74


夜の10時。舗装されたアスファルトの上に、車が静かに滑り込む。安室さんが丁寧に車をバックで駐車すると、エンジン音が途切れ、静けさだけが車内に残った。私のアパートの駐車場。ようやく勝ち取ったレシートを手に、私は大きなため息をついた。

「……もう、私に払わせてくださいって散々言いましたよね?」
「はい。でも、レジの前であんなに必死に説得されるとは思いませんでした」

くすくすとおかしそうに笑いながら、安室さんは運転席のドアを開ける。街灯の光が、彼の頬のラインを浮かび上がらせるのを見ながら、私はさっきのことを思い返していた。
目的は、安室さんの“今夜”に必要な最低限のものを買い揃えること。歯ブラシ、着替え、下着、それから小さな洗面道具。遅い時間でドラッグストアはすでに閉まっており、開いていた唯一のコンビニで、やや妥協した形での買い出しとなった。
その時、レジ前で支払いをめぐって小さな攻防戦が起こったのだ。私の必死の説得に、安室さんは仕方なく手を引いたものの、どこか不服そうに眉をひそめていた。でも、これまでずっと支払ってきたのは安室さんの方だ。私のために、私の知らないところで、どれだけ動いてくれたか想像もつかない。そのことを思えば、これから私が出すのは当たり前の流れだと、一人頷きながら私も車を降りる。

「でも、安室さん。パジャマも、洗面道具も、全部……やっぱり、ちゃんとしたものを明日買いに行きましょう。こんな簡易なもので済ませるのは、なんだか申し訳ないです」
「いえ、また今度にでも向こうの世界からいくつか持ってこようと思います。今後のために」
「……た、たしかにその方が早いかもしれないけど……」

でも、何があるかわからないし、今度こっそり先回りして買っておこうと密かに決意する。こうしてひとつずつ、安室さんとの不思議な生活が始まっていくのだと思うと、妙な緊張と照れが同時に湧いてきた。
でも、たぶん、ずっとここにいられる訳じゃない。向こうには安室さんの生活の基盤がある。そして、ここには私。けれど、それでも何でも良かった。

玄関の鍵を開けると、明かりを点け、安室さんにスリッパを差し出す。受け取る手の先にあるその顔に、ほんのりと疲れの色が滲んでいた。
今日一日――いや、この数か月間、どれほどの緊張を抱えて戦っていたのか。想像するだけで胸が詰まる。

「……お疲れさまでした。疲れてるのに、父のことまで……」
「いえ、とんでもないです。りかさんもまだ本調子じゃないのに、思ったより帰りが遅くなりましたね」
「私は全然。安室さんも、父も、無事だったからそれだけで十分です」

そう答えながらリビングへ向かう廊下を歩く。安室さんは私には想像もつかないほどの密度の時間を過ごして──また私の傍に来てくれた。
けれど、この人はいつだって人のために動きすぎる。自分の疲れや痛みは後回しで、それでも笑っている。そんなところが、ずるいくらいに優しい。

「とにかく、すぐお風呂沸かしますね。待ってるあいだ、ソファで座っててください」

すぐにお風呂沸かして、タオルも置いて、あったかいお茶……いや、その前に冷蔵庫、何か入ってたっけ?
頭の中で段取りを組みながら洗面所へと歩いていると、背後でふわっと小さな気配がした。
……あくびの音。
振り返ることはしなかったけれど、噛み殺したその小さな音が、妙に胸に響いた。あんなふうに力の抜けた安室さんの気配を感じるのは、はじめてだ。ずっと、気を張っていたのだろう。それでも隠し通して、誰にも弱さを見せなかった人が、こうして今、私の後ろにいて、少しだけ気を抜いている。

今日は……ちゃんと、休んでもらおう。
心の中でそっと決意して、私はお風呂場のドアに手をかけた。浴槽を洗い、お湯はりのスイッチを押す。
そしてリビングへ戻り、冷蔵庫の扉を開けると、中はやっぱりほとんど空っぽだった。ペットボトルの水と、使いかけのバター、それから期限ギリギリの卵が数個。ため息をつきかけたけれど、それもすぐに引っ込めた。

