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週末。今日は、久しぶりの非番だった。
目を覚ましたときにはすでに空が暗く、窓ガラスを伝う水の筋が、ぼんやりとした視界の中で揺れていた。
壁の時計は11時を回っている。ぐずついた光がカーテン越しに差し込んでいて、部屋全体がどこか灰色に沈んで見えた。

「……んー、雨か……」

眠気を払いながら伸びをした瞬間、窓の向こうから雨の音がふわりと耳に触れた。静かな朝だった。
ぼんやりとする頭で洗顔を済ませてから、冷蔵庫の奥にあった食パンを取り出して、ベーコンと卵を焼いて簡単な朝食をつくる。そして、プレートを片手にリビングのソファへ移動し、ゆっくり腰を沈めた。目の前のテレビはつけず、静かな部屋の中でただぼんやりと、コップの中の水が揺れるのを眺めていた。

「……なんか、ひさしぶりだな、こういうの」

誰に言うでもなく、小さく呟く。
何も起こらない朝。何も考えずにいられる時間。心の奥に溜まっていた濁りのようなものが、雨と共に少しずつ流れていく。
しばらくして、洗濯物がたまっていたことを思い出し、衣類をまとめて洗濯機に放り込んだ。雨だから乾燥まで済ませてしまおうとボタンを押す。

そのまま、私は父の家へ向かうことにした。今なら、さっきよりも小降りのうちに着けるかもしれない。
軽く身だしなみを整え、傘をさして外に出ると、落ち葉が雨に濡れて地面に張りついていた。踏みしめるたびにじゅ、と微かな音がする。
バスを降りて住宅街を抜け、見慣れた鉄製の門扉を押し開けると、ガラス戸越しにいつもの玄関が出迎えてくれた。

「天沢くーん?」

ドアを開けながら声をかけると、家の中に声が反響する。けれど、返事はない。

「あれ……?」

首を傾げながら、靴を脱いで中に入る。いつものように、リビングの方からコーヒーの香りが漂ってくることもなく、ソファの背にひょっこり頭を出している姿も見えない。

「天沢くん、いるー?」

もう一度呼びかけるが、やはり返事はない。
……今日は来てないのかな。少し寂しいような、不安なような気持ちを胸に、私は静かに父の作業部屋へと向かった。
扉を開けると、部屋いっぱいに紙とインクの匂い。小さいころから変わらない、父の仕事場の空気だ。私はそっとパソコンの前に腰を下ろし、長く息を吐いた。

ここへ来た理由は、ただひとつ。
漫画の進捗を確認するためだ。
最近は、天沢くんに「いちゃいちゃしすぎです」と遠回しに叱られてしまって、それ以降、時折こうして自分で原稿をチェックしに来ることになってしまった。

「……さて、今日はなにが描かれてるのかな……」

苦笑しながら、ディスプレイを立ち上げる。
デスクトップには見慣れたフォルダが並んでいて、その中にある一つをクリックする。
「進行中」の名前がついたフォルダを開くと──新しくアップされたばかりのファイルが、二件。日付は今日の未明。そっとマウスを動かして、ファイルを開くと、画面が切り替わり、白黒の世界が広がった。

一コマ目に描かれていたのは、裁判所のシーン。
傍聴席には表情を堅くした人々。中央に立つのは、あの犯人。証言台の前に静かに立ち尽くす彼の表情には、悔恨も動揺もなかった。判決を言い渡す裁判長のセリフが、静かに描かれている。

──「主文。被告人を、死刑に処する」

死刑──その言葉の響きは、どこまでも重い。
画面をゆっくりとスクロールしていくと、傍聴席にいた安室さんが静かに目を伏せている描写があった。
どこか、すべてが終わったような。あるいは、何かを抱えて、それでも前に進もうとしているような……そんな表情。私は、手を止めたまましばらく画面を見つめていた。

