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朝のレジデント室には、まぶしい朝日が斜めに差し込んでいた。棚の隅に置かれた観葉植物の葉が、わずかに揺れて光を反射している。外の喧騒はここには届かず、控えめな冷房音と、たまに遠くのナースコールが鳴るくらいだった。

私はパソコンの前に座り、マウスにそっと手を添えていた。スクロールを回すたびに、液晶画面の中の“彼”の表情がゆっくりと動いていく。
そこには、あの顔もあった。私の父に、あまりにも似た男──“犯人”が、警察署の取調室で取り調べを受けているシーン。
画面の中のその男は、"何かの間違いだ"と依然として容疑を否認している。けれど、証拠はすでに揃っていた。私が描いたからだ。監視カメラの映像も、目撃者の証言も、銃痕の軌道さえ一致している。あとは手続き通りに送致され、裁判の場で結末を迎えるだけだろう。漫画の展開としては──きわめて順調に進んでいる。

「……よかった」

思わず、小さく息を吐いた。これなら、きっと安室さんの言う変化数は発生しない。あんな恐ろしいことは、この世界では二度と起こらないはずだ。
けれど。ふと指が止まり、画面を見つめる。

「でも、なんか引っかかるんだよね……」

思わずつぶやいていた。父はまだ意識を取り戻していないにもかかわらず、漫画は、ひとりでに淡々と物語を進めていく。
何も起きてないし大丈夫だとは思うけど……。そう思いながら目を伏せ、机の隅に置いたスマートフォンに手を伸ばす。今のこの引っかかりを、誰かに伝えたくなった。この感覚を共有できるのは、あの人しかいない。
画面をタップするとコール音が数回鳴る──やがて、ふわりとした声が応答した。



『──え?漫画、今頃読んだんですか?アップされてから、ずいぶん経ちますけど』
「手術中だったの。今、やっと落ち着いて見たところ」

冷たい皮肉にも聞こえる天沢くんの言葉に、少しだけ眉をひそめながら返す。

『たしかにひとりでに進んでますけど、順調ですよ。心配しないでください』
「でも……まだ犯人は抹消されないの?捕まってから、もう結構経つよね?」

目を画面に戻しながら、つぶやくように訊いた。取調室の犯人は焦りの色も見せず、ただ静かに椅子に座っているだけ。その表情が、やけに無表情で、感情の底が見えない。お父さんって、こんな顔だったっけ…と、心の中で呟く。

『……僕だって、そんなのわかりませんよ。降谷零に直接聞いてください。彼の方が詳しいんじゃないですか』
「でも、安室さん……絶対に教えてくれないんだもん」

力なく笑いながら、私は椅子の背もたれに身を預けた。思い返すのは、これまでの会話の断片たち。タイミングを見計らってそれとなく聞いてみても、安室さんはいつも優しく笑って、「気にしなくていいですよ」と言葉を濁した。そのたびに、私はそれ以上踏み込めず、飲み込んでしまう。
──きっと、私に心配をかけたくないのだ。それだけは、よくわかっている。

『こっちと向こうで、時間の流れ方が違いますし。はっきりとは言えませんけど……僕が思うに、もうすぐ犯人は消されると思います』
「そうだといいんだけど……」

ぼんやりとした返事になった。ディスプレイの光が目にしみる。外は日がどんどん強くなり、レジデント室の窓から差し込む光も少しだけ色を変えていた。

『……そういえば、降谷零さんは今どこに?』
「ああ……今は向こうに戻ってる。でも、またすぐにこっちに来るって言ってたから……じきに会えるんじゃないかな」
『本当ですか?忙しい人ですね、全く』

思わず小さく笑ってしまう。そう、忙しいのだ──あの人は。誰かのために動いて、誰にも見えない戦いを抱えている。そしてその隙間を縫うようにして、こうして私のもとにも来てくれる。
無理をしていないか。疲れていないか。これも一度、尋ねてみたことがあった。けれど安室さんは、僕が来たくて来てるの一点張り。嬉しくも心配で、彼の優しさが痛いくらいにわかるからこそ、私はまた次の言葉を飲み込むしかなかった。
ふと、電話越しの天沢くんが、ぽつりと呟いた。

『……でもまあ、正直ちょっと拍子抜けでしたけどね』
「なにが?」
『あの日、せっかく僕が病院から送り出してあげたのに……したのが添い寝だけって、ちょっとがっかりでしたよ』
「………はい?」

一瞬、何の話か分からず固まった。

『僕、ちゃんと漫画読んだんですからね。同じまくらで、並んでおとなしくおやすみって……。いやいやいや、それだけ?って思いましたよ。もっとこう……あるでしょ、普通。展開的に』
「なっ……見たの……っ?!」

思わず声が裏返る。今、レジデント室には誰もいないとはいえ、慌てて声のボリュームを落として声を潜めた。

「な、なにそれ、完全にプライバシーの侵害じゃない……!?」
『漫画になってるんだから、そりゃ読むでしょう。一読者として楽しみにしてたのに。いやー、あの状態で何もしないってのがすごいですよね。さすが降谷零』
「やめてほんとに!!」

