72


静まり返った部屋に、時計の秒針だけが音を刻んでいた。描き終えたタブレットはすでにスリープ状態。画面の黒が、空間の静けさを強調している。それでも、何の変化も訪れない。
作業場にいるのが落ち着かなくて、私はリビングのソファとテーブルの間を、何度も行き来していた。手にはスマホを握りしめたまま。繋がらないとわかっていても、時折画面を点けてしまう。

「……来ない……」

つぶやいた声は、誰に届くこともなく、リビングの空気に吸い込まれていった。もう2時間。部屋の中は、夕暮れが完全に色を落とし、夜の気配が満ちはじめていた。照明をつける気にもなれず、ソファの端に座り込んで膝を抱えて身を縮める。

──本当に戻ってきてくれるの…?
たとえ彼が“今度は違う”と誓ってくれたとしても、やっぱり、戻れなくなってしまったんじゃないか。そんな不安な気持ちが、頭の中を掠める。
ただの2時間。されど2時間。けれど、向こうでは何日が経ったのだろう。“待つしかない”ということが、これほどまでに人を無力にする。

「っ……!」

そのとき、身体が反射的に跳ねた。作業場の方からなにか物音がした気がした。
息を呑んでそのドアの先を見つめる。すると、ゆっくりとドアノブが回って、黒い影が姿を現した。一瞬、身体をこわばらせる。
目を凝らすとその先に――まるで何事もなかったように、静かに佇む安室さんが現れた。先程とは服が変わっていて、そのブルーのシャツの裾は少し汚れ、髪は少し乱れて。けれどその姿は、間違いなく、まぎれもなく、“彼”。

「りかさん」

その声に、言葉より先に身体が動いた。感情があふれるよりも早く、足が床を蹴っていた。

「電気もつけずにこんな所で……、っ!」

居間の段差も関係ない。私は気がつけば、その胸に飛び込んでいた。
安室さんの身体が、一瞬、驚いたようにわずかに揺れる。でもすぐに、しっかりと、私の身体を受け止めてくれた。力強い腕が背中に回され、その感触に私は堪えきれず声を震わせた。

「……よかった……っ、ほんとうに良かった……!」

声にならない安堵が、涙と一緒に喉を通り抜ける。震える肩を、安室さんが静かに抱きとめてくれる。

「……言ったでしょう。必ず戻ると」

その低く、落ち着いた声に、胸の奥がじんと震えた。ああ、この人は本当に戻ってきてくれたんだ。私のために、生きて、帰ってきてくれたんだ。

「無事、ですか?」
「……はい」
「大丈夫ですか?」
「……はい」
「怪我をしたところは?」

矢継ぎなしに質問をする私に、安室さんがくすりと笑う。私は安室さんの胸から顔を上げようとして、その目が彼を捉えた瞬間、視線がある一点に吸い寄せられた。
──唇の端。右の口角が、うっすらと赤く染まっている。

「……くち、が……」

思わず手が伸びる。そっと、指先で安室さんの頬に触れて目を凝らすと、他にも小さな切り傷が頬や鼻筋にも入っていた。
それがどれだけ激しい状況を物語っているかは、見ればすぐにわかった。

「怪我してるじゃないですか……!」

思わず声が上ずる。やっぱり、安室さんは命を懸けて戦っていたのだと痛感してしまう。
しかし、安室さんはそのまま私の手を受け入れるようにしながら、ふっと小さく笑った。

「かすり傷ですよ。これくらい、大したことはありません」

その声はいつも通り落ち着いていて、私を安心させようとしているのがわかった。でも、だからこそ胸が痛くなる。

「……ほ、他に怪我をしたところは?」
「大丈夫です。あなたが描いてくださった“物”が、決定的な証拠になって逮捕ができました。今は風見が後処理をしてくれています」

安室さんは何があったのか、あまり多くを語ろうとはしなかった。心配をかけさせたくないのか、それ以上私も何も口を挟めない。けれど無事に目の前にこうして現れてくれたことに、私は胸をなで下ろしながら、小さく息を吐いた。