……安室さんの言った通りに、物語は進んでいる。
窓の外のどんよりとした天気と重なって、複雑な気持ちもあるけれど、安堵の方が少しだけ勝っている気がする。

「……終わったんだ、ほんとうに……」

長かった。いろいろなことがありすぎて、どこから振り返ればいいのかわからない。
でも確かに、ひとつの終わりが、ちゃんと描かれた。それがただ、嬉しいとか、ほっとしたとか、そんな単純な感情では言い表せないものだった。
背もたれに身を預け、深く息をついたそのとき──

「りか」
「──っ……!」

突然、背後から名前を呼ばれた。
その瞬間、心臓が跳ね、内臓がきゅっと縮む。穏やかだった呼吸が、急に荒くなった。
え、今……?
誰もいなかったはずの家。インターホンも鳴っていないし、扉の開閉音も聞いていない。だけど──確かに、自分の名前が呼ばれた。しかも、聞き間違えるはずのない、懐かしい声で。

恐る恐る振り返る。そして、固まった。
部屋の扉の前に、ひとりの人影が立っていた。
逆光で顔が陰になっていたけれど、その輪郭と立ち姿に見覚えがありすぎて──思考が止まった。ずっと、病室のベッドに横たわっていたはずの人が。眠り続けていたはずの、その人が──

「…………お、お父さん……?」

口が自然に動いていた。けれど、声は頼りなく震え、舌の奥がしびれたようにうまくまわらない。
現実なのか夢なのか判断できないまま、瞬きを繰り返す。消えない。幻じゃない。何度まばたきしても、父はそこにいる。

「……どう、して……」

息を吸うのも忘れていた。喉の奥が詰まり、頭の中がざわざわと騒がしくなる。

「目が……覚めたの?病院は……っ、まさか……抜け出して……!?」

矢継ぎ早に口から出た言葉は、理屈も整っていないのに止められなかった。混乱と戸惑いで、心臓の音ばかりが耳の奥で大きく鳴る。

「…りか」

もう一度、父の声がした。
今度は、まっすぐに。はっきりと私の名前を呼んだ。その声に──張り詰めていた何かが、音もなく崩れる。

「……お、お父さん……っ!!」

私はそのまま、駆け出していた。椅子を後ろに弾いて、床を蹴った足音も聞こえなかった。
ただもう、どうしようもなく父に触れたくて、その温もりを確かめたくて──気づけば、その胸に飛び込んでいた。

「……っ……よかった……っ、ほんとに、よかった……!!」

言葉にならない嗚咽が、喉からこぼれた。
顔を押しつけた胸元に、確かな鼓動と体温があった。
懐かしい香り、長い間感じていなかったぬくもりに、涙が一気に溢れ出す。

「っ……目が、覚めてくれて……ほんとに、よかった……っ……」

顔を埋めたまま、子どものように泣いた。心の奥に押し込めていた不安と孤独が、堰を切ったように溢れ出す。
父は無言のまま、私の背にそっと手を回し、優しく抱きしめてくれていた。まるで、何もかも知っていたかのように。まるで、はじめから、ここに来るつもりだったかのように──
私はしばらくの間、父の胸の中で泣いていた。安堵と混乱が入り混じった感情が、抑えようとしてもこぼれ落ちていく。体を抱きしめる腕の温かさが、あまりにも現実的で、私はようやく「父が目を覚ました」ということを、心の底から実感しはじめていた。

どれくらいそうしていただろうか。ようやく少しだけ落ち着きを取り戻した頃、私はそっと父の胸から顔を離した。

「……顔色、大丈夫そうだね」

涙で潤んだままの視界の中で、父の顔をまじまじと見つめる。まだほんのりと青白いものの、きちんと二本の足で立っている。目の焦点もしっかりしているし、表情にぼんやりとした様子もない。
夢のようだけど、何度瞬きをしても、父はちゃんとそこにいる。

「無理しないで、ソファまで行こう?長く眠ってたんだから、いきなり動いたら危ないよ」

私は父の腕を取って、そっと身体を支えた。父は頷きながらも、どこか戸惑いの色を滲ませたまま歩き出す。
リビングまでの短い距離を、私は一歩一歩、確かめるように歩いた。傍らの父の足取りがしっかりしていることに、また一つ、心の奥がほっと緩む。

