73


病院の廊下の椅子に腰掛けて、私はずっと父の検査が終わるのを待っていた。安室さんも何も言わず、隣の席に静かに座っていてくれた。
ときおり、私が大きく息を吐くと、それに合わせるように、ほんの少しだけ視線を向けてくれる。私の右手の上に、そっと重ねられた安室さんの手が、何度も冷えた指先をあたためてくれていた。

ふと、扉の向こうから軽い足音が近づいてくる。検査が終わったのだと悟った瞬間、私は反射的に立ち上がった。医師が扉を開け、中へと招き入れてくれる。中では父がベッドの上で穏やかに眠っていた。

「……検査の結果、特に重篤じゅうとくな異常は見られませんでした。過労と軽度の脱水症状のようです。点滴を打って、しばらく休めば回復するでしょう」

その言葉を聞いて、安堵に息を大きく吐き出した。安室さんの手が、重ねたまま少しだけぎゅっと力を込めてくれる。

「何か変化があればすぐにナースコールを押してください」
「はい。ありがとうございました……」

医師は柔らかく頷くと、病室を後にした。静寂が戻った室内。私はそっと父の傍に近づく。
点滴の針が刺さった腕。モニターに繋がれたコード。けれど、呼吸は穏やかで、顔色も落ち着いていて、ただ眠っているだけ──そう思える姿に、またひとつ、肩の力が抜けていく。

「よかった……」

そっと息を吐き出したそのとき、病室のドアがノックもなく開いた。

「宮間!」
「……あ、あおき……」

現れたのは、白衣姿の青木。思わずパッと繋がれていた安室さんの手を離してしまう。青木はわずかに息を切らせながらも、いつもの調子で片手をあげてみせた。

「急だったけど、空きベッドの確保と入院手続き、全部終わったから。教授は今日は非番で助かったな。……で、検査結果は?」
「過労と脱水だけで……あとは休めば大丈夫って……」
「そっか、良かった」

青木はゆっくり頷いて、ベッドに目をやる。
今回の急な搬送にもかかわらず、彼に連絡を入れると、すぐに病室をひとつ確保してくれ、必要な手続きをすべて引き受けてくれた。そのおかげで、父は今こうして穏やかに点滴を受けて横たわっている。私は小さく頭を下げた。

「本当にありがとう。助かった……」
「いや、大丈夫だけどさ……」

青木はぽりぽりと頬をかきながら、少し気まずそうに目をそらした。

「この前はお前が過労で運ばれてきて、今度はお父さんってのがさ。……大丈夫か?」
「……う、ん……たぶん」

咄嗟には何も答えられなくて、私は曖昧にそう返すことしかできなかった。事実を説明する術もなく、話を逸らすこともできず、ただ苦笑いを浮かべる。

「……りかさん、彼は?」

そこへ、そっと右隣から声がかかる。何かを探るような顔で私を見つめるその安室さんの視線に、ようやく思い出したように慌てて口を開いた。

「あ、えっと、彼は私の同期で青木っていって…。この病院で一緒に働いてます」

私が慌てて説明すると、青木は軽く会釈した。その動作ひとつに、どこか探るような茶目っ気が混ざっていて、私は内心嫌な予感を覚える。

「どうも。……って言っても、たぶん以前、一度お会いしてますけど」
「……以前?」

不思議そうに首を傾げた安室さん。その視線が青木に向くのを横目で感じながら、私は胸の奥がざわつくのを必死で抑えていた。

「春くらいでしたっけ?お兄さん、こいつの彼氏だって嘘ついて、この病院まで訪ねてきたじゃないですか」

その言葉に、私の心臓が一気に跳ね上がった。
やっぱり、青木は安室さんのことを覚えていた…!と焦る一方で、何その言い方は…!は叫び出しそうになる。あのときのことは、安室さんの記憶にはないのに。
どうしよう。ごまかす?否定する?けれど、何をどう言っても、余計に変に聞こえてしまう気がして、ただ一人内心慌ててしまう。そんな私の戸惑いを察したように、安室さんはふっとその横顔を緩めた。

「……ああ、あの時の。その節はどうも」

その声は驚くほど自然で、演技なのか、本当に覚えているのか、一瞬では見分けがつかないほど。穏やかな目元のまま、少しだけ細めた視線が青木に向けられた。

「すみません。興味のないことはすぐに忘れてしまうみたいで」

なんて切り返し。一見柔らかな物腰のなかに、ほんの少しだけ鋭さが滲んでいて、私の背筋にぞわりと冷たいものが走る。冗談とも受け取れるような言い回しなのに、安室さんのその言葉に空気がわずかに張りつめた。

「恋人って雰囲気じゃなかったし、嘘だってすぐにわかりましたけど」

青木もあくまで笑ったままだけど、その視線には、安室さんの反応をじっと観察するような、鋭い色が潜んでいる。
青木の指摘に、私は苦笑しかけて――でも、言葉を飲み込んだ。たしかに、あのときはどこかちぐはぐだったけれど、今は……違う。

「金髪だったし、俺は印象に残ってました。こいつに会うために、何か必死に理由をつけて病院まできたのかなあって」
「おかげさまで、彼女と出会えました。ありがとうございます」

安室さんの返しは穏やかなのに、どこか静かな圧を含んでいる。その言葉の真意に気づいたのか、青木の眉がわずかに動いた。
なぜだろう。頭の上で繰り広げられる会話の温度が、徐々に上がっている気がしてならない。

「大学時代からずっと見てきてるんで。こいつの変化には敏感なんですよ」
「へえ。そうですか」
「表情とか、体調とか──この前倒れたときも、やっぱりって思いましたし。だからこいつに彼氏ができたら、俺が一番に気づくはずなんです」
「……それは頼もしいですね。そんな "同期"、が彼女の職場にいてくださると僕も安心です」

