の前でファンデーションを軽く叩き込んでいると、スマホのスピーカーから天沢くんの落ち着いた声が届いた。
「……そうだったんだ。ありがとう、天沢くん」
私はメイク道具を持ち替えながら、静かに呟く。
ちょうど天沢くんが体調を気遣う電話をくれたので、安室さんが新しい携帯を持っていたことと、その購入に協力してくれたことへのお礼を、伝えていたところだった。鏡越しに自分の顔を見つめながら、ふと、疑問が胸をよぎる。
「そういえば……私、気づいたら自分の家のベッドだったんだけど……いつの間に戻ってきたの?」
『ああ、りかさん、完全に気を失ってたから。覚えてなくて当然です』
一瞬の間のあと、天沢くんは落ち着いた声で説明してくれた。
『タクシーを送り出したあと、しばらくしてから、降谷零と僕で病院に向かいました。検査を終えたりかさんを、彼が横抱きにして、家まで運んでくれたんです。あ、運転は僕がしましたけど』
「……えっ」
思わず、手にしていたチークブラシを落としそうになった。抱きかかえられて……?そういえば、意識が遠いてる中で、ずっと誰かに腕を回された感触があった。まさか、そのとき?
『あとでお礼してくださいね。僕が代わるって言っても、ずっと運んでくれたんですから』
まさか、病院からも、車の中でも、ここに着くまでも、ずっと安室さんに抱えられてたってこと…?
思わず机に突っ伏す。顔が熱い。これが初めてではないけど、慣れるものでもない。申し訳なさと、妙な恥ずかしさが同時に襲ってくる。
でも、だから、安室さんは私の家を知っていたんだ。さっき、何の迷いもなく「迎えに行きます」と言えたのは、そのせいだったんだ。ようやく、ひとつ腑に落ちた。
『病院に向かうまでの間に、降谷零はタブレットをドライバーで分解して、漫画を読んで、状況を掴んで……ってすごい速さでしたよ。りかさんに"すぐ追いかける"って言った約束を、ちゃんと守ったみたいです』
その言葉に、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。一度は破られた約束。でも、あの時、車の中で私が“行かないで”と呟いた言葉を、今度は無視しなかった。それだけのことなのに、なぜか目の奥が熱くなる。
そのとき、ふいに天沢くんが声のトーンを落とした。
『……この先、どうなるんでしょうね』
「え……?」
ふわりと浮かんでいた幸福感が、その一言で現実に引き戻され、顔を上げる。何かを悟ったような口調だった。
『降谷零さん……ずっと、こっちの世界で暮らすんでしょうか?』
その問いに、しばらく言葉が出てこなかった。鏡の前で動きを止め、じっと自分の顔を見つめる。私だって、それが分かっていれば、どれだけ安心できただろう。
『いや、今のところは……大丈夫そうに見えますけど、でも、これからもずっとここにいられる保証って、あるんですか?』
「……私も……向こうで平気だったから……大丈夫じゃないの?」
希望を込めて、ぽつりと呟いた。
現実に馴染めるかなんて、そんなの分からない。けれど、私は──彼の世界に足を踏み入れても、ちゃんと生きていけた。それなら、彼だって。そう信じたかった。
『でも……気づいてましたか?』
天沢くんが、ふと声の調子を変えた。
『降谷零の、手……時々、変なんですよ』
「……変?」
変って……なにが?
そう聞き返そうとしたそのとき──。
ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。
「あ……天沢くんごめん、誰か来たかも。後でまた連絡するね!」
そう言いながら、通話を切って寝室を出る。スマホは手に握ったまま。心臓が高鳴っていた。
──宅配?でも、何か頼んだっけ。軽い気持ちでリビングを通って、足早に玄関へと向かう。扉のすりガラス越しに人影が映っていたけれど、それが誰かを確認する余裕もなく、ついそのままドアノブに手をかけた。
「──はい」
「宮間さん」
カチャリ、と扉を開けた途端に、時が止まった。
「え……」
目の前に立っていたのは、水色のワイシャツ姿の安室さんだった。どこかで服を買ったようで、柔らかな光に浮かぶ金髪が、風で少し靡いている。
けれど──約束の時間には早すぎる。
「誰かも確認せずにチャイムに応じるなんて、感心しませんね」
その穏やかな声音に、思わず唇がわななった。
まだ30分しか経ってないのに。約束は1時間後って……私、まだ準備も髪も、ぜんぜん終わってないのに……!