「ほら、ここ。座って」

ソファに促すと、父は素直に腰を下ろした。その動きも、どこか夢遊病者のようにぎこちないが、意識は確かなようだった。私はその隣に腰を下ろし、もう一度父の顔を覗き込む。

「……体の調子は?どこか痛いとこない?ふらついたり、気持ち悪くなったり……」

少しでも異変があれば、すぐにでも病院に連れ戻す。私はすでに、頭の中でその後の動線をいくつも想定しながら尋ねた。

「……大丈夫だと思う」

父はそう言ったけれど、その声にはかすかな掠れが混ざっていて、本当に大丈夫なのか不安が残る。

「もう……ほんとにどうして、病院から抜け出すなんてこと……!」

私は思わず声を上げた。
嬉しさよりも心配が勝ってしまったのか、言葉がつい棘を含んでしまう。

「あ、病院に一旦連絡──」

そう言いかけたときだった。
スマホを取ろうと立ち上がろうとした私の手首を、父がそっと掴んだ。驚いて動きを止めると、父はほんの少しだけ困ったような表情を浮かべている。

「まず……水をくれないか。喉が……渇いてな」
「……わかった。じゃあ、水飲んで、少し落ち着いたら……ちゃんと病院に戻ってね」

その言葉に、私は一瞬戸惑いながらもすぐに頷いた。父に背を向けてキッチンに立ち、コップに水を注ぎながらふっと息をつく。
……あんなに長く眠っていたのに、こうして急に目を覚ますなんて。やっぱり、過労だけじゃないのかもしれない。一度ちゃんと精密検査をしてもらわなきゃ。せっかく目覚めたんだ、もう二度とこんなふうに眠り続けてしまうことのないように。
私は静かに決意しながら、グラスを手にソファへ戻った。

「……はい、水。…お父さん、精密検査もう一度受けよう。今なら意識があるから、もっとちゃんとした検査も受けられると思う」

コップをローテーブルに置きながら、私はそっと言った。
父はゆっくり手を伸ばし、それを受け取った。ゴクリと喉を鳴らして水を一口飲むと、その視線がふと宙に泳ぐ。

「……俺は……どうやって、ここに戻ってきたんだ?」

その言葉に、私は一瞬だけ言葉を失った。

「……安室さんが、助けてくれたの覚えてない?お父さんが最初に考えていた“犯人を抹消する”っていう筋書き……それを、彼が実行してくれたの」

言いながら、自分でもその言葉があまりに荒唐無稽に聞こえてしまって、苦笑いを堪えた。

「それならもう、犯人が現実に干渉してくることもないし──って。……本当は、もっとちゃんと説明したいんだけど……」
「……安室さん?」

父が、そこで不思議そうに言葉を挟んできた。その眉間には深い皺が刻まれていて、まるで見知らぬ人間の名前を聞いたような反応だった。
私はハッとする。──そうだ、お父さんはずっと眠っていたんだ。記憶が飛んでしまっても不思議じゃない。今の私の話だって、唐突すぎたかもしれない。

「……また来たの、こっちの世界に。安室さんが」

私はそっと言葉を選びながら続けた。

「最近は、何度も向こうとこっちを行き来するようになって……」

そこまで言いかけたときだった。
父が、まるで何かに追い詰められるように、急に頭を抱えて震えだした。

「……な、何が何だかわからない……」

その言葉に、私は息をのんだ。
無理もない。おそらく、誘拐されるような形で漫画の世界へ連れて行かれて、長い間眠り続けていたのだ。意識が戻ったばかりで、現実に順応するにはあまりに情報量が多すぎる。

