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病院の構内を抜けて、中庭に向かって走る。
夕暮れの光が斜めに差し込む渡り廊下。ガラス越しの中庭が、茜色に染まっていくのが見えた。どこか非現実的なその光景に、胸の奥がふっと熱くなる。
軽く息を切らせながら中庭の扉を押し開けると、夕陽を背にした安室さんの姿が目に飛び込んできた。私に気づくと、ふわりとした笑みを浮かべながら手を振ってくれる。
そのしぐさひとつで、張り詰めていたものがほどけていくのがわかった。私は、無意識に小走りで近づいていく。ベンチには既に安室さんが腰をかけていて、私が来るのにあわせるように、一人分、隣のスペースをすっと空けてくれた。
「今日も、お疲れさまです」
そう言われて私が腰を下ろすと、安室さんは小さく笑って紙袋から何かを取り出した。
「時間があったので、病院前のカフェに立ち寄ってきました。りかさん、甘いもの好きですよね?」
そう言いながら手渡されたのは、見覚えのあるロゴのついた透明なカップ。中には、白くふわふわしたホイップクリームがたっぷりとのっていて、バニラの香りがふんわり漂ってくる。
「……え、ありがとうございます!すごい、ちょうどこういうの飲みたかったんです」
思わず素の声が漏れた。
受け取った瞬間、手のひらから伝わる冷たさと香りが、さっきまでの胸の重さをそっと溶かしていくようだった。
「それは良かった。秋といっても、日中はまだまだ暑いですしね」
そう言って、安室さんは柔らかく目を細める。その笑みにまた、心がきゅっとなる。
ストローをさして一口含むと、冷たくて甘いバニラの味が口いっぱいに広がった。思わず息がふわっとこぼれる。
「ん、美味しい……生き返ります……」
「今日も、病院は忙しかったんじゃないですか?……うっすらクマが出てますよ」
「ほ、ほんとですか?昨日たくさん寝たのに……」
安室さんは自分の目元を指で軽く差しながら、少しだけ困ったように笑った。
私はそれに釣られるように笑い返したけれど、内心ではまだ少しだけ、自分の鼓動が速いのを感じていた。
彼のくれた小さな気遣いが、胸の奥で長く残る。
「安室さんも……忙しい合間に来てくださったんですよね?」
「忙しくても、来ますよ」
即答だった。あまりにも迷いのないその響きに、また胸が詰まる。陽射しが安室さんの睫毛に影を落としていて、それがまた、少しだけ眩しかった。
「……今日も、会えて、嬉しいです」
ぽつりと漏らした言葉は、本当に心の底からの気持ち。安室さんはなにも言わず、微笑みながら静かに私の頭を撫でてくれる。その仕草の中に、たしかな愛情を感じて心が震えた。
お昼間、変なことを考えてしまったせいで、なんだかしんみりした気持ちになってしまう。
しばらく、沈黙がふたりの間を優しく包んでいたけれど、夕陽が少しずつ角度を変えてきた頃、ふと安室さんが視線を前に向けたまま静かな声で切り出した。
「……りかさんに、お話しておこうと思いまして」
どこか、少しだけ重くなった空気の質に、思わず背筋が伸びる。
「……?はい」
「犯人のことですが……」
その言葉に、私は息を呑んだ。
ふいに現実に引き戻されるような感覚。安室さんからその単語を久しぶりに聞く気がして、背中にすっと冷たいものが走る。
「もうすぐ、裁判の判決が出ます。証拠も揃っていて、逃れようのない状況です。おそらく──死刑になるでしょう」
「し……っ」
小さく息を呑んだ瞬間、喉の奥がつかえたようになり、思わず強く咳き込んだ。けれど、それどころじゃない。
──“死刑”だなんて。あまりに現実味のない言葉が、当たり前のように口にされて思わず驚いてしまった。
安室さんは慌てず、私の背にそっと手を添えながら、低い声で「大丈夫ですか」と囁く。その温度に救われながら、私はゆっくりと深呼吸をして落ち着こうとした。
「……す、すみません、びっくりして……」