「……あむ、安室さん?」
間抜けな声が漏れる。
何も言い返せなかった。
「入ってもいいですか?」
え、いや、まだ心の準備が……と頭の中で言葉を探している間に、
「入りますね、失礼します」
返事をする隙さえ与えられず、彼はするりと靴を脱いで、まるでこの家の住人であるかのように自然な動作で玄関に上がる。そして迷いなく、廊下をまっすぐ進んでいく。
「ちょ、ちょっと待ってください!どうして部屋まで……?」
パタパタとスリッパを鳴らしてあわてて追いかけると、彼はリビングの真ん中でふと足を止めて、こちらを振り返った。
「突然すみません。実は宮間さんの暮らしている部屋を、ちゃんと見てみたくなりまして」
「……え?」
間の抜けた声が漏れた。その意図をどう受け取ればいいのか、わからない。安室さんは、何気ないことを告げるようにそう言っただけだったのに、胸の奥が微かに高鳴る。
「僕も、あなたについて知る権利があるでしょう?」
さらりと告げられたその言葉に、心臓が一瞬止まりそうになった。柔らかく、だけど逃げ道を与えない声音。まっすぐに向けられたまなざしに、視線を逸らすこともできない。
「あ、あの……そんな……たいした部屋じゃ……」
声がうわずった。情けないほど動揺している自分が、自分でも分かる。
安室さんはそんな私の反応に構うこともなく、ゆっくりとリビングの中を見回していた。ひとつひとつを丁寧に目でなぞるように、カーテンの柄や、本棚の並び、クッションの位置まで目を配っている。
「……いい部屋ですね」
その一言に、言葉を詰まらせる。
まさか、こんなことになるなら、もっと掃除をしておけばよかった。シンクにある、封が開いたままのパンが目に入り、心の中でそっと悲鳴を上げる。ぐるぐると後悔の渦に飲み込まれながらも、ふと、さっき天沢くんの言葉が蘇った。
──「気づいてましたか?降谷零の手が時々変なんです」
そっと、彼の手元に視線を向ける。ソファの背に手を置くその指は、いつも通り綺麗で、なにもおかしなところは見当たらなかった。なにが変なんだろう。…きっと天沢くんの勘違いだ。そう思って、そっと息を吐き出す。
「…はい。私は…ここで暮らしています」
ぽつりと答えると、安室さんはゆっくり振り返って、目を細めるように微笑んだ。
「居心地がいいですね。落ち着きます」
「……そう、ですか……?」
嬉しいような、気恥ずかしいような気持ちが入り混じる。
「あの、私、部屋の中まで来るとは、思ってなくて。その……まだ、準備も……」
「ふふ。どうぞ、僕は気にせずゆっくり準備してください」
しどろもどろに言い訳を口にすると、安室さんはまるで気にしていない風に、やわらかく笑った。
しかし、そう言われても、気にしないなんて無理に決まってる。
「れ、冷蔵庫の飲み物、好きに飲んでくださいね。すぐに準備しますから……!」
「はい、ありがとうございます」
その柔らかな声に背中を押されるようにして、私はそそくさと自分の部屋に駆け込んだ。
ドアを閉めて、ようやく深呼吸。胸が高鳴るどころか、破裂しそうだった。現実感がまだ、ほんの少し、身体に馴染みきっていなかった。
*
洗面所の鏡に映る自分の姿をもう一度確認してから、最後に温めておいたコテで髪をふんわりと巻いた。くるん、とひと房が頬に沿って落ちる。
深呼吸をしてから、リビングへと戻るが──安室さんの姿が見えなかった。さっきまで、ソファに座っていたのに。辺りを見回すとすぐに、わずかに開かれた寝室の扉が目に入った。
そろそろと足音を忍ばせて近づくと、寝室の奥に、背を向けて立つ安室さんの姿が見えた。カーテン越しの柔らかな光が、彼の肩を静かに縁取っている。
「……安室さん?」
そっと声をかけると、彼は振り向かずにそのまま答えた。
「……ありがとうございます」
低く、穏やかで、でもどこか胸の奥にふれるような声。
なにが、ありがとう…?と思わず首を傾げる。視線の先をたどると、彼の視線は、ドレッサーの上、小皿に置かれたひとつの指輪に注がれていた。細いチェーンに通された、銀色の結婚指輪。──あの時、彼から渡された、ただひとつの証。
「……僕を、忘れないでいてくださって」
その言葉に、息が詰まった。
胸の奥が、ふっと苦しくなる。涙じゃない何かが喉の奥をせり上げてきて、言葉が出なかった。
何度も泣いた。名前を呼んでも返ってこない現実に打ちのめされて、空っぽの部屋でひとり、夜が明けるまで指輪を握りしめていた日もあった。夢の中でだけ会える彼に、目覚めたくないと思ったこともあった。
彼がいなくなっても、それでも、想いが消えなかったことの証に、指輪を持ち続けた。
──それが、たったその一言で、全て報われた気がした。胸の奥がじんわりと温かくなって、少し泣きそうになる。
安室さんの視線が、ふと横へと動いた。隣の棚に置かれた、写真立ての中へ。
「これは、お母様の写真ですか?とても、綺麗な方ですね」
「……はい。とっても、優しい母でした」
自然と答えていた。
そこに写っているのは、大学の入学式の日に一緒に撮った写真。青い空の下で、緊張した私の背中を押してくれた、あの人の手のぬくもりが、今もこの部屋のどこかに残っている気がした。卒業写真を一緒に撮ることは叶わなかったけれど──きっと今も、どこかで見守ってくれているはずだ。
そのとき、ふと、安室さんがこちらに振り返った。
「……ああ、そういえば。あなたの“夫”は、この部屋に来たことはないですよね?」
「えっ?な、ないです……」
咄嗟にそう答えると、安室さんの口元にいたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「これでひとつ、僕がリードですね」
なにが、どう“リード”なのかなんて、考える余裕もない。ただ、頬が熱くなり、視線をそらす。
「ゆっくり準備してください。下で待っています」
それだけを言い残し、安室さんは静かに寝室を出ていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。その背中を見送ったまま、しばらく動けなかった。まだどこか、夢の続きのようで信じ切れない。
ふと、ドレッサーの上に目を戻す。小皿の中で、光を受けた指輪が小さく輝いていた。指先でそっと拾い上げる。少しひんやりとしているその銀の輪を、チェーンから外して──静かに、左手の薬指にはめた。
そっと左手を胸の前に引き寄せる。少しだけ、心が強くなった気がした。
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