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病院を背にして伸びる歩道は、いつもの見慣れた風景のはずなのに、今日はいつもよりずっと明るく感じられた。安室さんがそこに待っているとわかっているだけで、空の色も木漏れ日も、すべてが柔らかく染まっていく。
カフェまでのほんの数分。その時間を埋めるように、私は自然と思い出していた。
本当に安室さんは、“毎日”のように私を訪れてくれるようになった。一緒の布団で眠った、あの夜の翌朝。
「また今夜、会いに来ます」そんな置き手紙を残して、本当に言葉どおり、その夜も、次の日も、また次の日も、私の前に現れた。
昼休みの終わりに突然届くメッセージ。寝支度をしていると鳴る着信。そしてそれは、たいていこう続くのだった。
「今、戻ってきました。……少しだけ、会いませんか?」
そうやって始まる短い逢瀬は、ほんのひとときのもの。30分、10分もいられないこともある。それでも──十分だった。
会えるだけで、声が聞けるだけで、彼の存在を“いま”この世界で感じられるだけで。それは、夢を超えて現実に触れるような、確かな喜び。
ただ、一つだけ──戸惑うこともあった。
「……会いたかったです。ずっと」
そんなふうに、本気のトーンで言うから。毎回、毎回。会うたびに。ほんの少し目を見つめるだけで、まるで数週間ぶりの再会みたいに。
それもそのはず。私の世界では一日しか経っていなくても、安室さんにとっては、向こうで数週間の時が過ぎているから。それが嬉しくて、でもちょっとだけ胸が痛くて。
安室さんが言ったように、私たちの関係は──本当にゆっくり、少しずつ、進んでいる。毎日が、穏やかで、心地よくて、どこか信じられないほど温かくて。まるで、夢の続きを歩いているみたいだった。
──それでも。この夢なら、きっと、醒めなくていい。
カフェの看板が見えてくる。自動ドアが近づくとすぐに目に入ったのは、ウィンドウ際の席に腰掛ける安室さんの姿だった。
グレーのスーツに身を包んだ安室さんは、ガラス越しに私を見つけると、ふと柔らかく目元を緩め、片手をゆっくりと上げて合図してくれる。
心が、やさしく撫でられるようなその仕草に、自然と頬がゆるんで、私は小さく手を振り返した。そしてそのまま、弾かれたように早足でドアを押し、店内へと足を踏み入れる。
──よくあるコーヒーチェーンの店内。
鼻先をくすぐるのは、焙煎された豆の香ばしい香りと、甘く香るシロップの匂い。
目線の先、席から立ち上がった安室さんが、タイミングよく椅子を引いて待っていてくれた。その丁寧な仕草に、少しだけ背筋が伸びる。
「……ありがとうございます」
そう言いながら腰を下ろすと、視線が自然とテーブルの上に移った。透明なカップに満たされた、レモン色の炭酸水──そして、氷が心地よい音を立てているアイスコーヒー。
「お仕事、お疲れさまです」
「へへ、こんなタイミングでぴったり会えるなんてびっくりしました」
正面に座った安室さんにへらっと笑いながら、私はストローをひとくちくわえた。レモンの爽やかな酸味と、微かな甘さが舌に広がる。
「……でも、本当は私が払いたかったのに」
そうぽつりと漏らすと、安室さんは一拍おいてから、いたずらっぽく口を開いた。
「妻を働かせてるんです。なおさら僕が払わないと」
「……なにそれ」
思わず吹き出しそうになって、カップの中で炭酸がぽこぽこと弾けた。
「安室さんだって、向こうじゃやり手の警察官のくせに」
「……ここでは無職ですので」
肩をすくめながら、すました顔でそう返してくる。
「便利な言い訳ですね、それ」
「状況に応じた最適な立ち位置を選ぶのが、僕の長所なんです」
その堂々とした言い方に、もう笑いを堪える余裕なんてなかった。
ふたりして、くすくすと静かに笑い合う。けれどその笑いの奥には、言葉では言い表せないほどの、満ち足りた気持ちがあった。
──ああ、やっぱり好きだ。何気ない会話のすべてが、こんなにも愛しいなんて。胸の奥が、温かくきゅうっと鳴った。
「今回は……どのくらい、こっちにいられるんですか?」
レモンスカッシュのカップを両手で包み込んだまま、私はそっと尋ねた。声に乗せた期待が透けてしまいそうで、言ったあと少しだけ目線を落とす。
