69


穏やかな午後の陽射しが、フロントガラス越しに差し込んでいた。その柔らかな光の中で、エンジン音は静かに低く唸り、車はゆるやかに道路を滑るように進んでいる。
運転席には安室さん。助手席には私。それだけの光景が、どうしてこんなにも胸を高鳴らせるのだろう。
信号待ちでふと視線を落としたとき、自分の膝の上に置かれたハンドバッグの中のキーケースが目に入った。車の鍵。国家試験に合格したとき、父が「通勤に使いなさい」と言ってプレゼントしてくれたものだ。けれど、忙しい日々の中で車を使う機会はほとんどなく、駐車場の片隅で長らく埃をかぶっていた。
今、そのハンドルを握っているのが安室さんだと思うと──まるで、眠っていた車がようやく本来の役割を思い出したようにさえ思えてくる。「なんだか、よかったね」と心の中で車に話しかけたくなるほどだ。

「どこへ行きましょう?」

安室さんが、不意に問いかけてくる。信号が青に変わると、ハンドルを滑らかに切りながら、片手でシフトを操作するその姿があまりにも自然で、思わず見とれてしまいそうになった。

「えっと……何が食べたいですか?」
「おごってくださるんですか?」

そう言って、安室さんはふっと笑った。
その一言に、少しだけ口元が緩む。

「だって……安室さん、こっちではツテもお金もないじゃないですか。さっき携帯を買ったばかりで、残りも限られてるはずでしょ?…だったら、私が奢らなきゃ」
「頼もしいですね」

心からの響きでそう言われた。
不思議と胸があたたかくなっていく。
向こうの世界では、いつも私が頼ってばかりだった。寝床も、食も、すべて彼に守られて、助けられていた。

「その大変さを、私が一番よくわかっているつもりなので……」

だからこそ──今度は私が頑張る番だ。ここで、私のいるこの世界で、彼が戸惑わずにいられるように。
そんな決意が胸に灯ったことを、安室さんは知らない。けれど、隣から何かを察したように一度、ちらりと私を横目で見てから、静かに微笑んだ。

「……僕が漫画を読んで、ひとつ感じたことがあります」
「感じたこと?」
「はい」

何だろうと、安室さんにちらりと目をやりながら首を傾げる。

「事情があったとはいえ、僕たちの結婚は少し──急ぎすぎた気がします」
「……え?」

一瞬、意味が飲み込めず、返事の言葉が遅れた。それは……後悔してる、ってこと?いや、そんな風には聞こえなかった。

「どういう……」

でも、どこか遠くを見るような瞳が、まだ少しだけ思い出に追いつけていないようで、胸がきゅっとなる。顔を上げると、日の光に照らされた彼の横顔が視界に入った。

「だから、これから……僕たち、恋愛をしましょう」

その一言が、胸の奥に静かに落ちてきた。
まるで柔らかな石が、深い湖の底に沈んでいくように。波風も立てず、でも確かに、心の水面が揺れた。

「平凡な、普通の恋愛を──デートをして、お互いをちゃんと知って、ゆっくり距離を縮めて。……結婚が先になりましたが、順番が逆でも、積み重ねることはできますよね」

言葉のひとつひとつが、心の奥深くに染み込んでくる。胸がいっぱいで、言葉が出ない。嬉しいのに、どこかこそばゆくて、どうしていいか分からなくて。

「…どうですか?」

それでも、喉の奥が少し震えるような感覚の中で、自然と頬が緩んでいく。こめかみから心臓まで、静かに火が灯ったように、胸の奥がやさしく膨らんだ。

「とっても……いい、です……」

ぽつりと声に出した。
──平凡な恋愛。私たちの間にあったものは、その真逆。けれど、その遠さを知っているからこそ、彼の言葉が胸に響いた。
ひとつずつ言葉を交わし、時間を過ごし、心を確かめ合っていく。それはとても、ありふれたもののようで──ずっと手に入らなかった、夢のような日常。
想像するだけで、自然と口元がほころんだ。そんな私に、運転席の安室さんが、小さく微笑む。