「よかった……」
「それに、指輪も──この手に、戻ってきました」

安室さんがふと左手を上げる。夜の月明かりが、その指先に宿る銀の光を照らし出した。左手の薬指。消えてしまったはずのその指輪が、今また彼の指に戻っていた。

「私が描いたから……」
「そうですよ。今度はあなたからの贈り物ですね」

胸の奥が、ぎゅう、と熱くなる。
言葉にならないほどの想いが込み上げて、気づけば、視界が滲んでいた。こんなにも、嬉しくて、ほっとしたのは……いつぶりだろう。

「もう……犯人が現実に干渉してくることは……ないんですよね?」

涙を拭いながら、私はかすかに震える声で問いかけると、安室さんはゆっくりと頷いた。

「はい。“変化数”さえなければ。あの存在が再び現れることはありません」
「変化数……?」
「……念のため、想定外の動きには警戒しておきましょう。ですが、事前にすべて調べ上げてあります。犯人が完全に抹消されるまでは油断できませんが――今のところ、不安要素は見当たりません」
「……良かった……」

胸がじんわりと温かくなっていく。私は、もう一度、安室さんにぎゅっと抱きついた。
安室さんは何も言わず、そっと私を抱きしめ返してくれる。彼の腕が、優しく、でも力強く私の背を包む。そのぬくもりに、身体の奥底まで、安心が染み渡っていくようだった。

──やっと、終わったんだ。
あんなにも恐ろしくて、あんなにも苦しくて、終わりの見えなかった事件が。長かったようで、それでも振り返れば、あっけないほど突然に幕を引いた気がした。実感があまりない。
でも、安室さんが戻ってきてくれた。犯人は捕まり、指輪も手元にある。こんなにすべてが揃った瞬間を、どれだけ夢見てきただろう。
──もう、あの黒い影に怯えなくて済む。もう、これ以上、彼を失わずに済む。

「……戻ってきてくださって、ありがとうございます……」
「僕の方こそ、感謝しています。ずっと待っていてくださって、本当にありがとうございます」

安室さんのその言葉は、この瞬間のことだけではないような気がした。
でももう、記憶なんて、私はどうでもよくなっていた。ここにいる彼が、あの頃の彼と同じではないとしても。それでも、こうして無事に帰ってきて、私のために戻ると誓ってくれたこと。その“今”があるだけで、もう十分だった。

「あっ、あの……お父さんは……?」

思い出したように顔を上げて尋ねると、安室さんは微笑を湛えたまま頷いた。

「無事ですよ。ただ……向こうの世界で、あなたと同じように、かなりの時間を過ごしていましたから。過労もあって、今は作業部屋で深く眠っています」

その言葉に、私は思わず作業部屋の方へ顔を向けた。開いた扉の向こうに、椅子に身を横たえる父の姿が見えた。目を閉じて静かに眠っているその顔は、かつて見たどんな姿よりも疲れて見えた。

「……お、お父さん……!」

駆け寄ろうとした私の腕を、安室さんがそっと軽く押さえた。その手のひらの温もりが、私の焦燥を落ち着けてくれる。

「病院へ運びましょう。僕が車を出します」
「は、はい……!」

私は息をのむように返事をし、急いで準備をした。ソファに置いたスマホを手に取り、自分の病院に電話をかけながら、玄関の隅で靴を履く。安室さんがその間に父を背負って、車まで運んでくれていた。
玄関の鍵を閉めて、車まで行くと、助手席のドアを開けて車に乗り込んだ。後部座席に目を向けると、父が目を閉じたまま静かに横たわっている。

「お父さん……」

声をかけても、返事はなかったけれど、呼吸は穏やかで、顔色も悪くない。見たところ、怪我をしている所も無さそうだ。

「……よかった……本当に……」

安室さんが運転席に乗り込む音がした後、静かに車が動き出した。長い夜が、ようやく明けはじめたことに、私はもう一度息を吐き出した。
──生きていてくれて、よかった。
──ちゃんと約束を守って、戻ってきてくれて、よかった。
──指輪が戻ったことも、父が無事だったことも、全部、全部――

ひとつひとつの「よかった」が、胸の奥に積み重なって、気づけばそれらが、こらえていた涙のかたちになってこぼれ落ちていた。



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