71
「少し、場所を変えましょう」
そう言われて、車は静かに、そして迷いなく進んでいく。それがどれだけ穏やかな速度であっても、私の心は置いてけぼりだった。
気づいたときにはカフェのお会計も終わっていて、私はまた安室さんに支払いを任せてしまっていたことに小さな罪悪感を覚えた。けれど今は、それを言い出す余裕もない。今から、何かが起きようとしているというのに、落ち着いてなんかいられなかった。
気づけば、車はあっという間に父の家の前に到着してしまう。馴染みのある場所のはずなのに、今はまるで、最後の審判を下される場所のように見えた。
安室さんがエンジンを切り、私の方へ身体を向ける。その目はもう、迷いのない覚悟を帯びていた。
「まず、僕が向こうの世界へ戻ります」
その一言に、胸の奥が小さく跳ねた。
「戻る……?」
「僕が戻れば、おそらく停止している世界もまた動き出すでしょう。あなたは、さっき渡したそれを見ながら、作業場に行って絵を描いてください。タブレットは再び組み立ててあります」
「わ、わたし1人では無理です……!」
反射的に言葉がこぼれていた。そんなに早く話を進めないでほしい。安室さんは淡々と私が手に持った封筒を見ながら説明をするが、全くついていけない。
「タブレットの電源を入れて、また犯人が襲ってきたら……?」
自分でも情けないほどの声。液晶から伸びた、あの黒い“腕”の感触が、まだ首のあたりに焼きついている。しかし、そんな私を安室さんは否定せず、むしろ包むように微笑を浮かべて見つめた。
「それは、僕が解決します」
「どう、やって……?」
聞き返す声がかすれる。安室さんのその言葉の裏には、芯の通った決意があった。
「僕が先に行って犯人を捕まえておけば、あなたに手を出すことはできません」
「……無茶ですよ、そんなの!」
思わず、言葉が鋭くなっていた。そんな簡単に言わないでほしい。どれだけの危険があるか、安室さんだって分かっているはずなのに。一か八か、危険を犯して向こうに戻る必要はない。
「ええ。でも、僕に残された選択肢は、もうそれくらいしかありません。これ以上犯人を野放しする訳にもいきませんし、またあなたに危険が迫っても困ります」
「でも、犯人の居場所は……?潜伏先も、まだ見つかっていないんですよね……?」
「それについてはもう検討がついています」
その即答に、息を呑んだ。安室さんの目にはわずかな濁りも、迷いのかけらもない。まるで、すでにすべてを見通しているかのような口ぶりだ。
「犯人の居場所が……わかったんですか?」
「…はい。この世界と僕の世界、“漫画に出てくるものだけ”が共通しています。歴史上の人物や、特定の場所など。東京大学病院と、米花総合病院が一致していたように」
安室さんは淡々と説明する。私は、その言葉の裏にある構造に思いを巡らせていた。
確かに、漫画にはモデルとなっている現実の場所がいくつかある。東京大学病院は米花総合病院に内装も雰囲気もそっくりだし、警視庁は私の世界のものとほぼ遜色がない。
「つまり──犯人が潜伏しているであろう自宅にも、現実に存在する“元の場所”があるはずです」
胸の奥がざわりと泡立った。
「天沢さんに聞いてきました。背景で犯人の自宅を描いたときに、モデルにした場所を。そこから、向こうでの位置を割り出します」
私が眠っている間に、一歩一歩、安室さんは“戻る”準備をすでに進めていた。それが何より、私を不安にさせた。また彼が遠くへ行ってしまうのではないかという、得体の知れない不安が湧き上がる。
「向こうにはどうやって……?」
「こちらにやって来た時と同じように、タブレットを使います」
「でもさっき、電源を入れたら……って話しましたよね?」
「はい。なのでりかさんの協力が必要です。僕が向こうへ行った瞬間に一度、すぐにタブレットの電源を落としてください」
「私が……?」
その瞳は静かで冷静だったけれど──奥には、何か燃えるような熱が灯っている。これは、ただの作戦の説明ではない。私に命を預けるような、そんな言葉だと私は察してしまった。
「……で、できません。そんなの」
指先が震えて、自分でも驚くくらい拒絶反応がはっきり出た。
私が世界を“行き来する道”を瞬間的に閉じる?それは、まるで“さよなら”と送り出すようで――