「さて──では、どこへ行きましょうか。お勧めはありますか?」
「あ、お勧め……は……」

問い返されて思考が止まりそうになりながらも、私は安室さんへ目を向けた。
まっすぐ前を見て運転する、その眼差しの真剣さと穏やかさ。髪が、窓から入る風で少し揺れている。その横顔を見ているだけで、心の奥からふわりと幸福が湧いてくる。

「……少し遠くに、雰囲気のいいカフェがあるんです。そこまでドライブも兼ねて、どうですか?」
「いいですね」

そしてまた、静かに安室さんの横顔を見つめた。











目的地に着いたとき、空はすっかり秋の午後に溶け込んでいた。緑に囲まれた小さなガーデンカフェ。
小道に咲く白い小花のあいだから、陽の光がこぼれている。店のまわりを囲む木々は黄色く茂り、枝の間をすり抜けた風が、どこか遠くから虫の声を運んできた。

「……他の客はいないようですね」

運転席から降りた安室さんが、そう言いながらあたりを見渡す。駐車場には私たちの車しかなく、テラス席にも人影はない。まるで世界からふたりきりにされたような、静かさだった。

「お昼時を少し過ぎてしまったからですかね?混んでなくて、よかったです」

そう返すと、安室さんは私のほうを見て、目元だけで微笑んだ。それだけの仕草に、胸の奥がそっと熱くなる。
それからふたり並んで、店のテラス席へ向かった。風が通り抜けるたびに木の葉がさらさらと音を立て、どこか懐かしいような、安心感に包まれる。椅子を引こうとした私より先に、安室さんがすっと手を伸ばした。

「どうぞ」
「……あ、ありがとうございます」

気づけば、椅子を引かれるのなんて、ずいぶん久しぶりだった。しかもそれが、安室さんだなんて。
席に着くと、店員さんがメニューを持ってきてくれた。ひと通り目を通しながら、私はふと横目で安室さんの表情をうかがった。

「安室さん、甘いもの平気ですか?」
「はい、僕は何でも」

テーブルの上には白いレースのクロスと、薄青いガラスの小瓶に生けられた野の花。それを眺めながら、私たちはそれぞれ紅茶と軽食を注文した。

「前に来たとき、ここの感じがすごく気に入って……だから、いつか誰かと来てみたいなって思ってたんです」
「…では、この店は“誰か”との思い出じゃないんですね?安心しました」

その言葉に、思わず視線を泳がせ黙り込んでしまう。しかし、沈黙が落ちても、不思議と落ち着いていられた。
やがて運ばれてきたアップルティーと焼きりんごのタルト。さくっとしたタルト生地に温かなりんごの甘みが乗っていて、ナイフを入れると、ふたりの間にかすかな香りが広がる。

「……美味しいですね。お勧めしてくれただけはあります」
「本当ですか?良かったです…!私も久しぶりに食べます。こういうゆっくりした時間、なかなか取れなくて……」

静かに膨らんでいくこの気持ち。この距離、この静けさ、そして彼の優しい目元。そんな自然な距離に心が締め付けられる。
ナイフを置いて、フォークを持ち直したとき、不意に声が出た。

「……そういえば、私が眠っていた間、安室さんはどこで寝泊まりを?」
「あなたのお父さんの家に、お世話になってました」
「……アトリエに?」
「はい。天沢さんが、色々と良くしてくださりました」

そうだったんだ。きっとそこで、“コナン”のすべてを読んだのだろうと、ひとりで納得する。
……それにしても。私が向こうの世界に行ったときは、まともな居場所もなくて、あちこちさまよい、挙句に警察に捕まり拘置所まで行ったのに。
安室さんは、いつの間にか父の家に根を下ろし、協力者まで得ているなんて。
──なんというか、本当にこの人は、どこに行っても道を切り開いていくんだな。さすがというか、適応力がすごい。そんなことを思いながら、私は紅茶のカップを見つめた。

