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病院の空気は、朝からせわしなく動いていた。
ナースステーションでカルテを確認し、処置室を巡り、外来のバタバタに追われる。
顔なじみの患者さんに挨拶をして、問診に同席し、必要な指示を淡々と受ける。──まるで、何も変わらない“いつもの日常”が、そこにある。

「あ、宮間先生!おはようございます!」
「あ…!おはようございます」

廊下で顔馴染みの看護師に声をかけられ、笑って返す。
その笑みの奥で、昨日の出来事がじんわりと胸に残っている。だけど今こうして、いつも通りバスに乗って、タイムカードを押し、白衣を羽織って、当たり前のように患者と向き合う。その現実味があまり感じられない。

午前の回診を終えて、昼休憩。
職員ラウンジの片隅に座って、サンドイッチを齧りながらぼんやりと天井を見上げていると、隣の席からぽつぽつと会話が聞こえてきた。

「…ねえ、最近どうなの?彼と」
「んー、変わらず仲良いよ。あ、来月も旅行に行く約束したんだ」
「いいなあ。やっぱり、会いたいって言えばすぐ会える距離にいるのって大事だよね」
「うん。前の彼氏と遠距離だったから余計にねー。安心感がちがうというかさ」

──ああ、いいな、と思った。
隣の席から聞こえてきた、2人の看護師のささやかな会話。そこに滲んでいたのは、関係の輪郭がくっきりと描かれた人たちの声。約束があって、予定が共有されて、言葉が素直に届いて、それが未来につながっている。ちゃんと「ふたり」として、この世界で並んで歩いているという実感。

……そういえば、私たちには。
そういうもの、ひとつもないのかもしれない。

別に、不満があるわけじゃない。
安室さんがくれる言葉も、仕草も、優しさも。そのどれもに、毎日、救われるような気持ちになっている。
あの絶望の中から、彼とまたこうして顔を合わせ、名前を呼んでもらえる日々が戻ってきただけでも、奇跡みたいなものだ。
それだけで、十分なはずなのに。なのに、どうしてだろう。時々、考えてしまう。

──本当に、こんな生活を、ずっと続けられると思ってる?
胸の奥に沈んだ声が、そっと問いかけてくる。このまま、どこにも行き着かないままで。ずっとこうして会ったり離れたりを繰り返せるのかと。

……思いたい。
続けられると信じたい。だけど──どこかで、怖いとも思っている。未来を想像しようとすると、その先がふっと途切れてしまうのだ。
毎日のように安室さんは、会いに来てくれる。言葉を交わせば、まっすぐな眼差しで向き合ってくれる。触れれば、そこにはちゃんと体温がある。だからこそ余計に、怖くなる。

──私たちは、どこまで行けるんだろう。
この世界に住む私と、あの世界に生まれた彼。交わるはずのなかった線を、無理やり絡めて、それでも「一緒にいる」と思い込もうとしているだけなんじゃないか。
流れる時間の速度すら違う場所で、こうして会って、別れて、また会って──そんな往復を、いつまで繰り返せるんだろう。

“付き合ってるの?”と問われたら、たぶん、そうだと思う。でも、“これから先は?”と訊かれたら──私は、うまく答えられない気がする。
未来がないわけじゃない。けれど、今の私たちには、未来を「約束する手段」がない。

それでも、私は。ただ、そばにいたい。
安室さんの声を聞きたい。笑っていてほしい。
指先にふれて、息遣いを感じていたい。
それが叶うだけで、嬉しくて、幸せで、胸がぎゅっとなる。

──それだけじゃ、駄目ですか?
心の奥で、誰に向けるでもなく問いが浮かぶ。彼に?自分に?それとも、誰かこの世界を見下ろしている何かに?
わからない。ただ、ぽつりと生まれたその疑問は、しんとした胸の奥に落ちていって、答えが出る前に、沈黙へと溶けていく。