「じゃあ、向こうに行って……戻れなかったら、どうするんですか……?行ったきりで、そのまま帰ってこられなかったら……?」
言いながら、自然と視線が落ちていく。でも、それでも止められなかった。止めなければ、また私は“待つ側”になる。何もできずに、ただ、待ち続けるしかない――。
記憶の景色がフラッシュバックする。手術を終え、必死で中庭へ走った日のこと。鼓動が痛いほど早くて、足がもつれそうで、それでも走ったのに――そこには、もう安室さんの姿はなかった。
「前にもありました……。私が“待ってて”って言ったのに……あなたは、いなくなった……」
喉の奥が詰まる。その記憶は、あまりにも鮮烈すぎて、もはや過去とは思えないほどだった。
「外まで走って……必死で探して……でも、どこにもいなくて……」
声がどんどん小さくなって、泣き言のようになっていく自分が、嫌になる。でも、止められない。
「また……同じことが起きるかもって……怖いんです」
「絶対」なんて、信じたかったのに。あの時も、今と同じように、確かな何かを信じていたのに。
その言葉を、吐き出した瞬間、熱いものが目の奥にじわりと滲んだ。涙ではない。ただ、込み上げる想いに、感情の行き場がなくなっているだけ。
しかし安室さんは、それを真正面から受け止めるように、真摯な目を向けた。逃げることも、はぐらかすこともなく、まっすぐに──まるで、私の傷ごと見つめているように。
「──今の僕は、違います」
たった一言だった。でも、その言葉が、固まって動けなくなっていた心の土を、ゆっくりとじんわりと濡らしていく。
「戻れます。……いえ、絶対に戻ります。なので、ここで待っていてください」
それは慰めじゃなかった。優しい約束でもなかった。目の前の彼が“今の自分として”選んだ、確固たる意志。
「……今、僕はここにいます。たとえ記憶を失っても、こうしてあなたの前に」
安室さんは一歩も視線を逸らさず、私を見たまま続けた。
「あなたが過去にどれだけ辛い思いをしてきたか、僕には記憶がないので想像しかできません」
一拍、間を置く。
その沈黙が、言葉より深く胸に響いた。
「それでも、今、あなたの目の前にいる“僕”を見てくれませんか?」
「……っ」
怒っているわけでも、責めているわけでもない。ただ、ひとつの願いとして、まっすぐに差し出された言葉。息を詰まらせたのは、言葉の重さじゃなくて、それが“私の本当の逃げ場”を正確に射抜いていたから。本当はただ怖がっているだけだと。
「……10分で終わらせます。僕が向こうに行ったら、10分後に再びタブレットの電源を入れてください。そして、描く。できますね?」
何か言わなきゃと思うのに、声に出そうとすると喉が閉じてしまう。最後の迷いを隠せなかった私に、安室さんは安心させるようにふっと目を細めて笑った。
「りかさん。僕たちは何度も世界を行き来して、そのたび痛い目に遭ってきました。……もう、十分じゃないですか?今度は僕たちが、この世界の“理”を利用してやりましょう」
目の前のこの人が、何に挑もうとしているのか、私はやっと理解しはじめていた。安室さんは、ただ犯人を捕まえるために戦うのではない。この物語の“構造”そのものに抗う覚悟。――運命を書き換える覚悟。
「……わかり、ました」
それだけを言うのが精一杯だったが、確かに、私は頷けた。
「ありがとう。……必ず、お父さんを連れて戻ります」
その言葉が、あまりにもまっすぐで、眩しくて。私はもう、何も返せなかった。ただ封筒をそっと胸に抱えて、震える手でドアの取っ手を掴む。
外に出ると、冷たい風が頬をなでた。夕暮れの光が、アスファルトの上に長い影を落としている。助手席のドアが閉まる音のすぐ後ろで、運転席側のドアも開いた。
「一緒に、行きましょうか」
「……はい」
すぐ隣でそう言われて、私は小さく頷いた。
無言のまま安室さんに手を引かれて、私たちは父の家の玄関に向かっていく。
家は、静かにそこに佇んでいた。まるで、これから起きるすべてを、ただ静かに見守っているかのように。
*
作業部屋の静かな空気の中、時計の針の音だけがやけに大きく耳に残った。
テーブルの上に、組み直されたタブレットが静かに置かれている。ただの“道具”に過ぎないはずなのに、そこに潜む何か。
