70


パイの皿がすっかり空になった頃、ふたりの会話はゆるやかに途切れた。しかし、不思議と居心地は良く、カップを手に、しばらくその穏やかさに身を預けていた。
──このまま、ずっとこうしていられたら。そんな淡い願いが心をよぎったそのとき、安室さんがカップをそっとソーサーに戻した音がした。ほんの小さな音だったのに、なぜか胸の奥がぴくりと反応する。

「……りかさん」

呼ばれた瞬間、空気が微かに変わったのを感じた。何かが確実に、深いところで切り替わったような──そんな気配。

「そろそろ、本題に入りましょうか。あなたに、どうしても伝えておかなければならないことがあります」

その口調は、これまでと同じように静かだったけれど、言葉がいつも以上に慎重に選ばれているのがわかる。
私は自然と姿勢を正し、手元のカップを静かにテーブルに戻した。鼓動が、すこしだけ速くなる。

「……わかりました。お願いします」

本当は少しだけ、怖かった。でも、今日ここまで来たのは、その言葉を聞くためでもある。
安室さんはひと呼吸おき、目を逸らすことなく静かに語りはじめた。

「……以前、僕が残したUSBの内容を、天沢さんから見せてもらいました。漫画もすべて読んで、改めて考えてみたんです。……なぜ、犯人を抹消し、すべてを“夢”として終わらせる計画が、失敗に終わったのか」

視線の先で、安室さんは胸元のポケットから細身のペンを取り出した。そしてテーブルのナプキンを裏返し、中央に一本、すっと横に線を引く。

「僕たちの始まりの夜から、少し整理してみましょう」

そう言いながら、まるでメモでも取るように、簡潔な線と文字で時系列を書き始めた。私は覗き込むように、それを見つめる。
安室さんはその横線の左端に〈屋上〉と書き、そのすぐ下に、小さな人の影を描いた。
【安室(刺される)】と添えてある。

「まず、ホテルの屋上で僕が犯人に刺されました」

そこから線を少し右に延ばし、次の点を打つ。そこには小さな吹き出しのようなものがあり、こう記された。【父 現れる】

「その直後、あなたのお父さんと僕は対峙しました。覚えていますか?」
「……はい」

答えた瞬間、あの漫画での描写が脳裏をよぎる。冷たい空気の中で、向き合った二人。父の家に現れた安室さんが言っていた。
"あの夜、最初に僕が掴んで漫画の世界へ引き込んだのは、りかさんではなかった。……あなただったんです" と。

「そのあとにりかさんが現れ、僕を救ってくださいました」

安室さんの手はさらに右に進みながら、もうひとつの点を描き加えた。小さな吹き出しの中に、こう記される。【りかさん 現れる】

「ここからが、仮定の話です」

変わらず声は穏やかだったが、ペンの動きには確かな緊張感がある。父と私が現れたタイミングの間に、矢印が加えられた。



「──このときです。もしも、あなたのお父さんが“犯人”にも出会っていたとしたら……どうでしょう」
「……っ」

私は思わず、息を詰めていた。安室さんがひとつひとつ、覆い隠されていた真実の輪郭を浮かび上がらせていく。 
脳裏をかすめるあの記憶。あの時──父が突然、何の前触れもなく姿を消した日。そして、まるで何事もなかったかのように、ふらりと戻ってきたあの日。

「……たしかに……父が失踪したとき、気になることがありました。電話越しの声が、どこかおかしかったです。突然戻ってきて、どこにいたのか問い詰めても答えは曖昧で、むしろ私の心配ばかりしてきて……」

そうだ。明らかに様子がおかしかった。ただ、それを咎める余裕はあの時の私にはなかった。
後になって、父も“あちら側”へ行っていたと知ったとき、あの父の動揺は、"生きた安室透"という存在に出会ったからだったと思っていた。
──けれど、もしも。そのとき父が、犯人と対峙していたのだとしたら……。背中に冷たいものが這い上がる。何か大きな見落としに、ようやく手が届きかけている気がする。