「……お父さん」

私は再び父の隣に腰を下ろし、そっと震える背中を撫でた。骨ばった肩が、びくりと一度跳ねて、それから少しずつ力を抜いていくのがわかる。

「今は、なにも考えなくていいよ。……とにかく今日は、ゆっくり休んで」 

そう声をかけると、父は小さく頷いた。けれど、その次に漏れた言葉は、私の胸の奥をそっと突いた。

「……安室透は?あいつは、今どこにいる……?」

その問いに、私はまっすぐ父の目を見て、小さく息をついた。

「また戻ったよ」
「……漫画の中に?」
「うん。……いつも長くても、1時間くらいしかいられないの」

その言葉を発した直後だった。
パンツのポケットの中で、スマホが震えた。取り出すと、画面には「天沢くん」の文字。ちょうどよかった。このことを早く、天沢くんに知らせてあげよう。きっと喜ぶだろうな。そう思いながら、その着信に私は応じた。

「もしもし、天沢くん?」
『っ、りかさん!?今どこにいますか!?』

しかし想像に反して、ひどく焦った息遣いが耳に飛び込んできた。思わず心臓が跳ねる。

「え?どこって、お父さんの家だけど……。どうしたの、そんなに焦って──」
『先生が目を……!』

そのとき、天沢くん言葉の続きを待つより早く、背後から別の声が重なった。

「……なんだ。安室透はここにはいないのか」

その声音は、凍てついた氷のようだった。
背筋が一気に逆立つ。まるで別の誰かが喋っているかのような、ぞっとするような冷たさ。私の動きが止まり、震える指が、スマホをぎゅっと握りしめた。

振り返ると、そこには──
さっきまで力なく寄りかかっていたはずのソファに、悠々と背を預けて、ふんぞり返るように父が座り直していた。ただ、冷静に、すべてを見下ろすような目つきでこちらを見ている。

「待って損したな」

ふっと口元を吊り上げて、乾いた声でそう言った。手元のグラスを持ち上げ、一気に残りの水を飲み干す。

「……え?」
『りかさん!?聞こえてますか!?病院に来てください、先生が──』

ようやく口から漏れたのは、蚊の鳴くような小さな声。その間も、スマホの向こうでは天沢くんの声が響いていた。けれど、もう私の耳には、それすらまともに届かない。喉の奥に、何か冷たいものが詰まっていく感覚。
目の前の“父”が、ゆっくりと立ち上がった。

「俺の作戦はこうだった。せっかくだから、お前と安室透、両方まとめてこの機会に消してやろうってな」
「……っ、おとう、さん……?」

その言葉がやっとこぼれたとき、声がぶるぶると震えていた。
おかしい。何かが、明らかに違う。だけど信じたくない。ここにいるのは、あんなに何度も病室に通って心配してきた、私の“父”のはずなのに──。

「お父さん…?この俺が?」

その声は嘲るような調子で、容赦なく言葉を叩きつけてきた。

「お前は、本当に都合のいい女だ。顔が同じってだけで信じて、泣いて、安心して──。バカみたいに」

その瞬間、握っていたスマホが力を失って、がしゃんと床に転がった。
背筋が急激に冷えていく。まるで高いところに立っていて、気づかないうちに足場がなくなっていたような感覚。

「……やっぱり、失敗だったな。待つまでもなかった」

“父”がパーカーの内ポケットに手を入れた。その瞬間、私の呼吸が止まる。
カチリ、と小さな金属音。銃口が、目の前に現れた。現実だと、信じられなかった。けれど、あまりにも静かで、あまりにも生々しい“音”が、それを現実だと否応なく突きつけてくる。

「っ……!」

足がすくんで、体が凍りついたまま動かない。
一歩、また一歩と後ずさった拍子に、腰にダイニングチェアが当たる。そのまま脚を取られ、私は尻餅をついた。肘が床にぶつかって痛みが走ったが、それすら感じる余裕もない。

「お前が絵を描いたせいで、物語が台無しになった」

その一言が、頭蓋の奥を鈍く叩いたような衝撃となって広がっていく。私は、呆然とその場に座り込んだまま、目の前の“父”を見上げていた。
言葉が理解できないわけじゃない。でも、意味がわからなかった。この人が、今、なにを言っているのか──。