「1時間です」
あまりに即答で返ってきたその一言に、ごくん、と飲みかけの炭酸が喉に引っかかる。思わず小さくむせて、慌ててお手拭きを取るふりをした。
「……そう、ですか」
できるだけ平静を装ったつもりだったけれど、自分でも声の揺れがわかった。
「そんな顔をしないでください。明日、また来ますから」
正面から聞こえるその穏やかな声に、救われるような気持ちと、どうしようもない寂しさが胸に広がっていく。
「……ずっと、一緒にいられるわけじゃ、ないんですね……」
ぽつりと、零れ落ちるように言葉が口からこぼれた。
安室さんには向こうでの生活がある。任務もあって、仲間もいて、正義を貫く役割がある。
私には私で、こちらの世界で積み重ねてきた仕事と日々がある。お互い簡単に、何もかもを投げ出してしまうわけにはいかない。
それに、私にとってのたかが一日の間に、あちらではどれほどのことが起きてしまうか。
そんなことを考えていると、安室さんがすっと身を乗り出し、わずかに瞳を細めながら私を見つめた。
「……そうですよ。だから一秒だって、無駄にはできません。さあ、早めに飲んでしまってください。……僕たちには、これから一緒にやることがたくさんあるんですから」
「……はい」
小さく頷きながら、カップを再び手に取った。氷がカランと音を立てて揺れる。どこか切なくて、でも同時に胸の奥があたたかくなるような感覚。
この人は、本当に、限られた時間を全力で私に使おうとしてくれているんだ──切なくも嬉しくて、涙がにじみそうになるのを堪えた、そのときだった。
「おい、宮間!!!」
鋭く響いた怒声に、心臓が跳ねる。振り返るより先に、耳がその声を認識した。聞き覚えのある声──あの、癖のある早口と、妙に通る発音。まさかこんなタイミングで。
私は顔をあげた。安室さんの背後、ちょうどレジの前に立っていたのは──門川教授。
会計をしているその手元には、大量のテイクアウト用カップと紙袋。おそらく当直明けの差し入れだろう。
それよりも──今この状況がまずい。完全に油断していた。病院のすぐそばのカフェなんて、知り合いと鉢合わせる可能性が高いに決まっているのに。よりによって今、このタイミングで教授と会ってしまうなんて。みるみる顔を青ざめさせていく私に、安室さんが小さく首を傾ける。
「……以前お話しした、例の私の“教授”です」
小声でそう説明すると、安室さんはなるほど、というように無言で頷いた。
「宮間!」
店内に響く怒号。テイクアウト用の袋をぶら下げ、大股でこちらに向かってくる門川教授。その顔は真っ赤に染まり、眉間に刻まれたしわが倍増している。私は慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。
「教授!お、お疲れさまで……」
「俺はな!もう一生『コナン』は読まんからな!一生だ!!」
私の言葉を遮って叫ぶその声はまるで、大罪を宣告するかのような気迫だった。
「……え?」
一瞬意味がわからず、ぽかんとしてしまう。
「わかるだろ!?俺はな、美しいミステリーを期待してたんだ!ちゃんと黒幕が明らかになって、組織が壊滅されて、感動のラストが来る。そう思ってたんだ!!」
どんどん声が大きくなっていく。まわりの客が振り返る中、私はひそかに消え入りたくなっていた。
「なのにどうだ……!あのクソ女、宮間りかが再登場してしまったじゃないか!!何が“あれは夢だった”だ!どこからどう見ても現実に戻ってきてるじゃないか!!」
「……きょ、教授、お気持ちは、よくわかりますが……」
「このままじゃ、まともな最終回こそ夢のまた夢だ!!」
教授の目は血走り、息は荒い。明らかにヒートアップしている。“完全に読者目線”の怒りだ。
思わず安室さんと視線を交わすと、彼も軽く目を細めて──それからカップを手に持ったまま静かに立ち上がり、私の隣に立って教授の怒りに向き合うような姿勢を取った。
「それで俺は──結論を出したんだ」
ドン、と拳でテーブルを打つような音が聞こえた気がした。門川教授の声があまりにも熱量を帯びすぎていて、店内の空気がぐらつく。
「宮間りかよりバカなのは、そんな女が好きな安室透で、そんでもってそれ以上にバカなのは……こんな展開でも読んでしまう愛読者の俺だってことだ!!」