「ひっかかるんです。僕は息を引きとる寸前の状態だった。なのに、なぜ、犯人はトドメを刺さなかったのか」
「……別の人物が、目の前に現れたから……」
「そうです」

その即答に、ぞくりと背筋が震えた。空気の密度が変わる。今まで陽光に満たされていた景色が、にわかに陰りを帯びていくような錯覚にとらわれる。

「僕を殺すよりも先に、もっと興味深い人物が目の前に現れた」
「……それが父……」
「はい。その時、犯人があなたのお父さんにも刃を向けていたとしたら?」

あの日、ふらりと戻ってきた父の様子が、どう考えても“普通”ではなかったことの理由。

「……でも、父は……“漫画の世界”の人間じゃない」

震える声でそう返したとき、自分でもその事実の重みに気づいた。安室さんはうなずき、静かに続ける。

「その通りです。だから──怪我をしない」

その一言が、頭の奥に冷水を注いだように響いた。

「あなたのお父さんが、刃物で刺されても、銃を向けられても“傷ひとつ負わない”としたら。……犯人が、それを見逃すと思いますか?」

その言葉は、私の中に残っていた最後の希望を、あっさりと打ち砕いた。開きかけた口は、声を失ったまま閉じる。心臓が早鐘を打ち、胸の奥がじわじわと冷えていく。

「“なぜ怪我をしない?”…… 犯人なら、そう問いただすでしょうね。執拗に、徹底的に」

嵐の前のような静かな声。ゆっくりとペンを置いた安室さんの目は、まっすぐに私を見据える。

「たとえ怪我をしなくても、"襲われる"という恐怖が消えるわけではない。目の前に刃が迫れば、誰だって取り乱す可能性はある。りかさんが銃で撃たれて気絶したように。……そんな極限の状況下で、“ここが漫画の世界だ”と……犯人に口を滑らせることも、あり得る」
「……うそ……」

喉が震え、言葉がかすれた。考えれば考えるほど、恐ろしい仮説が、理屈ではなく感情として迫ってくる。
──もし、その時、本当に父が、口を滑らせてしまっていたとしたら。もし、犯人がその言葉を聞き、意味を理解してしまっていたのだとしたら。

「……僕の推理は、こうです」

安室さんは静かに両手を組み、テーブルの上に肘をついた。その動作一つで、空気の密度が変わった気がした。私の心臓は、胸の奥で鈍く激しく鳴り響く。

「“夢だった”という処理が失敗したのは──犯人が、その時点ですでに“そこが漫画の世界”であることを理解していたから」

その言葉が落ちた瞬間、頭が真っ白になった。

「つまり、“犯人”は僕よりも先に、“ここが漫画の世界”であると自覚していた。そうでなければ、描き換えによるリセットが効かなかった理由の説明がつかない」

静けさが痛いほど沁みる。
鼓動の音が、妙に耳に響いた。
犯人が──そんなにも早く、気づいていた?私が絵を描いて“夢”に戻すことで、すべてを解決しようとしたあの選択すら……ただの無力な足掻きだったということ?

「……そんな……」

小さな声が喉から漏れる。なぜ──どうして、あのときもっと早く気づけなかったんだろう。しかし、後悔しても遅い。

「これは──僕のミスです」

安室さんの声が、初めて少しだけ低く沈んだ。穏やかな調子を保とうとしていた彼の声音に、わずかな後悔が滲む。

「“夢”に戻すタイミングを、誤りました。その瞬間にはすでに、犯人の意識は“物語の外側”にまで達していのに。……だから、すべてが、失敗に終わったんです」

その言葉は、安室さん自身への悔恨でもあった。それでも、彼は逃げずにそれを言葉にした。私はただ、言葉を失っていた。まるで、見えない地雷を一つひとつ踏んでいくような感覚。

「どう、しましょう……」

手をぎゅっと握り、私は小さく震える声を漏らした。自然に視線を落とすと、カップの紅茶の表面に、淡い自分の表情が揺れて映っている。
安室さんの推理が正しいとすれば──父は、あの夜、犯人と直接対峙していたことになる。そして怪我ひとつしなかったことで、この世界が「現実」でないことを、犯人に悟らせてしまった可能性がある。
けれど……どうして、そんな重大なことを、父は私たちに黙っていたのだろう。怯えていた?恐怖に心を蝕まれ、記憶そのものを閉ざしてしまった?それとも……ただ、知られたくなかったのだろうか。自分の過失が、世界を破綻させたという事実を。

「解決しなければいけません」

穏やかながら、はっきりとした響きで、安室さんが言った。その言葉に、喉がひゅっと詰まる。

「……どうやって、解決するっていうんですか……」

かすれた声でそう返した自分の言葉に、諦めが滲んでいた。安室さんの記憶を消して、夢にまでしたというのに。また、振り出しに戻ってしまったのだ。一体、どうすればいいというのか。世界の輪郭がぼやけていくような感覚に襲われる。