「天沢さん、少し混乱していましたが……とても真っ直ぐで良い人ですね」
「た、たしかに真っ直ぐではありますけど……」

思わずそう返したあとで、眉を顰めた。
父の家……。今の状態では、客人用の敷布団やブランケットもないはず。私が昔使っていたものは、物置にしまい込んだまま出していないだろうし、父の寝室も片付いていなかった。まさか……あの狭いソファで寝ていたんじゃないだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっとなった。安室さんのことだから、文句ひとつ言わず、受け入れていたに違いない。不便だっただろうに、そんな素振りも見せずに私の前に現れた。

「……安室さん」

小さく名前を呼ぶと、彼が静かに顔を上げる。

「今日からは……うちに来てください」

決意を持って、私は呟いた。
目の前の彼が一瞬、まばたきをする。風に揺れた前髪の隙間から、碧灰色の瞳がまっすぐこちらを見つめてきた。

「まだ……準備も何も足りないかもしれないけど。でも、もう不便な思いをさせたくありません」

カップを両手で包み込み、私は安室さんから目を逸らさずに続ける。言葉を選びながら、一つひとつ、自分の中の決意を確かめるように。

「それに、私……あなたに今までたくさん助けてもらって、面倒をみてもらってきたから。今度は私が、ちゃんと……あなたの居場所をつくります」

紅茶の湯気がゆらりと揺れる。沈黙の中で、風が一筋、テラスを横切った。白い花のひとつがふわりと舞い、安室さんのカップの縁にひらりと落ちる。そのとき、彼はふっと笑った。ほんのわずかに口元を緩めるだけの微笑みだったけれど、どこまでもやさしくて──私の胸に、静かに染みこんでいく。

「……やっぱり、あなたは変わりませんね」
「え……?」

咄嗟に聞き返した声が、思ったよりも高く揺れていた。ゆっくりとした動作で、安室さんは指先で花を取り除くと、言葉を継ぐ。

「漫画で読みました。あなたが、どんなふうに僕を支えようとしてくれていたかを。……あの時の僕が、あなたに惹かれた理由が、分かった気がします」
「……っ」

あまりにまっすぐな言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。その熱がそのまま頬にまで昇ってくる。
わかってる──これは“記憶”じゃない。ただ“情報”を読んだだけ。でも、それでも。彼の言葉は、まるであの時間を追体験したかのように、やさしく、迷いなく心を撫でてくる。

「……ひ、惹かれたなんて……」

そう言いかけて、小さく俯いた。自分でもわかる。頬が熱い。紅茶の香りさえ遠くなった気がするほど、胸の内側がざわめいていた。

「照れてる顔も、想像通りです」
「〜〜っ……!」

思わず頬を両手で覆って、彼から顔を隠す。けれど、テーブルの向こうでくすりと笑う気配があった。

「……なんだか、安心しました」
「な、なにがですか……」
「再び会えてよかったと、心から思えたという意味です」

その声は静かで、優しくて、まっすぐで。
その一言で、また胸がきゅっとなる。──もう、心配なんてしなくていいのかもしれない。何度離れても、彼はこうして、ちゃんと私の言葉を見つけてくれる。

「……また、“りかさん”とお呼びしてもいいですか?」

テラスの外で、風に煽られた木の枝が、さやさやと揺れる。その音に背中を押されるように、私は静かに頷いた。
名前──ただそれだけの言葉が、こんなにも愛しく響く。私の名前もまた、彼の世界に戻ってきたのだ。
柔らかな陽の光と、あたたかな紅茶の香りの中で──私は、ようやく呼吸を整えるように、小さく笑った。そんな静けささえ、今の私には、かけがえのない幸福に思えた。



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