「いえ、驚かせてしまいましたね。……けれど、今日はこれを伝えに来ました。一刻も早く、りかさんに知らせようと」
そのとき、自分の指先がほんの少し震えているのに気づいた。あの事件を思い出すたび、胸がざわついて、息が苦しくなる。
憎しみとか、怒りとか、そういう言葉じゃ片付けられない何かが、ずっと中にある。
「あなたのお父さんの計画では、拘置所内で他の受刑者に処理させるつもりだったようですが……」
安室さんの言葉は淡々としていたけれど、その静けさの裏にある決意と責任が伝わってくる。
「僕は、警察官です。正義という言葉が万能ではないにしても、新たな殺人に加担することはできません。ですので、正規の手続きで裁かれるように……少しずつ、状況を動かさせてもらいました」
私は、言葉を失っていた。
──知らなかった。そんなふうに、安室さんが水面下で動いてくれていたなんて。
漫画の中では、犯人の出番はなかなか進まず、ずっと“保留”のような状態が続いていた。
そのことを何度か安室さんに聞いても、やんわりとかわされてばかりで、どこかで「自分には話せないことなんだ」と納得していた。けれど本当は、私に余計な不安を与えないように、言葉を慎重に選びながら、ちゃんと終わらせる道を模索してくれていたのだ。
目の奥がじんわりと熱くなる。
「そのせいで、“確実に裁かれる”方向へ持っていくのに、少し時間がかかってしまいました。……なかなか進捗をお伝えできず、きっと、不安だったでしょう?」
その問いかけに、私は縦に横を振りながらも、すぐに言葉が出せなかった。
「……そんなこと、全然知りませんでした……」
かすれた声で呟くと、安室さんは少しだけ目を細めて私の顔を見つめる。
……私の父は、命を奪わせようとしていた。法という枠の外で、“作品の中だから”という言葉で、犯人を殺そうとしていた。
けれど安室さんは、そうしなかった。その人がどれだけ過去に酷いことをしていたとしても、自らの手で裁きを下すようなやり方はしない。
──それが、安室さんなんだって。そう思った瞬間、張りつめていた何かが、ふっと緩む。
……こんなことを、あまり言いたくはないけど。
“死刑”っていうのもたぶん、妥当なんだと思う。
あの救急外来を思い出す。怒鳴り声、叫び声、血の匂い。漫画の中だったとしても、あのとき確かに、たくさんの命が奪われた。それがどれほど理不尽なものだったか、いまでも胸に焼き付いている。
それでも。人を殺すことに、完全な正しさなんてないと思っていた。だからこそ、法の裁きという形で、その決着がつくことに、私は……どこか、救われるような気がしていた。
「ありがとうございます。……正直、ちゃんと“裁かれる”って聞けて、ほっとしました」
「当然です。日本の警察を──甘く見られては困りますからね」
言葉は穏やかだったけれど、その声音には確かな冷ややかさがにじんでいた。あの事件の記憶、犯人が引き起こしたあまりにも無惨な現実を思えば当然の温度だった。そしてそのすぐあとに、ふっと目を細めて、少しだけ優しい声に戻る。
「できるだけ法に則って、できる限りのことはしました」
「……できるだけ?」
真摯な言葉だとわかっている。彼なりの覚悟と、折り合いをつけた結果なのだと──それでも、私は思わず小さく笑ってしまった。
その響きに、ほんの少し皮肉を込めて返すと、安室さんがこちらを見て、困ったように眉を下げる。
「……厳密には、少しだけ逸脱したかもしれません。ですが、それも“最小限”に抑えたつもりです」
「ふふ……なんだかそれ、“公安のお得意の”みたいな台詞ですね。どこかで聞いたことあります」
そう言うと、安室さんはほんの少し目を細めて、吹き出すように短く笑った。
風が一筋、木の葉を揺らして通り過ぎる。陽は少しずつ沈み始めていて、安室さんの睫毛の影が頬に淡く揺れる。
「……覚えがないですね」
「でも、否定はしないんですね」
「さあ、どうでしょう」
にじむ曖昧さごと受け入れてしまえるほど、今の安室さんの笑顔は優しい。