「そこで、考えました。──りかさん。僕とひとつ、約束してください」
「……約束?」

その一言が落ちた瞬間、胸の奥がかすかに震えた。静かに、しかし確実に、嫌な予感が頭の中で広がっていく。

「──お父さんの作業場へ行ったら、絵をひとつ描いてください」

衝撃に、心が一瞬で凍りついた。平静を保とうとする意志とは裏腹に、心だけが深く沈んでいく。

「……なに、を……言っているんですか……」

視界の奥が揺らぎ、身体がふるふると震える。
まさか──またその話をするつもりなの?

「まさか……また……また、すべて夢だったことにしろっていうんですか?……またあなたは、私の前から、去ると?」

そう言った途端、目の奥が熱くなり、涙がにじんだ。止めようとしても、言葉尻に怒りがこもる。

「そうしたら、あなたは“日常”に戻れますが……私はまた独りで、思い出を二つも抱えて生きていくことになります」

声が低くなる。怒りと、哀しみと、絶望が絡まりあって、重く沈んでいく。たった一言が、こんなにも多くのものを奪っていくなんて──。

「結局、別れるなら、なんで……なんで、今日私をデートになんて誘ったんですか……!平凡な恋愛をしようだなんて、なんでそんなことを……?」

胸に広がるのは、乾いた焦土のような痛み。愛おしいと思った時間さえ、裏切られたように感じる。この人を、また失うのかという現実に、心が崩れ落ちていく。
だが、そんな私とは対照的に、安室さんは組んだ手に顎を乗せながら、どこか涼しい表情をしていた。

「……まだ、“夢”だとは言っていませんが?」

首を傾けながら、まるで冗談でも言うかのような柔らかな声音だった。けれど、その無邪気さの裏に隠された含意に、私は一瞬で息を詰めた。

「その話を、今からしようとしてるじゃないですか……!!」

怒りとも、恐怖ともつかない何かが、喉の奥から湧き上がってきて、声を押し上げた。
どうしてそんなに落ち着いていられるの?私は今、目の前の世界が崩れそうなほど怖くて、苦しくて、たまらないというのに。

「“犯人が自覚する前に戻せば、みんなを守れる”って……!また、同じことをするつもりなんですよね……!」

あの夜がフラッシュバックする。
ホテルの屋上。目の前で、フェンスを越えて、落ちていく彼。……そして、“僕のことは忘れてください”と、私に言い残して消えたあの場面。その痛みが、もう一度なぞられようとしていることに、心が叫び出しそうになる。
けれど、そんな私の動揺を受け止めるでも、否定するでもなく──安室さんの表情は変わらなかった。

「“漫画の降谷零”なら、そう提案するでしょう」

その言葉が、思いもよらぬ角度から深く胸に突き刺さった。

「でも、僕は──違う」

そのすぐあとに続いた言葉が、心の奥に小さく火を灯した。鼓動の音だけが、自分の耳の中で痛いほど響いている。私はそっと息を呑んだ。

「前と違って、漫画の世界が止まっている今、考える時間があります。……同じ人生を、また繰り返すつもりはありません。あなたの“思い出”になるのも、もうごめんです」

──その言葉に、胸の奥に張り詰めていた絶望が、わずかに揺らいだ。
私はてっきり、また「夢にしよう」と言われると思っていた。再び終わりを告げられるのだと、覚悟していた。でも──そうじゃなかった?
けれど、希望の光に目が眩んで、その先が見えない。そもそも、他に方法なんてあるの?もしこの手に残された選択肢が、また“別れ”だったら?違うと言われても、心の奥底がまだ怯えている。

「……では、何を……?何を描けっていうんですか?」

声が震えた。目の奥に、まだ熱が残っている。色んな感情が、胸の奥でぐつぐつと煮えたぎっていて、彼の言葉の先が怖かった。
すると安室さんは、ゆっくりと胸ポケットに手を入れ、薄い封筒を一枚、テーブルの上に置いた。

「──これです」

私はおそるおそる手に取り、封筒を開く。中には、数枚の絵が入っていた。漫画のコマを一部切り取って、印刷したようなもの。そこに描かれていたのは、マシンガン銃、黒い車、ナイフ──そしてシルバーの結婚指輪。

