78


それからというもの、キスの記憶はふとした拍子に思い出しては顔を熱くさせるくせに、生活は何事もなかったかのように静かに流れていった。
私は相変わらず病院で働いて、安室さんは“時々”この世界に顔を出す。まるで不規則な波のように、彼は現れては消えて、そのたびに私の気持ちはかき乱されていく。それは嵐のように激しいものではなくて、寄せては引いていく潮のような……じわりじわりと心に染み込んでくるやさしいものだった。

そして、あれ以来。
安室さんは、私によく触れるようになった。
たとえば、カフェに入店するとき。何気なく背中に手を添えられる。別れ際に肩越しに声をかけられて、振り向いた拍子に、指先が頬をかすめる。並んで座ってテレビを見ていたとき、眠たそうにしていた私の髪をそっと撫でられたこともあった。
そのどれもが、決して無遠慮なものではない。むしろ、確かめるようにゆっくりと、段階を踏むように──まるで「拒まれないか」をひとつずつ試しているかのように、慎重で、あたたかくて。そのたびに、心のどこかがじんわりとほどけていった。いつの間にか私は、安室さんに触れられることに、どこか期待をはじめていた気がする。

「……りかさん」

──低くやさしい声に名前を呼ばれて、私はふと我に返った。
けれど、うまく返事ができない。とろんとした頭の奥で、何かが溶けて広がっているような感覚。考えようとしても言葉が出てこない。呼吸だけが微かに震えながら、かろうじて唇のすき間を通り抜けていく。

「……りかさん?」

もう一度、名前を呼ばれる。
今度は少しだけ低く、近く、囁くような声で。

「……は、ぃ……?」

ぽそりと漏れた声が、自分でも驚くほど間延びしていた。目はまだ安室さんに釘付けのまま。唇がじんわり熱を帯びて、胸の奥までくすぐったい感覚が残っている。
安室さんはそんな私を見つめたまま、くすりと目を細めた。

「ほんの軽く触れただけなんですが」

言葉が出ない。ただ、ふいに息が詰まりそうになる。いたずらを仕掛けたあとの反応を楽しむような、それでいて限りなくやさしい声音。

「そんな顔をされたら……少し、欲が出ますね」

そう続けて、そっと指先で私の頬をなぞる。
ただ静かに、確実に、熱を重ねてくる距離。こちらの反応をすべて受け止めた上で、次の一手を静かに差し出してくる──そんな“余裕”が、ずるいと思う。

──でも、どうして、こんなことになってるんだったっけ。ぼんやりと、さっきのことを思い出す。
夜、仕事を終えてくたくたになって家に帰ってきて。冷蔵庫の中の残り物を温めて、なんとなくぼんやりしたまま軽い夕飯を済ませて。そのあと、湯気の立つ湯のみを両手で抱えて、ソファに沈んだ。
ようやく落ち着けた、と思った、そのときだった。スマホが震えた。

《いまどこですか?》

短く、でもどこかやさしい温度を含んだメッセージ。考えるより早く、指が動いていた。

《家です。会いたいです》

それだけ返したあと、しばらく返信がないな…と思っていたら──玄関のチャイムが鳴った。
玄関を開けると、グレーのスーツ姿のままの安室さんが立っていて。思わず抱きついてしまいそうになるのを、ぐっと堪えてリビングへ案内した。
そのまま、少しだけ距離を空けて並んでソファに腰を下ろして、取り留めのない今日の出来事をぽつぽつ話した。外来でちょっとしたトラブルがあったこととか、青木が夜勤でうっかり寝過ごして教授に怒られていたこととか。どこにでもあるような話。
安室さんはそれを黙って聞いてくれていた。頷いたり、笑ったり、たまに言葉を挟んだりしながら。まるで、一緒に過ごせる時間を確かめ合うように。