でも──終わるんだ。ようやく、すべてが。
今はまだ、胸の中に渦巻く感情の名前がわからない。けれど確かに、どこかが安堵しているのを感じる。
長かった。あまりにも、長かった。
「……お父さんは」
ぽつりと、隣から聞こえた声。けれど、どこかためらいがちで、触れていいかを慎重に測るような響きだった。
「──まだ、眠ったままです」
苦笑いでそう答えると、安室さんはわずかに目を伏せ、考えるように息をつく。
「……犯人が抹消されれば、きっとすぐに、お父さんも目を覚まされると思いますよ」
安室さんがそう言うと、不思議と本当にそうなる気がした。曖昧な希望のはずなのに、すとんと心に落ちてくる。
「……そうだったら、いいな」
そっと、ひとつ息をついて、私は微笑んだ。
夕陽が、ベンチに座る私たちをやわらかく包み込む。橙の光の中で、風が木々の間を抜けていく音だけが、ふたりの間に静かに流れていた。
──このままずっと、ここにいられたらいいのに。そう思ってしまうくらいには、あたたかくて、やさしい時間だった。
けれど、時計は止まってはくれない。私は袖口をめくって、腕時計の文字盤に目を落とす。短針と長針の示す位置に、現実がそっと割り込んでくる。
「……もう、行かなきゃ」
ぽつりと呟いて立ち上がる。
午後のカンファレンスに遅れるわけにはいかない──大学病院のレジデントとしての一日は、まだ終わっていない。
「すみません。せっかく時間を作ってくださったのに……」
立ち上がった私に、安室さんも静かに体を起こした。
「気にしないでください。こちらこそ、忙しい時間に押しかけてしまってすみません」
その言葉に、私はふっと笑った。
いつもそう。どんなときでも、安室さんは私の時間を最優先に考えてくれる。それが嬉しくて、少しだけ、切ない。じゃあ──と、軽く手を振って背を向け歩きかけたそのときだった。
「りかさん」
背中越しに呼び止められる声。その音色に、自然と振り返る。
そんな私の様子を、安室さんは静かに見つめていた。何も言わず、けれど視線だけで、私の奥の何かを探るように。そして──
「……りかさん、何かありました?」
柔らかい声音だった。
でも、問いの芯は鋭い。
「……え?」
言葉が、胸の奥で小さく震えた。
私は、特別な何かを見せたつもりはなかった。
──いつも通り。ちゃんと笑って、ちゃんと感謝して、ちゃんと別れを告げようとしていた。それなのに。どうして、わかってしまうの。どうして、この人はいつも──。
「……なにがですか?ありませんよ。大丈夫です」
私は思わず肩をすくめて、慌てて笑顔を作った。
安室さんは無理に問い詰めるような調子ではなく、ただ、心の奥に触れようとするような、そんな様子で私を見ている。
「そろそろ戻らないと、午後の会議に間に合わなくて。急いで資料も確認しないといけないので……」
そう言って、向き合いながらそっと足を後ろへ引く。
「今日も、ありがとうございました。……来てくださって嬉しかったです」
その言葉に、嘘はひとつもなかった。
ただ、今はこれ以上踏み込まれたくなくて。私自身も、自分の気持ちにこれ以上触れたくなくて。
安室さんはそれ以上なにも言わず、ただ一歩、私に近づいてきた。そして──
「……それならいいのですが」
その言葉が、胸にそっと落ちた。思わず息をのむ。
──わかっている。安室さんは、全部見抜いたうえで、それ以上は言わずに、私の逃げ場を残してくれたのだ。私は微笑みながら、静かに手を振った。
「また、来てくださいね。……つぎは、私のお休みの日に」
「ええ、ぜひ」
安室さんのその穏やかな声が、優しく背中を押してくれるように感じた。
私は一歩、また一歩と足を進める。橙色の光のなか、白衣のすそが風に揺れた。そのまま背を返し、何度か振り返りながら──私は再び、病院の建物へと戻った。
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