最後は声を張り上げ、まるで悲劇の主人公のように言い切った。息は荒く、まなじりを決して怒った犬のように睨んでくる。
私はというと、あまりの言い様にぽかんと口を開いたまま、なにも言葉が出なかった。
「なんだその顔は。文句があるなら言ってみろよ。父親を侮辱されて頭にきてるか?」
思いがけない切り込みに、ぴくりと眉が動く。色々と思うところはあるが、呆れてものが言えないとはこのことだ。でも、教授は容赦がない。
「ならちょうどいい。俺の怒りを、お前の親父さんに存分に伝えておいてくれ」
教授の眼光がぎらりと光った。
「読者として……俺は怒りと失望を禁じ得ない。だからこれからは、ネットで正々堂々と批判していく。覚悟しておくんだな。全部、“gate river”ってIDで書き込みしてやる。それが俺だ」
「……“gate river”って……」
なるほど、“門川”……と英語にしただけなのか、と妙に納得しそうになる。でも、いやいや、そうじゃなくて、と我に返る。こんなに正々堂々と作品を批判すると宣言する人が過去にいただろうか。
そしてその批判する相手が目の前にいるなんて、誰が想像できるだろう。その宮間りかが“作中に再登場した私”で、その隣にいるのが“本物の安室透”だって──。
思わず顔に出てしまった呆れた表情に、隣の安室さんがくすりと笑った。
「そんなに……ひどいですか?」
穏やかで、でもどこか探るような声が教授の怒気に割って入る。安室さんが私のすぐ隣で軽く腕を組みながら、落ち着いた目で教授を見ていた。
「安室透は、バカなんでしょうか?宮間りかさんは、僕にはとても素敵な女性に見えますけどね」
その一言に、私の胸が小さく鳴る。
まるで、庇うような、そして誇らしく思ってくれているような言葉に、感動してしまった。今まで、教授にどこで何を言われても、味方なんていなかったのに。
「……ああ、すみませんがね。どの宮間りかの話ですか?現実でも漫画でも、俺が知る限りその名前でロクな奴はいませんな」
「……彼女のことも?」
「もちろん。二人とも、甲乙つけがたい奴ですな!」
あっさりと言い切る教授に、さすがの私も頭がクラクラしてきた。
「そうですか?」
隣で安室さんがふっと笑う。どこか楽しげで、でも静かに相手を見極めるような笑い。肘を軽く曲げて腕を組むと、私に横目を向けて、柔らかく問いかけてくる。
──いったい、この人は今、何を考えてるんだろう。私は少し不安になって、思わず表情を強ばらせる。教授はというと、まだ熱が冷めない様子で勢い込んだ。
「特にこっちの宮間りかは、救いようのない奴だよ」
「……あはは」
思わず、乾いた笑いが漏れた。もう、愛想笑いで笑い飛ばすしかない。どれだけ理不尽でも、相手は何も知らない一読者で、現実と虚構の境目も知らないまま好き勝手に言っているだけだ──そう、自分に言い聞かせる。
私はにっこりと微笑み、教授の目を真っ直ぐに見つめた。作ったような、けれど精一杯の丁寧さを込めて──あくまで冷静に、礼儀正しく。
「……教授」
口元だけが笑っていた。
でも、声は一切揺れていない。
「お会計、まだですよね?レジの店員さん、さっきからずっとこちらを見てますよ」
やわらかく、けれどぴしゃりと刺すように。
言いながら、軽くレジの方向を指先で示す。目をやれば、エプロン姿の女性スタッフが苦笑いを浮かべながらこっちを見ていた。
「……あ?」
教授が肩越しに振り返り、その視線の先でピタリと足を止めた。
目の前にいる安室さんを、まるで思いがけず珍しい動物でも見つけたかのように、じっと見つめている。口はわずかに半開きのまま、目だけが真剣に、そしてどこか困惑したように揺れていた。
「ところで……あなたは?」
その問いかけに、安室さんは少し微笑んだだけで、特別な感情は見せなかった。
「ああ、はじめまして。宮間さんの……友人です」
“友人”。その言い方に、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
――ありがとう、安室さん。ここで不用意に「夫です」とか「恋人です」なんて言われていたら、教授のことだから、翌日には病院の廊下の端から端まで噂が広がっていただろう。彼の気遣いが、さりげなくて、それでいてちゃんと的確で、心の中で拍手をした。
