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「……もう、何してるんですか!」
街を滑るように走る車の中。助手席に座った私は、ふてくされたように両腕を組みながら頬を膨らませていた。
朝の光はまだ角度が低く、フロントガラスを斜めに照らしている。差し込む光が、やわらかく安室さんの頬を撫でていた。
「バレたらどうしようって、ヒヤヒヤしましたよ……!」
声を潜めながらも、言い出し方はどうしても拗ねたトーンになる。窓の外を眺めながら、サイドミラー越しに映る自分の表情が、怒ってるのか不貞腐れているのかよく分からない。
けれど横の運転席では、案の定、安室さんがくすくすと笑っていた。視線は前を向いたまま、ハンドルを握るその横顔はいつもどおり落ち着いていて、どこか楽しげで。
「……っ、もう!」
思わずプイッと顔をそらす。だけど、心のどこかで思ってしまう。
ずるい人だ。こんなときですら余裕のある顔で、私の動揺を静かに楽しんでいるみたいで。そんなふうに涼しい顔で私のすべてを包み込んでくれるところが──
悔しいけど、好きなんだ。これが、惚れた弱みってやつなんだろうなって、自分で思っていても呆れるくらいには。
「バレることは、ぜったいにないだろうと踏んでましたよ」
安室さんはふと横目でこちらを見ながら、軽い調子でそう言った。その表情にはまったく悪びれた様子はなく、むしろどこか誇らしげな雰囲気すらある。
「……うそだあ……!」
呆れて目を細める。安室さんはスムーズにハンドルを切って、交差点を右折する。軽やかに言い切るその口調が嘘っぽくて、じとっとした目で彼を見た。
「教授に15分も時間を使ってしまって、貴重な時間が勿体ないです……」
「……すみません」
安室さんはそう言って、笑った。
ぜったいに反省なんかしてない声だ。もっとちゃんと話したかったし、もっと一緒にいたかったのに。あんな茶番で時間を削られて──そう思えば、やっぱり納得がいかない。
けれど安室さんは、相変わらず静かに微笑んでいる。信号で車が止まるタイミングに合わせて、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「ですが──」
やわらかな声が、車内の空気を揺らす。
小さく頭を傾げると、安室さんはほんの一瞬、視線をそらすようにしてから、再び真っ直ぐこちらを見つめた。
「妻の職場を働きやすい場所にするのも、夫の努めかと思いまして」
そう続いた言葉に、思わず目を丸くした。
「しばらくは、あの教授も機嫌良く過ごしてくれるでしょう。……“コナン”ファンということを、逆手に取らせてもらいました」
そう言って、安室さんはふっと笑った。その笑顔は、さっきのいたずらっぽさとは違う。まるで、本当に考え抜いた“作戦”だったんだと、そう伝えてくるような、柔らかくも自信に満ちたもの。
──まさか。あの場を、ただの笑い話で済ませるためじゃなくて。教授の性格を読んで、あの“仕掛け”を……?しかも、私が数日前にぽろっとこぼした、“教授が理不尽で大変なんです”って話を……覚えてて?
「……」
息を呑む。驚きと、少しの感動と──なにより、胸の奥にじわっと染みるような優しさに、言葉が出てこなかった。さっきまでの拗ねた気持ちが、炭酸みたいに、しゅわしゅわと音を立てて溶けていく。
「……それっ、なら……」
気恥ずかしさをごまかすように、わざと口を尖らせながらぽりつと呟いた。
「……ありがとう、ございます……?」
「ふふ、どういたしまして」
安室さんはほんの少し目を細めて、また前を向いた。静かで、でも確かな優しさのこもった一言が、夜の車内に溶けていく。
そして私は思う。──この人は、私の想像よりずっと先を行く。時々ずるくて、よくわからないところもあるけれど……でも、ちゃんと、私の小さな言葉を覚えてくれている。それが、なにより嬉しくて。気がつけばもう、怒る気なんてどこにも残っていなかった。
*
やがて車はゆっくりと減速し、父の一軒家の前で静かに停まった。いつもの光景なのに、胸の奥が少し重たくなる。ここで車を降りたら、また安室さんは“向こう”へ帰ってしまう。いつも、別れはこの場所だった。
朝の光が助手席の窓から差し込んで、足元に淡い影を落としている。その温もりが、なぜか少しだけ切なく感じた。
「夜勤明けなのに、付き合わせてしまってすみません。家に帰って、ゆっくり休んでくださいね」
「いえ。……安室さんも、お忙しいのに今日も来てくださってありがとうございました」
声を絞り出すように言うと、安室さんは微笑んで、小さくうなずいた。けれど同時に、それが“区切りの言葉”であることを感じて、寂しさが一気に押し寄せてくる。