「……これ、は……?」
「犯人を捕まえるために必要なものです」
「え……?」

震える声で尋ねた私に、安室さんは静かに、けれど揺るぎない口調で告げた。
けれど、理解が追いつかない。思考が回るより早く、喉に詰まった何かが言葉をせき止める。

「──おそらくですが、あなたのお父さんは、今、“漫画の中”にいます。犯人と一緒に」

耳の奥で何かが“きゅう”と鳴った。呼吸が一瞬で浅くなり、肺にうまく空気が入ってこない。

「……ど、どういう……ことですか……?」

やっとの思いで声を絞り出す。それでも安室さんは視線をそらさず、まっすぐに私を見つめて、言葉を紡いだ。

「あなたは以前、僕が狙撃されたビルに“犯人の痕跡が何も残っていなかった”と話したのを覚えていますね?」

私は、ただ頷くことしかできなかった。心の奥底で、認めたくない事実が、静かに──けれど確実に、輪郭を持ちはじめる。

「あれほど大掛かりな狙撃をしたあとで、あそこまで完全に“証拠”を消せるとは、普通では考えられません」

安室さんの声は静かだったが、言葉のひとつひとつが鋭く的を射ていた。

「痕跡を消すには、専用の機材も時間も、人手も必要です。ましてあの場所は、監視カメラや警備システムの整った都心のビル。犯人がたったひとりで処理できるはずがない。……ですが──“何も”残っていなかった」

何も、なかった。まるで最初から狙撃も銃も存在しなかったかのように、完璧に“消されて”いた。その時、頭の中で嫌な予感がすっとよぎる。

「それを可能にする方法が──ただひとつ、存在します」

安室さんは一拍だけ間を置き、ゆっくりと私を見つめた。その眼差しは、深く、真剣で。そこに映っているのは、私だけじゃない。もっと先を、もっと遠くを見ている目。

「……あなたが以前、漫画を使って僕の痕跡を描き変えたように──犯人が、同じ手法を使ったとしたら」
「…………!」

息が止まる。
脳が、何かを拒絶するように固まった。

「今のところ、絵を描き変えられるのは、あなたと作者の2人しかいない。つまり──犯人に脅されて、あなたのお父さんが“描き換えた”。そう考えれば、すべての辻褄が合います」

ぐらり、と世界が傾いた気がした。言葉が、出てこない。寒気にも似た緊張が、背骨を這いのぼっていく。
──父が、犯人と一緒に?そんな、馬鹿な。でも、もし、あのとき──狙撃が起きたそのあと、父が本当にあの世界に“行っていた”のだとしたら?私は、何も気づかずに。何も知らずに、こうして……。

「……っ……」

唇が震える。もしそれが本当なら──父は、もう一ヶ月以上も、あの世界で犯人と共に過ごしていることになる。
あのペンタブから伸びた黒い腕が、頭の中をよぎった。今、無事でいてくれるのかどうかもわからない。

「あなたのお父さんを救い、犯人を捕まえる方法は、ひとつしかありません」

安室さんの声が、はっきりと空気を切った。
その音が、迷いを断ち切るように響く。

「僕たちが一度考えた、“犯人を完全に抹消する計画”──あれを、もう一度実行する必要があります」

思わず顔を上げた。急に胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚。体の中心が、なにか熱を帯びるように脈打っていた。

「でも……どうやって……夢にもできないのに……」

安室さんがここにいてくれることが、どれほど奇跡的で、どれほど大切か──私は、身をもって知っている。けれど、それ以外の方法が私には思いつかない。

「なので──僕が一度向こうへ戻り、犯人を捕まえてきます」

淡々と告げられたその一言に、私は小さく息を呑んだ。
……そんな、簡単に言うけれど──また、安室さんに命の危険があるのではないか。また、二度と会えなくなるのではないか。そう思った瞬間、胸の奥がざわりと揺れる。

「……安室さん……」

声がうまく出なかった。名前を呼ぶことで、なにかを引き止められる気がした。でも、それが無力だということもわかっていた。

「……僕の作戦、聞いてくださいますか?」

その声は穏やかで、けれど、確かな意志を含んでいた。
静かな風が、テラスの木々をかすめて吹き抜けていく。紅茶はもう完全に冷めてしまっていて、その香りだけがまだ、宙にふわりと漂っていた。



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