──だけど、気がつけば。
安室さんの手が、私の頬に触れていた。そのままゆっくりと距離を詰めて、ふわりと唇が重なって。
……いまに至る。

「……どうしましょう。もう一回だけ、試してみますか?」

囁くようなその声に、また視界が揺らいだ。安室さんの指先がそっと私の髪をかき上げて、耳元にふれる。
それに肩を震わせながら、こくりと小さく頷く。するとゆっくりと、もう一度キスが落ちてきた。
今度は少しだけ長く。唇が触れ合う時間が、わずかに延びる。喉の奥が、きゅっと鳴った。安室さんは、そんな私の反応をよく見ていたのだろう。焦らすように、唇を離してはまた触れる。その動作を、三度、四度──。
気がつけば、私はもう視線を合わせることができず、ソファの背に頭を預けて、安室さんの動きに身を任せていた。

唇がそっと離れていく。温度の名残だけが、やさしく触れた場所に、静かに滲んでいた。
私がぼうっとしたまま目を伏せていると、安室さんの指先が、そっと私の髪に触れた。前髪をやわらかく撫でて、少しだけ頭を抱き寄せるように、安室さんの手が私の後頭部をやさしく支える。
そのまま、私は流れるように身を委ねた。抵抗も戸惑いもなかった。ただ、ごく自然に、安室さんの肩に頭を預ける。
シャツ越しに感じるぬくもりと、安定した呼吸。目を閉じると、そこにあるのは穏やかすぎる静けさだった。何もかもがやさしくて、私の輪郭がふわふわと溶けてしまいそうなほど。

──気がつけば、私たちは、こんなふうにキスを重ねるようにもなった。
たしか、最初は「あと4回ですね」なんて、冗談めかして言っていた気がする。けれどそれも、もう何回目か分からない。会うたびに、さりげなく、自然な流れで唇が重なるようになった。
ほんの短く、そっと触れるだけのキスなのに。不思議と回数を重ねるごとに、体の奥がじんわりと熱を帯びて、頭の中がふわふわしてくる。
まるで深いキスをしたあとのような、どろりとした余韻。それなのに、決して一線を越えることはない。境界線ぎりぎりでとどまったまま、ただ確かめるように、唇を重ねて──ほどいて。その絶妙な温度差が、心をくすぐるように痺れさせる。

「……お疲れですね」

頭上から、低くやさしい声が落ちてきた。少しだけ首を傾けると、安室さんの視線が、そっと私を見つめていた。

「……寝てもいいですよ」

そう言いながら、安室さんの指先がまた髪をすくうように動く。くしゃりと軽く撫でるだけの、あたたかい仕草。

「明日も早いでしょう?すこし、目を閉じて」

私はかすかに頷いた。目の奥がじんわり熱い。眠いような、切ないような、不思議な気持ち。
深呼吸すると、安室さんからほのかに香る香水の匂いがして、それがまた、胸の奥をふわりと揺らした。

「……すみません、せっかく来てくださったのに」

ようやく搾り出した言葉に、安室さんは小さく首を横に振る。

「いいんです。僕が来たかっただけなので」

それだけ言って、安室さんはもう何も言わずに、ただ黙って肩を貸してくれた。
このまま眠ってしまっても、きっと怒られない。むしろ、そっと毛布でもかけてくれそうな気がする。そんな人だ。ずるくて、やさしくて、ひとつずつ丁寧に心をほどいていく人。

──こんなにも、静かな幸福があるなんて。いま、それを噛み締めている。
私は静かに目を閉じた。安室さんの心音が、規則正しく耳に響いていた。それはまるで、安心のおまじないのように──やさしく、深く、私を眠りへと誘っていった。











目を覚ますと、朝だった。
しんとした空気の中、カーテンの隙間から差し込む淡い光が、部屋の奥まで静かに広がっていた。
その柔らかさにまどろみを引き留められたまま、私はしばらく布団の中で身じろぎもせずにいた。
──今、何時だろう。重たいまぶたを押し上げるように目を開くと、見慣れた天井が視界に滲んだ。ぼんやりと瞬きを繰り返すうちに、ようやく「ここが自分の部屋」だと認識が追いついてくる。