そっとシートベルトに手をかけると、カチリという小さな音が車内に響く。隣では、安室さんも同じようにシートベルトを外していた。だが、すぐには動かず、ふとこちらを振り向いた。
「……念のため確認ですが、本当に車はこちらに停めたままで問題ないのですね?」
その言葉に、私は小さく瞬きをした。
──どうしてそんなことを聞くのか、わかっている。万が一に備えて、安室さんがこうしてこちらの世界へ来たとき、すぐに動けるように私の車を父の家のガレージに停めているからだ。
私はともかく、今のところ安室さんがこちらの世界に来るためには、あのタブレットが必要で、そしてそのタブレットは父の家に置かれている。一度、私のアパートに持ってくることも考えたが、タブレットに対する恐怖心が消えず、やむを得ず断念した。そのことを、いつも安室さんは心配する。
「はい。通勤はバスでしますし……当直明けに車を運転するのが、なんとなく怖くて。だから結局、乗らないんです」
苦笑まじりにそう答えると、安室さんは少しだけ眉をひそめる。
「……それなら、いいのですが」
ほんの一瞬だけ、言葉の奥に心配の色が滲んだように見えた。けれどそれ以上はなにも言わず、私はそれに笑顔で頷く。
「大丈夫ですよ。車も家も、ちゃんと見てくれてる人がいますから」
……天沢くんが毎日のように、この家を訪れるし。そう思いながら、ドアノブに手を伸ばした。
「──りかさん」
その声に、反射的に動きを止めて振り返る。
私の名前を呼んだ安室さんは、しばらく言葉を選ぶように沈黙する。表情は穏やかで、けれどその目だけがいつもより真剣に光っていた。
「キスしてもいいですか?」
「……えっ!?」
その一言が、あまりに自然で、唐突で、でもまっすぐで──身体が反応するより早く、声が上ずった。手をかけていたドアノブに思わず力が入り、カチャッと軽い音が響く。
「今のところ、僕だけ記憶がないというのが……少し悔しくて。漫画に描かれていた出来事を、もう一度繰り返す必要があるのではないかと」
あまりにも落ち着いた口調で、そんなことを言うものだから、私は頭の処理が追いつかないまま、硬直する。
「お互いの間にギャップが大きいですから。まずはそこから埋めていきましょう。……知りたいんです。漫画の中の“安室透”が、どんな想いであなたに触れたのかを」
まばたきすら忘れそうだった。車内は静まり返っていて、外の風の音も鳥の声も遠のいて聞こえない。私の心音だけが耳の奥で響いている。
「じょ、冗談ですよね……?」
やっとのことで声に出すと、安室さんは一瞬だけ笑みを浮かべて、それからわずかに首を傾ける。
「……至って真剣ですが?」
心臓が喉元にせり上がってくる。
その声は、笑っていなかった。目も、いつものやさしさの奥に、違う色を湛えている。本気だ。それがわかるからこそ、心臓が跳ね上がる。
「……もっとも、理由なんて後付けで、本当はただ僕があなたに触れたいだけなのですが」
そっと囁かれたその言葉に、反射的に身体がドア側へと引かれるようにのけぞった。肩がシートにぶつかって、わずかに跳ねる。彼の微笑が、それを追いかけるように深くなる。
その笑顔はどこか意地悪そうで、またふざけているようにも見えるのに──なぜだろう。嫌じゃなかった。むしろ、胸の奥のどこかが、小さく期待に震えているのを、自分で自覚してしまった。
「か、揶揄わないで、ください……!」
声が震える。口では拒絶しているのに、心が追いついていない。視線を逸らしたくても逸らせず、彼の目をまっすぐ見てしまう自分が、いちばんたちが悪いと思った。
「……僕は、からかっていません。本気です」
その瞬間、声のトーンがほんのわずかに落ちた。
空気が、変わった気がした。安室さんの左腕が、ゆっくりと私のシートの背後へと伸び、ヘッドレストの裏にまわる。動けない。息を呑む間に、安室さんの顔がほんの少しだけ、私の方へと近づいていた。
「ま、待ってください……!前に、“ゆっくり距離を縮めよう”って、言った……!」
「ええ。だからこれでも十分、ゆっくりだと思います」
たった一言で、心臓が跳ねる。言い返す余裕なんてあるはずもなく、私は黙って視線をそらす。それもそうだ。私にとっては数日でも、安室さんにとっては数ヶ月もの時が過ぎてしまっているのだから。
「……ちょっと、不自然でしたか?」
安室さんの吐息が、ほんのわずかに頬にかかる。静かな車内で、彼の声がこんなにも近い。
何も返せずにいると、安室さんはふっと優しく微笑んで、背後に回していた手を静かに解いた。
「……では、また次に」
少しだけ残念そうに、でも優しくそう言って、ドアに手をかけた。まるで、私の気持ちを無理に急かすことなく、そっと距離を引くその仕草に──私は、咄嗟に声を上げていた。
「──別に……!」
安室さんの手が止まる。
「……っ、不自然、では……ない、と思います……」