「……すみません。冷蔵庫、すっからかんでした」
「お忙しいのでしょう。色々ありましたし、医者は激務だと聞きますし」

ソファには、すでに安室さんが腰を下ろしていて、背もたれに軽くもたれかかっていた。シャツの袖を少しだけまくった姿は、どこかいつもより柔らかく見える。

「でも、安室さんの方こそ激務のはずなのに、ちゃんと自炊してますよね?」

思わず口を尖らせながらそう言うと、安室さんの目元が優しく笑っていた。…否定はしないんだ、と思わず私まで私まで笑ってしまいそうになる。

「何か食べますか?おにぎりと卵焼きくらいなら……」
「いえ、大丈夫です。僕のことは気にせず、りかさんも休んでください」

ソファの背に少し深く体を預けながら、頭だけをこっちへ向けて安室さんはそう言った。

「お風呂、あと10分もすれば沸くと思います」
「ありがとうございます」

冷たい空気を吸い込んで、冷蔵庫を閉める。
部屋の中には、あたたかい空気だけがゆっくりと満ちていった。










お風呂から出てリビングに戻ると、安室さんがキッチンに立って水を飲んでいた。さっき買ったばかりの、白いTシャツ。濡れた髪はざっとタオルで拭かれただけのようで、普段より少しだけ無防備に見える。その姿が、なんだか少しだけ、嬉しかった。
私もその隣に立って、沸かしておいたポットでお茶を淹れ、カップにそっと注ぐ。静かに湯気が立ちのぼって、心まであたたかくなっていくようだった。

「安室さんもどうぞ。熱いので、気をつけてください」
「ありがとうございます。……いい香りですね。これ、玄米茶ですか?」
「はい。寝る前によく飲むんです……」

カップを手渡すと、安室さんは小さく頷きながら口元を緩めた。そしてゆっくりと一口、音も立てずにすする。あいかわらず、所作がとっても綺麗で洗練されている。思わずぽーっと眺めている自分に気がついて、慌てて視線を逸らした。
どちらともなく一緒にソファに腰を下ろし、自分のカップに口をつける。あたたかさが体の内側に染み込んで、静かな夜がいっそう深くなる気がした。

「……今日は、本当にいろいろあって。父のことも、犯人のことも…まだあまり実感が……」

言いかけて、言葉を切る。自分でもなにを伝えたいのか、まだ整理がついていない。そんな私の様子を察したのか、安室さんはやわらかく言った。

「ゆっくり話しましょう。急がなくていいですから」

思わず照れくさくて笑ってしまうと、安室さんもふわっと微笑んだ。
カップに手を添えたまま、私はふと隣に座る安室さんの横顔を見た。あたたかい沈黙が流れている。すこしずつ、心の鎧がほどけていくような安心感があった。

「……安室さん。あの、ひとつ聞いてもいいですか」
「もちろん」

安室さんはローテーブルにカップを置き、まっすぐこちらを向く。その静かな目に、また心が揺れる。

「いつ……向こうへ帰りますか?ずっとここには、いられないんですよね……?」

そっと視線を落としながら問いかけた声は、夜の静けさに溶けてしまいそうなくらい、か細かった。湯気の立ちのぼる先で、安室さんが動きを止める気配がする。しばらくの間、沈黙が流れた。

「──明日の朝には、戻ります」

その言葉が落ちた瞬間、心のどこかに張っていた糸が、ひとつ静かに切れたような気がした。
わかっていた。ここが“本当の居場所”じゃないことも、いつかまた戻ってしまうことも。でも、いざ現実として突きつけられると、やっぱり胸が痛んだ。
ふいに視線が落ちる。睫毛の影が、カップの縁に揺れた。

「ですが──明日の夜には、また来ます」
「……え?」

思わず顔を上げると、安室さんは静かにこちらを見ていた。そのまなざしには、穏やかな決意のようなものが宿っている。

「時間を見つけて、できるだけ来られるようにしますよ。向こうとこちらでは時間の流れが違いますから、現実世界のほうが遅い分、あなたは“ほとんど毎日のように”会えることになるかもしれませんね」

そう言ってふっと笑う。

「向こうで1ヶ月を過ごした後でも、こちらに来れば……あなたの世界ではほんの数時間か、一日、二日程度しか経っていない。心配しなくても、またすぐ会えますよ」

そう言って微笑むその言葉が、静かに、深く胸の奥にしみこんでいく。思わず視線をそらして、唇の端にそっと指を当てた。頬が、むず痒い。うれしい。何度でも来てくれるなんて──それだけで、どうしようもなく心が温かくなる。