身体をゆっくりと起こすと、首筋にかすかに指先の余韻が残っているのを感じた。昨夜のことが、淡くも鮮やかに胸の奥に蘇ってくる。
そうだ、昨夜──安室さんが、会いに来てくれて。その記憶に頬が自然と熱くなる。
ベッドに転がった記憶はない。きっと、安室さんがそのまま運んでくれたのだろう。部屋に残る微かな香水の香りに、胸の奥がまた、ふっと熱を帯びる。
……でも、安室さん。もう帰ってしまったんだろうな。そう思いながら、ゆっくりと身体を起こした。

少しだけふらつく足取りで、寝室のドアを開け、リビングへと向かう。カーテン越しの朝日が部屋を包み込み、テーブルの上に置かれた白い紙が、ひときわ目を引いた。
そっと手に取る。
──それは、安室さんの字だった。

「疲れていたようなので、そのまま休んでもらいました。
時間が足りず朝食を作るのは断念しましたが、また次回に。
鍵は閉めてから、ドアポストに入れておきます。
また来ます。」

見慣れたキレイな筆跡と、安室さんらしい言葉に思わず唇がゆるむ。メッセージの最後には、小さなコーヒーカップの絵文字のような落書きが添えられていて──それが、どうしようもなく嬉しかった。

「……ふふ……下手くそ……」

ぽつりと呟いたそのとき。
ソファの上に置きっぱなしだったスマホが震えた。
手に取って画面をのぞくと、着信相手の名前に──天沢くん。私は特に何も考えず、迷わず通話を繋いだ。

『……りかさん』

開口一番、名前を呼ばれる。
しかし、言い方がいつもと違う。抑えてはいるけど、声の端が明らかに怒っている。私は戸惑い気味にスマホを耳へと当て直した。

「……ど、どうしたの?」
『りかさん……』

もう一度、名前を呼ばれる。そのあとは、深いため息。まるで、電話の向こうで天沢くんが頭を抱えている姿が目に浮かぶようだった。
こんな朝早くから一体なんだろう。なにかよからぬことでも起きたんじゃないかと、一瞬嫌な予感を覚える。

「……な、なに?」
『あのですね。毎度毎度、なんであんな……』

天沢くんはぐっと言葉を飲み込むようにしてから、堰を切ったように早口でまくし立てた。

『……キスばっかりなんですか!?毎回それを見なければならない、僕の気持ちを考えてください……!!』
「……え」

何かを言いかけて、そこでようやく思い出す。
ぐるりと頭の中を走り抜ける記憶。昨夜のこと、キスのこと──そしてそのすべてが、漫画になっているという現実を。

「ご、ごめん……っ」

とりあえず謝ると、電話の向こうで天沢くんがまた大きなため息をつく。
思わず、私はもう片方の手で顔を覆った。頭がぐらぐらする。見られたくて見せたわけじゃないし、不可抗力だし、だから──
そう。仕方ないのだ。いま、父はまだ意識が戻らないまま眠り続けていて、漫画原稿の確認や編集部への送信は、すべて天沢くんが代行している。
編集部には、父が倒れていることを明かしていない。なぜなら、父以外描けないはずの漫画がひとりでに進んでいることの説明ができないからだ。犯人のこともあって、漫画を止めることもできない。

そのため、明らかに“おかしい”ページは、天沢くんがひとつひとつ選別しながら、読者に支障のないように整えて送っているのだ。
当然、私と安室さんのシーン──特に恋愛が絡むものは、すべて“没”にされている。編集部には一切出していない。だから、見ているのは天沢くんひとり。
私はもう、それで割り切ることにした。全世界にプライバシーを晒すくらいなら、彼ひとりに見られるほうが、ずっとましだ。たとえ気まずくても、仕方ないと自分に言い聞かせている。
──けれど、天沢くんのほうは、どうしても納得できないらしい。