語尾がどんどん小さくなってしまった。あまりにも恥ずかしくて、自分がなにを言っているのかさえ分からない。視線は自然と膝の上へと落ちていく。
顔が熱い。鼓動が耳の奥で暴れている。しかし、もう引き返せなかった。
「……では、触れても?」
囁かれたその声は、驚くほどやわらかい。私は唇を噛んで、数秒、見つめ返す。
そして、ほんのわずかに──コクリ、と頷いた。
その小さな合図を見逃さなかった安室さんが、静かに身体を寄せる。右手が、そっと私の後頭部へと伸びてきた。ふわりと触れた指先が、まるで誰かの記憶を手繰るように慎重で、優しくて──
「……っ」
唇が、重なる。
ひと粒の雫が落ちるような、淡い衝撃。一度優しく、そっと啄まれる。音もなく、痛みもなく、ただ、ぬくもりだけが伝わってきた。
自然に、目を閉じていた。息を吸うことすら忘れそうなほど、時間が止まったようだった。
「……」
唇が離れてそっと目を開けると、すぐ目の前に安室さんの顔があり、視線が絡み合う。
耐えきれずに、彼の胸元に顔を埋めた。そのぬくもりに包まれた瞬間、心の奥の不安や痛みが、ふっと溶けていくのがわかった。
「……ふふ」
安室さんの、柔らかな笑い声が頭の上で落ちる。そのまま回された腕が、優しく私の後頭部を撫でてくれた。やさしい。苦しいくらい、やさしい。
私はこの世界に生きていて、安室さんもいま、ここにいる。それだけで十分だと、熱を帯びたまま私はしばらく目を閉じていた。
「……なるほど」
「……?」
私が小さく首を傾げると、安室さんは微かに笑ったまま、どこか遠くを見るような目で続けた。
「こんな感じ、なのですね。……うん、これでした。わかりました」
「な、なにがですか……?どんな感じだったんですか……?」
気づけば、恥ずかしさで喉が詰まりそうな声でそう尋ねていた。けれど、安室さんは一瞬だけ目を伏せ、静かに一言だけ告げる。
「秘密です」
「え……」
そう返された途端、安室さんの腕が私の後頭部からすっと離れていく。まだ残るぬくもりに名残惜しさを感じたけれど、安室さんはもういつもの冷静な表情に戻っていた。
まだ胸の奥が熱を帯びたまま、私は何も言えずに座席に身を沈める。さっきまでの出来事が現実なのか、夢なのか、まだ整理しきれない。
そんな私の混乱などおかまいなしに──いや、たぶん、知った上で──安室さんはさらりと次の言葉を投げてきた。
「……これからは、会うたびにキスが必要になりそうですね」
「……え?」
瞬きが一度、二度。反射的に安室さんの方を振り向いた私は、動揺を隠せず、声がほんの少し裏返ってしまう。安室さんを見上げると、彼はすました顔で前を見たまま、ハンドルの上に手を添えている。だけど、その口元だけが、わずかに緩んでいた。
「僕の記憶のほうが空白ですから。漫画の中の“僕”に追いつかないと。……あと4回、でしょうか?」
「な、なんで数まで……っ!そうだとしても、1回多いです……!」
さらりと言わないでほしい。頬が一気に熱を持つ。羞恥と混乱が一気に押し寄せて、思わず言葉がたどたどしくなった。
けれど安室さんは、どこ吹く風だ。軽く鼻で笑いながら、肩の力の抜けた調子で続ける。
「負けず嫌いなんです。あなたの昔の“夫”には負けたくない」
「……それもあなた、なのに!」
それ以上返す言葉も見つからず、言葉を詰まらせていると、安室さんの顔がまたゆっくりとこちらに近づいてきた。わずかに傾いた横顔。やわらかな金髪に朝の光が差し込み、首筋のあたりが淡く透けて見える。触れられていないのに、背中にぞくりとした感覚が走った。
「それでも……僕の方が“いい”と、すぐに分かるはずですよ」
低く、息のかかる距離で囁かれた声に、全身がびくりと反応する。耳元にかすかに触れる吐息。どこも触れられていないのに、熱が一気に体の奥へと降りていくのがわかる。
「……や、やめ……」
喉が震える。口ではそう言いながら、私の手は安室さんの胸の上で固まり、逃げるどころかただその場に縫いとめられていた。まるで目の前のこの人に、呼吸ごと支配されているみたいで。
安室さんはほんの数秒、私の反応を確かめるようにその距離を保ったまま、視線を合わせて──
「……また次回、期待しています」
そう言って、安室さんはゆっくりと身体を引いた。──ずるい。本当に、ずるい。なのに。なのにどうしてだろう。心の奥が、まるで勝手にときめいてしまっている。
「……ずるいです」
そう言って両手で頬を覆った。
その余裕。その穏やかさの下に潜む情熱。私が一歩踏み出すたびに、彼は二歩先から手を差し伸べてくる。だけどきっと──そんな“ずるさ”に、私はどこまでも惹かれている。
安室さんはそっと微笑むと、そんな私の頭をゆっくり撫でてくれた。
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