私の手の中には、安室さんから渡された封筒。指先に伝う微かな重みが、現実を否応なく突きつけてきた。
「……では、今説明した通りに絵を描いてください」
私は小さく頷いて、その横顔を見つめた。夕暮れの光が部屋の隅に差し込み、安室さんの頬に影を落としている。その顔は静かで、揺るぎのない“覚悟”が宿っている。
「あなたが、信じてくれたので。……だから、行ってきます」
それだけだった。
安室さんは、それ以上何も言わず、タブレットに手を伸ばした。その手が電源ボタンに触れた一瞬、空気が震える。その次の瞬間、安室さんの姿が――すうっと、音もなく消えた。
「……!」
思わず駆け寄ろうとする足が、一歩だけ前に出る。でも、それ以上は動けなかった。心臓が強く打ちすぎて、呼吸が乱れる。
「で、電源……!」
自分に言い聞かせ、震える手をなんとか前へ伸ばしてボタンに触れた。画面がふっと暗くなり、部屋が急に静寂に包まれる。
あの黒い“腕”がまた出てくるんじゃないか。次は自分が引きずり込まれるんじゃないか――そんな恐怖が背中を這う一方で、部屋はあいかわらず静かなままだった。
私は一度深呼吸をし、胸に封筒を抱えたままゆっくりと目を閉じた。安室さんの“最後の一言”だけが、ずっと頭の中で繰り返される。
――「あなたが、信じてくれたので。……だから、行ってきます」
信じるしかない。もう、ここまで来たら――やるしかない。バッグからスマホを取り出すと、ホーム画面のアプリを開いてタイマーを10分にセットした。
深く息を吐き、椅子を引いて机の前に座る。目の前にはタブレット。とりあえず事前に準備しておこうと、写真をその隣に並べていく。
安室さんが私に託したもの。これらを正確に描けなければ、彼は帰ってこられないかもしれない。そう思うと、心臓がまた嫌なほど脈打った。
カチッカチッ
時計の針の音が、カウントダウンのように聞こえてくる。そのたびに、何度も深呼吸して心を落ち着けた。
そして──タイマーのアラームが静けさを切り裂いたとき、私はまっすぐ画面を見つめた。
「……よし」
恐る恐る、タブレットに手を伸ばす。
そっと電源ボタンを押すと、“起動中”の文字が、画面に浮かび上がった。それを息を止めて、見つめる。
……今のところ、何も起きていない。画面はただ、静かに明るさを増していくだけ。そっと胸に手を当てた。良かった。犯人は襲ってこない。
ペンを手に取り、最初の線をそっと引き始めた。
まず描かなければならないのは──マシンガン銃。犯人が使った凶器であり、テレビ局での乱射事件と、安室さんの狙撃に使われたものだ。地面に落ちた薬莢も忘れずに描いていく。
次に黒い車──犯人の逃走車。狙撃されたビルの前に駐まっていたそれを、慎重に再現する。車体の一部にあった凹みまで……できる限り正確に。
それらは犯人が犯行に使った“痕跡”だ。私が描くことで、消された証拠を再び浮かび上がらせることができると、安室さんが言っていた。
そして──ナイフは、あのホテルの屋上で安室さんを刺した凶器。狙撃のときの証拠を消した犯人だ。この時の証拠を残しているはずがないと、ナイフの柄に指紋もつけて描いていく。
そして──最後に残ったのは、指輪。
そこまできて、私はペンを止めた。どうしても、呼吸が整わない。数日だけ、安室さんの左手の薬指に、確かにあったはずのもの。……でも、彼が記憶を失ったと同時に、消えてしまった。
"僕の指にだけないのは、なんだかさびしくて……同じものをあなたの手で、描いてもらえますか?"
そう、安室さんは言った。ごく自然に。
でも、私にとっては違った。じんと胸が熱くなるのを感じながら──静かに、ペンを動かす。
あの時と同じデザインで、同じ輝きで。少しだけ大きめのシルバーリング。そして以前はなかったイニシャルを、内側に見えないほどの小さな“R”で刻んだ。
描き終えたとき、不思議な静けさが訪れた。
すべての輪郭が画面の中で浮かび上がり、こちらを見つめ返してくるようで。私は、もう一度深く息を吸った。
──あとは、安室さんの帰りを待つだけ。そう心の中で呟きながら、私は描き上げた画面を見つめ続けた。この線たちが、彼を連れ戻す“道”になるのだと信じて。
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