『添い寝で終わった回は、僕もたしかに“物足りないな”って思ったんです。でも、それ以降……会うたびにキスしてませんか!?』
「うっ……それは……」
『最近は“恋愛パート”ばっかりで、送れる原稿がないんです……!』

何も言えなかった。
割り切っているとは言っても、やはり見られることへの恥ずかしさが消えるわけではない。布団に顔をうずめたくなる。いや、できることなら布団ごと壁に埋まりたい。

『これは“推理漫画”なんですから……!』

ぽつりと漏れた天沢くんの苦言に、私はさらに深く顔を両手で覆った。

「……ご、ごめん……」

電話の向こうで、天沢くんがまたひとつ深いため息を落とすのが聞こえた。申し訳なさと恥ずかしさで、今すぐスマホを投げ出したくなる。
確かに、人の恋愛事情ってなんだか目を覆いたくなることもあるし、あまり良く思わないことだってある。それを毎度毎度、私は天沢くんに晒してしまっているのだ。

『……いいですか、りかさん』

もう終わったかと思っていた天沢くんの説教が、ふたたび低く落ち着いたトーンで耳に届いた。

『こっちが“事件の進捗”を確認しようとして開いた原稿で、ふたりのラブラブなページを延々見せられるこの苦行……少しは察してください……』
「うう……本当に……ごめん……」

あまりの申し訳なさと羞恥で、手に持っていたスマホをぎゅっと握りしめる。顔はもうとうに真っ赤で、火でもついているんじゃないかと思うほどだった。

『降谷さんも降谷さんだし、りかさんもりかさんですよ。……毎回毎回、あんなに嬉しそうにして』

嬉しそうに……してたんだ、私……。
思い返すと確かに、昨夜──いや、昨夜“も”だ。唇が触れ合っただけで、頭の中がふわふわになって、何も考えられなくなって。気づけば、うっとりと安室さんの目を見つめていたような記憶も……ある。
ああもう、恥ずかしすぎて顔を上げられない。

『……はぁ。とにかく、次から原稿が動いたときはりかさんが確認するようにしてください。りかさんが選別したものを、僕がもう一度確認して送ることにします』
「うん……わかった……そうする……」

心底小さな声でそう答えたあと、天沢くんは「では失礼します」とだけ言って、電話を切った。
通話が終わると同時に、私はその場にくずおれるようにソファへ倒れ込んだ。腕で顔を覆いながら、何度も何度も足をばたつかせる。悶絶という言葉がこれほど似合う瞬間もない。

でも──。
少しだけ、頬の内側が緩む。原稿に描かれてしまっているとはいえ、それはつまり、安室さんとの時間が、ちゃんと“形になって残っている”ということでもある。
それが見られていることは恥ずかしいけれど──でも、ほんの少しだけ、嬉しいとも思ってしまった。

「……はぁ……」

深呼吸をひとつして、顔を両手でぱしんと叩いた。

「……仕事、行かなきゃ……」

そう言いながら、ゆるゆると立ち上がる。リビングを通ってお風呂場へ向かい、シャワーを浴びると、ようやく少しだけ意識がはっきりしてきた。
鏡に映る自分の顔は、やっぱりまだ赤くて、唇にうっすらと昨夜の名残が残っているような気がして、また少し胸が苦しくなる。

それでも、日常は待ってくれない。
洋服を手早く整え、髪をまとめ、そっと扉を閉めて家を出た。
朝の光はまぶしくて、空気は少しひんやりしていて。でも、胸の奥には、あたたかい熱がずっと残っていた。

──昨夜、安室さんが残していった、やさしい熱。その熱ごと抱きしめるようにして、私は今日の一歩を踏み出した。



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