「……じゃあ、たまには、私の方から行くのは……どうですか?ほら、私がそっちに行っても、ほとんど生活に影響もないし……」

気づけば、そんな言葉がぽつりとこぼれていた。

「それはダメです」
「ど、どうして……」

しかし安室さんは、すぐにきっぱりと首を横に振る。思わず聞き返すと、安室さんは呆れたような顔でこちらを見つめ直した。

「あなたという人は……いいですか?数日前に向こうで時間を過ごしすぎて過労で倒れたばかりというに。もしまた同じことが起これば……身体への負担が大きすぎます」
「そ、それは……」
「だめです」

もう一度、はっきりとした口調で、まるで小さな子どもに諭すように言われた。そこまで言われると、私も何も言えない。でも、これまでだって何度も行って大体は大丈夫だったのに。なんだか腑に落ちない。

「あなたは、あなたの世界で過ごしてください。僕が来ますから。いいですね?」
「……わかりました」

渋々こくりと頷いて、お茶のカップをテーブルに戻す。ほんのり温まった胸の奥に、どこか寂しさと安心が入り混じった気持ちが広がっていく。
しばらく言葉少なに並んで座っていたけれど、沈黙は不思議と居心地が悪くなかった。

「……そろそろ、寝ましょうか」

安室さんが穏やかな声で言った。
その一言で、時計を見ればもう日付をまたいでいる。明日の朝には、彼はまた向こうの世界に戻る。わかっていたはずなのに、思ったよりもその現実は、ずっと胸に重たくのしかかってきた。

「寝床に、ソファを使わせていただけますか?」

そう言って立ち上がった安室さんに、私は黙って顔を向けた。ほんの少し、呼吸が浅くなるのを自分でも感じる。言うべきか、言わないべきか。そんな迷いが胸をよぎるけれど――それでも、いま言わなければ、きっと後悔する。 

「……じゃあ、ひとつだけ。お願いしてもいいですか?」

言葉を選んで、私は唇を開いた。安室さんが、すっと目線を私に戻す。一瞬だけ首を傾げて、優しい声で尋ねた。

「なんでしょう」

うつむきかけた視線を持ち上げると、視線が絡む。私は一度だけ深呼吸をした。喉が乾く。でも、もう迷っている時間はない。

「……一緒に寝たいです」

い、言ってしまった。自分の声は思ったよりも小さくて、震えていた。
恐る恐る安室さんの表情を確かめると、目がわずかに見開かれていた。驚いたのか、それとも何かを悟ったのか。ほんの一瞬の沈黙が、やけに長く感じられる。

「……りかさん」

いつもよりゆっくり名前を呼ばれた。困ったようなその声に、私の胸がどくどくと波打つ。

「……気持ちは嬉しいです。ですが、それはいくらなんでも、警戒心がなさすぎます」

やっぱり……。安室さんは言葉を慎重に選んでいた。優しいけれど、どこか苦しげで。きっと彼の中でも、踏み越えていい一線なのかどうかを、天秤にかけているのだろう。けれど、私の中にある想いはそれでも崩れない。

「"一緒に眠る"という意味をあなたは……」
「でも安室さん、明日の朝には帰ってしまうんでしょう?」

私はそっとかぶせるように言った。
わかっている。安室さんには記憶がないことも、私だけすべてを覚えていることも。だけど、そうやって理屈で納得しても、感情はどうしても追いつかない。

「だったら……一分一秒でも長く一緒にいたいです」

言葉が、喉の奥で震えていた。恥ずかしさより、寂しさの方がずっと大きかった。

「別に……何もしなくていいです。ただ、隣にいてくれるだけで、嬉しいです。安室さんにもソファではなく、ちゃんと休んでほしいし、それに離れたくないって思ってしまって……」

思いのすべてを出し切ったように、私は唇を噛む。誰もいない世界で、彼のいない場所で、どれほどの日々をひとりで過ごしてきたか。どれほどの時間、彼を想って眠れなかったか。そのすべてが、このたった一晩の重さになっていた。
静かな沈黙が落ちる。私は、安室さんがどう答えるかを、ただじっと待つしかなかった。