「……なるほど、そうですか。怒りのあまり、初対面で失礼を。すみませんね」
教授は息を吐きながら、ようやく我に返ったようにして私の方に目を向けてきた。
「教授、なに飲まれるんですか?よければ、私がごちそうします」
咄嗟にそう言いながら、私は教授の腕をそっと掴み、レジの方へと誘導する。
せっかくの安室さんとの時間を、これ以上この人に邪魔されてたまるものか。お会計だけさせて、さっさと病院に戻ってもらわないと。……そう思った矢先だった。
「……」
教授の足が、再び止まった。まるでピタリと時間が凍ったように、動きを止めてしまう。
「……ど、どうされました?」
嫌な予感がした。何気なく聞いたつもりだったのに、その沈黙に心がじわりと凍りついていく。
教授は、ゆっくりと、まるで何かを確かめるように踵を返すと、再び安室さんの前に戻っていく。
「……私たち、どこかでお会いしたことがありますか?」
先ほどまでとは打って変わって、今度は妙に落ち着いていた。それでいて何かを射抜くような真剣な目つき。私は思わず息をのんだ。さっきまで怒鳴り散らしていた同一人物とは思えない。
「さあ?僕とですか?」
安室さんがとぼけるような仕草で、首を傾げながら片眉を上げる。妙に危うい空気に、私は慌てて口を開いた。
「あっ、きょ、教授……!」
しかし、もう遅い。教授はもう完全に何かに取り憑かれたような目で、安室さんを凝視している。
「……初対面のはずなんだが……妙に……いや、どうにも見覚えがある顔なんだよな……。テレビでもない。職場でもない。……どこだ?」
──まずい。私は胸の奥がざわつくのを抑えきれなかった。このままいけば、教授は何かに辿り着いてしまう。そんな嫌な予感が喉元までこみ上げてくる。
「……さあ?」
安室さんはまったく動じた様子もなく、あくまで自然な調子で首をかしげる。けれど、私にはわかる。これは“とぼけている”のではなく、わざとだって。この状況を楽しんでいるに違いない。
私だけがひとり焦って、必死で火消しに走っている。
「……どこかで、何度も会ったような気がするんだ……顔だけじゃない。声も……立ち居振る舞いも……まるで……」
まずい……!と思わず私は息を止めた。その隣で、安室さんがわずかに口元をゆるめる。
「──ああ、もしかして“安室透”のことでしょうか?」
隣からさらりとそんな言葉が落ちてくるものだから、心臓が変な動きをして跳ね上がった。
横を向いたまま硬直している私の視線の先で、安室さんはまるで朝の挨拶をするような軽やかさで、首を少しかしげている。
いや、いや、いやいやいや……!何を言ってるんですか!?口では言えず、目で精一杯訴える私に、安室さんは涼しい顔でにっこりと微笑み返してくるだけ。
「安室……透……?」
教授が眉をひそめた。呟きながら、目が大きく見開かれていく。それまで過去の記憶を探るようだった視線が、今度は確信に満ちた光を帯びる。そして次の瞬間──
「あっ……!そうだ……!そうだよ!!安室透じゃないか!そっくりだ、っていうかもう、本人そのものじゃないか……!」
まるで謎が解けた探偵のように、両肩を小さく震わせながら、興奮気味にこちらを指さしてくる教授。
私は心の中で「終わった……」と叫びながら、咄嗟に安室さんの袖をつかむ。けれど、当の本人は、まるで穏やかな風にでも吹かれているかのように、ゆったりとした仕草で微笑みながら答えた。
「……よく言われます」
嘘も誠もすべてを包み込んでしまうような、その微笑。私は震えるまま、内心で叫んだ。お願いだから、これ以上煽らないで……!と。
「きょ、教授!?お会計は!?」
慌てて遮ろうとするけれど、教授は聞いていない。興奮がどんどんヒートアップしていく。
「いや、実写化するなら彼しかいないだろ!安室透……いや、降谷零そのものだぞ!こんな偶然、ありえるのか!?」
「……そうですかね?」
安室さんは腕を組みながら、まんざらでもなさそうに頷いてみせた。その仕草がまた完璧で、やけに堂々としているものだから、教授の目がさらに輝きを増していく。
もう、だめだ。このままじゃ、絶対にバレる。私はもう一度、隣の安室さんをじっと睨んだ。
――なにをしてるんですか!!!