「死ぬはずの安室透を、何度も助けて。かくまって……お前は、まるであいつの救世主気取りだったよな」

男の口から出るひとつひとつの言葉が、私の胸を切り裂くように突き刺さっていく。

「気色悪いくらいだよ。感情を与えられたキャラクターなんかに、そこまで入れ込んで」

私は震えていた。足が、膝が、腕が、唇が──すべてが言うことを聞かなかった。
何が起きているのか、本当はもうわかっている。目の前のこの“人間”は、父じゃない。だけど、どうしても、心がそれを認めようとしなかった。
顔も、声も、癖も、歩き方さえも──ずっと、眠っていた父と寸分違わない。なのにこの人は、拳銃を持って、私に向かってそれを突きつけている。

「お前がまた奴を目覚めさせてしまった。せっかく“あの世界”がただの漫画だということを忘れてくれていたのに。──全部、台無しだ」

犯人の言葉は途切れることなく流れてくるのに、私はそれに反応することもできず、ただ呼吸をすることだけに必死だった。脳に酸素が届かず、視界の端がにじんでいく。

「お前さえいなければ……あいつはとっくに殺せていたんだよ。何度、俺の筋書きをぐちゃぐちゃにしたと思ってる」

拳銃の先で、自分の頭をくしゃくしゃと掻くような仕草。狂気じみたその動きに、喉の奥から声が漏れそうになる。

「どう、し……て、おとう…さ……」

かすれた声でそう呟いた。
でも、その目は──私の知っている父のものではない。

「久しぶりだな、宮間りか」

そう告げられた瞬間、世界が音を失った。
銃口が、ほんの数メートル先で、私の命を奪う準備をしている。それなのに私は動けない。逃げる隙など与えない位置。扉も遠い。窓は固く閉ざされている。
私は、今ここで──殺されるのかもしれないと。

「……俺は、ここに来て、お前たちの“物語”を全部読んだよ」

怖い──。肌の内側からじわじわと冷気が這い上がってくる。頭は回らないのに、心臓だけが全力で鼓動を打ち続けている。
なのに、目の前の“父の顔をした男”は、それとは対照的に、冷たい笑みを浮かべたまま一歩、また一歩と近づいてくる。まるで、追い詰められた獲物をいたぶるような足取りで。

「ここと向こうを、どうやって行き来してるのかもな。……理解さえしてしまえば、造作もない話だった。俺にでもできる」

笑いながら、男の手がするりと伸びてきた。その指が、私の額の上の髪をわしづかみにする。

「……ッ!」

鋭い痛みに、反射的に顔をしかめる。頭皮が引っ張られ、視線が無理やり上を向けさせられる。
すぐ目の前に、男の顔。父とまったく同じ形の目。眉。口元。けれど、その奥に宿っている光だけが、決定的に違っていた。

「さあ、俺と行こうか……?“夫”を探しに、さ──?」

息が止まりそうになった。その言葉の意味が脳内に染み込む頃には、全身がこわばっていた。

「やめて……やめて、お願い……っ」

震える声が、喉の奥から漏れる。
でも、男はそんなもの聞く耳を持たなかった。ぐっと、腕を掴まれる。手首が、簡単に男の力に絡め取られてしまう。

「離して……!いや……!」

声が裏返る。振りほどこうとするが、力の差は歴然だった。
男は私を引きずるようにして歩き出した。そのまま、廊下を横切り、父の作業部屋へと。
恐怖で膝が震え、つま先がまともに地を蹴れない。けれど容赦なく腕を引かれ、ズルズルと床を擦るようにして部屋へと連れて行かれる。

「やめて……やめて……っ!!」

叫んでも無駄だった。男はひとことも返さず、無言のまま机の上のタブレットに手を伸ばすと、ためらいなく電源ボタンを押した。

──ピッ

それだけの音が、世界を変えた。
画面が一瞬、暗転し、その直後、まばゆい光が爆発するように広がった。

「や──……っ!!」

言葉にならない声が喉の奥で詰まる。
視界が白に染まり、床が傾くような感覚。
空間がねじれ、重力が消え、全身が光の渦に吸い込まれていく。

意識がどこか遠くに引き剥がされる。

そして、ほんの一秒後には──もう、どこにも現実の風景はなかった。



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