「……りか先生、午後の準備始めますけど、戻ります?」

背後からかけられた声に、現実へと引き戻された。
思考の波がすっと引いていく。慌てて顔を上げると、少し離れたところで同期の看護師がタブレット片手にこちらを見ていた。

「……あ、ありがとうございます。すぐ行きます」

微笑みを返してから、小さく息をついた。
気づけば昼休憩も、もう終わりかけ。時計を見れば、午後の外来が始まるまでもう数分しかなかった。

──あれこれ考えてる場合じゃなかった。
我に返るように、手の中のサンドイッチを見下ろせば、パンが握りすぎてふわふわにしぼんでいる。
コンビニのハムサンド。あからさまな選び方だと自分で思いながらも、一口かじると塩気とマヨネーズの風味が口に広がった。

「……はあ」

思わず、小さくため息が漏れる。
ため息というより、空気を切り替えるための呼吸だったのかもしれない。
──考えても仕方ない。いまは、目の前のことに集中しよう。そう思ってもう一口食べたところで、背後から再び声が飛んでくる。

「先生ー!そろそろ午後の患者さん、来始めてますー!」
「はい!今行きます……!」

立ち上がりながら、慌ただしくサンドイッチを口に押し込み、ペットボトルの水で流し込む。
残りのサンドイッチはまた袋に入れ、バッグに詰め込むと、足早にナースステーションのほうへ向かった。

──たぶん、今日も安室さんは来る。
それだけを支えにして、今日もまた、私はこの現実を歩いていく。












午後のオペ見学が終わったのは、予定より少し遅れてのことだった。緊張と集中の糸を張り詰めたまま何時間も立ちっぱなしでいたせいか、足が軽く痺れている。
同僚たちと連れ立ってレジデント室に戻りながら、私はどこか心の一部がぼんやりとしたままだった。午前中に聞こえてきた他愛のない恋愛話と、そこから延々と脳裏に残り続けていた、自問自答の残響。

──このまま、どこにも行き着かないままで。私たちは、ずっとこうして会ったり離れたりを繰り返すつもりなの?
胸の奥の柔らかい部分に、まだ言葉の破片が引っかかっている気がする。

「宮間先生、お疲れさまです。次のカンファレンス、17時からなので、休憩できるときにしておいてくださいね」
「あ、はい……!」

上級医のひと言にぺこりと頭を下げ、私はいつもの角の席に戻ってバッグを置いた。昼に半分食べかけだったサンドイッチを、ようやくゆっくり取り出して、深く息を吐く。
──もう、考えるのはあとにしよう。そう自分に言い聞かせながらひと口かじると、少し乾きかけたパンの甘さとしょっぱさが、やけに現実的で、思わず苦笑いが漏れた。なんか甘いものでも買いに行こうかな。

そんなときだった。
机の上に置いたスマホが、震えた。震えが収まる前に、画面を手に取る。そこに表示されていた名前に、胸がふっと高鳴る。

【安室 透】

まるで、どこか別の次元から届いたような名前。
一瞬、周囲を気にしてから、私はそっとロッカー裏にまわりこんで、電話を繋いだ。

「……はい」
『りかさん。今、少しだけ会えませんか?』

その声は、いつもより少しだけ低く、でも、どこかやわらかく響いた。私の中の時間が、一瞬止まる。
──また会うためだけに、来てくれたんだ。そう思っただけで、胸の奥がほんのり熱くなる。

「……はい。ちょうど休憩時間なので、すぐ出られます」

声が震えないように、努めて淡々と返す。だけど、抑えきれない期待が、じわじわと身体の奥に満ちてくる。

『場所は、病院の中庭で。……待ってますね』
「……あ、ありがとうございます」

言葉を切ると同時に、スマホの画面が静かに消えた。
私はもう一度、大きく息を吐いてサンドイッチをしまい、白衣のポケットにスマホを滑り込ませた。
ほんの少しだけ浮ついた心を、誰にも悟られないように。だけど、どうしても笑みが消えないまま、私はそっとレジデント室を後にした──。





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