けれどその視線にも、彼はどこ吹く風。笑顔のまま、カップの中のアイスコーヒーをひと口、静かに口に運ぶ。
「……実写化に応募したらどうだ?」
「年はいくつなんだ?」
「君の職業は?」
「俳優か?」
「それともスタントマン?」
教授はすっかり調子に乗ってしまっていた。興奮した様子で身を乗り出し、矢継ぎ早に質問を浴びせかける。
そりゃ、似てるだろう。だって本人なんだから──
私は胸の内で呻いた。これ以上調子に乗せたら、ほんとうにどうにかなってしまいそうなのに。
「……ああ、名刺を……」
そう言いながら安室さんが静かにカップを置き、スーツのポケットから財布を取り出す。なにかカードのようなものを取り出して、それをすっと教授に差し出した。
……まさか。嫌な予感が全身を駆けめぐる。
教授がそれを受け取り、眺めた瞬間。私は、ほんの一瞬だけそのカードの隅に目をやって──固まった。
《探偵 安室透》
「ひぇ……っ」
情けない声が、喉の奥から漏れた。
な、この人は、どういうつもり……!?なにをしてるの……!?バレたらどうするつもりでそんなものを……!
「安室透……?」
教授は名刺に刻まれた名前を呟いて、目を見開く。その反応に、私はもはや心臓が何度跳ね上がったかもわからない。
「似てると良く言われるので、一度遊びで作ってみました」
安室さんは平然と、しかしどこか楽しげにそう言った。私は横で静かに頭を抱えた。この人は、いったいどこまでが冗談なの……。
一瞬、教授の顔がぴたりと止まる。だが次の瞬間には──
「あはははは!面白い人だなっ!君は!」
教授は突然吹き出して、機嫌よく笑い始めた。目尻を下げながら私の方を向き、楽しそうに肩を叩いてくる。
「宮間!今度、彼を病院に連れてこい!絶対にうちの看護師たちが騒ぐぞ、保証する!」
「あは、は……」
私は引きつった笑顔のまま、もう笑うしかなくなっていた。さっきまで怒声を飛ばしていた人間と同一人物とは思えない。けれど、今はこのままうやむやになってくれるなら、それでいい。
「よろしくな、“安室透”くん!」
教授が握手を求めて安室さんに手を差し出す。私は慌ててその手を掴み、強引にレジの方へと誘導しはじめた。
「きょ、教授!私たちほんとうに時間がないので……!」
何度も後ろを振り返ろうとする教授を押しやりながら、私は安室さんをちらりと睨む。……一体なにがしたいのこの人は。
けれど当の本人は、いつものように涼しい顔で、ただ少しだけ楽しそうに目を細めていた。
「ああ、そうかそうか!じゃあ、また今度な!」
教授はすっかり上機嫌になってしまったらしく、鼻歌でも歌いそうな勢いでレジに向かっていった。私の肩から、一気に力が抜ける。
──なんとか、凌いだ………?
その隣では、別の客のアイスコーヒーの氷が、からんと音を立てていた。その音すら、なんだか安室さんのいたずらな笑みと重なるようで、私は思わず息をついた。
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