本気で叫びたくなるのを堪えながら、私は片手で顔を覆った。すっかり油断していた。安室さんと関わると、私の行動一つ一つがすべて“描写”として残ってしまうことを。
──あの夜、寄り添うようにして眠ったこと。静かな会話。そっと触れた手の温度。決して越えてはいけない一線を守りながらも、それでも確かに存在していた優しさ。
朝には安室さんの姿はもうなかった。置き手紙だけが、枕元に残されていた。朝に帰ると言っていたけど、たぶん夜中に発ったのだと思う。
流れる時間の早さが違うことは、もう分かっているけれど──あの一夜があまりに幸せだったから、余計に、胸の奥にぽっかりと穴があいてしまったような気がした。
そんな余韻に呑まれかけたそのとき、電話越しの天沢くんが不意に真面目な声で訊いてきた。

『それで、先生の容態は?』
「……それが、まだ目を覚まさなくて」

頬にかかる髪を耳にかけ直しながら、私は椅子にもたれた背を少し起こした。どこか、気持ちを引き戻すように。

「……とっくに、覚ましてもおかしくない頃なんだけど」

口にしてみると、思った以上に声が沈んでいた。眠っている父の姿が頭に浮かび、胸の奥がきゅっと痛む。

『そうですか……。きっともう少し、眠っていたいんですよ』

眠っていたい。……本当に、そうだったらいい。けれど、ただの過労にしては眠りすぎなのだ。あれから1週間も経っている。仕事の合間を縫って父の病室を見にいっても、ずっと目を閉じて眠っているだけ。何か別の理由があるのではないかと、不安にもなる。

『気長に、待ちましょう。大丈夫ですよ』
「……うん」

絞り出すように短く応えた声は、まだほんのわずかに震えていた。
――ほんとうに大丈夫?心のどこかで、問いが揺れる。でも、今は信じたかった。この世界のすべてが、まだ穏やかであることを。












レジデント室の壁掛け時計が9時に差し掛かっていた。静かな時刻、当直の時間帯の引き継ぎもひと段落し、私はロッカーの前で白衣を脱いだ。
欠伸を片手で押さえながら、私服に着替えて身だしなみを整える。髪を軽く整え、ポケットの中身をチェックしながら、最後にストラップ付きの職員カードをバッグに滑り込ませた──その瞬間だった。
ポケットの中で、スマホが小さく震えた。

「……?」

反射的に取り出して、画面をのぞき込む。表示された名前を見て、思わず頬がふっと緩んだ。

《安室透》

胸が、一拍跳ねる。その名前を見るだけで、息が整わなくなるくらいには、私はもうこの人に心を掴まれてしまっている。指がかすかに震えるのを感じながら、通話ボタンを押し、一呼吸おいて耳にあてた。

「……もしもし?安室さん?」
『りかさん』

ただ名前を呼ばれただけなのに、胸がきゅっと締めつけられて、耳から溶けてしまいそうな甘さに包まれた。世界の色さえ変わる感覚がする。

「こっちに……戻ってきたんですか?」
『ええ。お仕事中でしたか?』

その問いに、口元がゆるんだまま思わず首を振った。

「いえ……!ちょうど退勤するところです。安室さんは、今どこに?」
『あなたの病院の、目の前にあるカフェにいます』
「……えっ!?」

驚きで声が裏返った。
そ、そんな近くに…!?まだ心の準備もできていない。さっきまで感じていた疲労や眠気なんて、一瞬で飛んでいく。まさかこの退勤時間に、こんなご褒美が待っていたなんて──。

『少しだけ、会いませんか?』
「あ、会いたいです……!」
『ふふ、ゆっくり来てください。ここで待ってます』

低く優しい声に、胸が締め付けられる。嬉しくて、どうしようもなくなって、私は声が漏れそうになる口元を手で覆った。

「……す、すぐ行きます!」
『りかさんは、なにが飲みたいですか?』
「えっと……んー……レモンスカッシュ?」

ちょっとはしゃぎ気味な声になってしまったかもしれない。でも、今の私は、どんなに取り繕っても隠せない。安室さんに会える、それだけで、すべてが浮き足立ってしまう。

『了解です。先に頼んでおきますね。りかさんが来る頃には、きっと出来上がってますよ』
「……楽しみにしてます」

小さく息を吸って、通話が切れたスマホを見つめた。
私は右手を胸元にそっと当て、鏡の前に戻る。髪をもう一度整え、最後に小さくリップを塗り直す。ほんの少しだけ、色づいた自分の唇を見て──深く、深く息を吐いた。

胸の奥で、波打つ鼓動が止まらない。たった数分のやり取りなのに、こんなにも心を揺らされる。仕事終わりに会えるなんて、本当に恋人みたいだ。
バッグを手に、私はレジデント室を飛び出した。エレベーターに乗る間も、胸の鼓動は止まってくれそうになかった。



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