なんだろう、この会話。どちらも笑っているのに、どこか剣呑で、体の奥にぞくぞくするような緊張感が滲んでいる。
この2人はもしかして、鉢合わせてはいけなかったのでは?混ぜてはダメな2人だったのかもしれないと一人焦る。

「はい。"同期"、として変な男に捕まらないよう見張ってないといけないんで」

私が口を挟む間もなく、勝手に進んでいく会話。戸惑う私の思考をよそに、2人は表面上は穏やかに、しかし確実に空気の温度を上げていく。

「ただ――」

そこでふと、安室さんの声色が変わった。柔らかく、けれどどこか含みを持たせるような一言。一拍置いて、ゆっくりと青木に視線を向ける。

「……これからは、本当に“彼氏”なので」

その言葉に、青木の眉がぴくりと動いた。
そして、私も反射的に目を見開く。頬に熱が上がるのを感じて顔を両手で挟んだ。安室さんは相変わらず冷静なようで、静かな笑みを湛えている。

「ですから、次に彼女が倒れそうなときは、僕が一番に気づきます。……いえ、そもそも倒れさせません」

さらりと言葉にしないでほしい。はじめて"彼氏"だと明確に宣言されて嬉しいことに変わりはないが、そんなことをこんな空気の中で言われると、心がついて来ない。まるで急に火がついたみたいに、熱を帯びていく頬。

「……へ、へえ。そうすか」

青木の一見穏やかな笑みの奥に、微かに戸惑いが滲んでいる。私は思わず助けを求めるように安室さんの方を見上げたけれど、安室さんは特に表情を変えず、ただ当然のことを言っただけのような顔をしていた。
私には、この状況をどうやって収拾すればいいのか、まるでわからない。

「あ、あの──」

頼りない私の言葉が、かろうじて空気をなだめようとしたそのときだった。
ガラッ!!
扉が勢いよく開き、突然の衝撃音に私は飛び上がりそうになる。瞬間、視線が一斉に入口へと向いた。

「先生…!!先生が戻ったって聞いて……っ!」

息を切らせて現れたのは、天沢くん。両手に紙袋を抱えたまま、明らかに全力疾走してきた様子だった。額に汗をにじませ、眼鏡を押し上げながら一歩、二歩と駆け寄ってくる。

「よかった……本当に無事で……!ていうか、りかさんなんでもっと早く連絡くれないんですか!心配したんですよ、もう!」
「えっ……あ、うん、ごめん……」

私は思わず謝る。タイミングも構わず飛び込んできたその勢いに、安室さんも青木も一瞬だけぽかんとした顔になっていた。

「ほら、差し入れ買ってきたんです!体力回復には甘いものって、ネットに書いてあったんで……!プリンとかゼリーとか、あとなんか栄養ドリンクも……!」

天沢くんは必死な表情のまま、紙袋をベッド脇のテーブルに置き、次いで父の様子を確認するように顔を覗き込んだ。

「先生……よかった、寝てるだけ……」

すごく慌てた様子の天沢くんの声が、逆に私の落ち着きを取り戻してくれる。なんだか天沢くんが救世主のように見えてきた。しかし、そこでようやく天沢くんも、室内の“異変”に気づいたようだった。

「……あれ?」

天沢くんの視線が、私と、そして安室さんと、青木のあいだを往復する。その目がじわりと細まり、口元が妙に硬直した。

「……え、なにこの……三角ぽい空気……。僕来ちゃまずかったですか……?」
「き、気のせいだよ…!来てくれてありがとう、天沢くん!」

即座にそう返したのは私。隣ではにっこりと笑う安室さんと、どこか困った顔をしている青木。私は目を白黒させて小さくなった。
なんとかこの状況を収拾しなければと焦る私をよそに、青木が肩をすくめながらため息をついた。

「……俺当直だし、そろそろ行くわ」
「あ、うん。ありがとう青木。また次の出勤のとき……」

私の言葉を最後まで聞かずに、青木は病室を出て行ってしまった。私はぽかんとその光景を眺める。怒ってる…?彼氏ができたのを言わなかったから?…いや、三角関係がだめだったのかも。勝手に安室さんのライバルにされて、青木が怒るのも無理ない。
私の横に立つ安室さんが、ふと、視線を向けてくる。目が合った瞬間なんとか笑い返したものの、また思い出したように熱が上がった。なのに安室さんは、どこまでも落ち着いていて──動揺しっぱなしの私を宥めるように、ぽんぽんと背中を叩いてくれる。またそれが恥ずかしくて、両手の中に顔を埋めた。

「あ、りかさん!今夜は僕が先生の側にいるので帰ってもいいですよ!」
「え?……で、でも」

思い出したように言った天沢くんの声に、思わず顔をあげる。にっこりと笑いながら私たちを観察しているその様子は、何かろくでもないことを考えているようにしか見えなかった。

「まだりかさんも本調子じゃないんですし、家で休んでてください」
「いや、私も医者だしお父さんと……」
「はーい、とっとと帰った帰った!……降谷さん!りかさんをお願いします」
「わかりました」

とんとん拍子で進んでいく会話。なぜか、私を追い出す口実のようにしか聞こえない。
でも、たしかに私はまだ一応病み上がりで、安室さんも犯人と対峙してきたばかり。私はともかく、安室さんは今とっても疲れているはずだ。
有り難く、今夜はその天沢くんの言葉に甘えることにした。天沢くんがにっこり手を振る中、安室さんに背中を押されて病室を後にする。
戸惑う隙もないような見事な流れ。けれど、それでいいと思ってしまうのは、この背中にある温もりのせい。




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