「……わかりました」

観念したようにそう言った安室さんは、一瞬だけまなざしを落とし、それからゆっくりと私の手を取った。温かな掌が指先からそっと絡む感触に、胸の奥がじわりと熱くなる。

「あなたがそこまで言うなら……いいでしょう」
「ほ、ほんとうに……?」

思わず声が上擦る。安室さんは私の手を軽く引いて、私をソファから立ち上がらせた。
自分で提案しておきながら、まさか受け入れてもらえるとは思っておらず、自然と口角が上がっていく。

「じゃあそこのクッションを枕に……」
「ただし──何が起きても、文句は言わないでください」
「えっ……?」

しかし、予想と反していた反応に目を見開いた。クッションを掴もうとした私の手を、安室さんは引いて歩き出す。
言葉が出ないうちに、寝室の扉が開かれた。灯りの落ちた部屋。視界の端にベッドが映った瞬間、手を引いていた安室さんの動きがふと止まる。振り返った安室さんが、ベッドの淵に腰掛け、ゆっくりと私の顔を覗き込んできた。

「……後悔しませんね?」

目が合った。そこに浮かぶのは冗談では済まされないほどの本気。私を試すように見つめてくる。
下から見つめられて、一瞬で、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。

「そ、それはどういう……」

ようやく絞り出した声は、思った以上に震えていた。
どくんと跳ねた心臓の音が、今にも部屋に漏れ出しそうだ。肩にかかった髪がふわりと揺れただけで、頬の火照りが広がっていく。どうしてこんなに近くで、こんな目で見つめてくるの……。

「……そ、そんな目で見ないでください」

かろうじて声を出し顔を逸らすも、安室さんはそのままむしろ少しだけ身を屈めて距離を詰めてきた。

「そんな目って、どんな目ですか?」

低く、甘く、耳に落ちてくる声。ますます息が詰まりそうになって、私は思わず目をぎゅっと閉じた。その瞬間だった。

「……ふ、ふふ……ふふ」

一拍遅れて、安室さんの肩がかすかに震えはじめた。途端に、押しとどめていた感情が溢れだしたように、声を上げて笑い始める。
安室さんが、ふっと表情を崩し、穏やかな笑みを浮かべる。優しさに包まれていながら、その裏に刃のような甘さを忍ばせた、危うい笑顔。

「もしかして、からかってますか……?」
「……バレました?」

わざと語尾を尖らせて、思い切り不貞腐れた声で尋ねると、安室さんはあっさりと、しかもどこか得意げに答えた。まるでいたずらを仕掛けられたような気分になり、思わずはあ、と小さく溜め息がもれる。

「どうやら僕は、りかさんの戸惑った顔が好きみたいです。表情に出やすい」

安室さんはまったく悪びれる様子もなく、くすくすと笑っている。なんだかやるせなさに、呆れるやら恥ずかしいやらで言葉が出ない。なんだ、それなら照れて損した。そう思った瞬間、不意に掴まれていた手を引かれた。

「わ──っ」

気づいたときにはもう遅くて、背中に温かい腕がまわり、私はそのまま正面から抱きしめられるような形でベッドに押し込まれていた。胸の奥で跳ねた心臓の音が、自分でも驚くほど大きい。
身体をぎゅっと固めた私の様子を察したのか、安室さんは小さく笑って言う。

「そんなに緊張しなくても、寝るだけですよ」
「わ、わかってます……!」
「ほんとうに?」

安室さんのくすくすと笑う声が、暗がりの中でやわらかく響いた。

「心配しないでください。あなたが望まないことは、絶対にしませんから」

その一言に、まぶたの裏がじんと熱くなる。
ずるい、ずるいけれど、どうしようもなく胸が高鳴ってしまう。からかわれてるってわかってるのに、嬉しくなってしまう。頬に熱が差して、心のどこかがくすぐったくて、痛いほど甘い。
そしてしばらくの静寂。隣で感じる呼吸のリズム。ぬくもり。

「おやすみなさい」
「……おやすみなさい、安室さん」

そっと囁かれて名前を呼ぶと、わずかにシーツが動いた。安室さんがこちらを向いたのだとわかる。

「今日は……“零”って、呼んでくれないんですか?」

頭の上から落ちたその低い声が耳に触れた瞬間、息が止まりそうになる。

「っ……それは……また、今度……」
「ふふ、そうですか」

彼の笑い声を最後に、私はそっと目を閉じた。
ぴたりと並んだふたつの鼓動。誰にも見せない無防備さのなかで、私は今、この人の隣で眠る幸福を確かに感じていた――。




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